へぇ25%も生存率があるのか。そりゃすごいや。それでは100年後の生存率0%の私が、読んで良かったと思った『よのなかのルール』宮台真司著「意味なき世界をどう生きるか?」より抜粋。
あなたは、「この世界に意味はあるのか」とか、「人生って何のためにあるの」とか思ったことがあるでしょうか。ここでは、自殺した一人の青年ののこしたノートを通して、「生きる意味」について考えてみたいと思います。
世界が無意味なら自殺するのか
何が2人を分けたのか
1997年5月、僕の本の愛読者だったという自殺した青年、A君の取材のため新潟へ行ってきました。
《略》
A君は中学生になると、B君に「すべては無意味じゃないか」と問い掛けるようになります。どんな会話も先が読める。こう言えばこう返すと分かる。何をすればどうなるのか分かる。そういうふうに言うと、友だちの多くは「そんなことはない、意味はちゃんとある」と答えますが、B君だけは「当たり前さ、世界に意味なんかない」と答えます。そのことが理由で、それから以降2人は親友同士になります。
A君は少女みたいなカワイイ外見ですが、B君はまっ金々の髪にピアスのストリート風。2人とも見栄えも頭もいいので、つるんでナンパをすると成功しまくったようです。はたから見ると欠けたところがなく、しかし「世界は無意味だ」と納得するという共通項をもった2人ですが、高校を卒業して、A君は上京して大学に進学する道を選び、B君は大学に行かないで地元で就職する道を選びます。この時点で初めて2人の違いが明らかになりました。
A君は「東京に『実験』しにいく。確かめたいことがある」と言うのに対し、B君は「地元でできないことが東京でできるとは思わん」と返します。そんなB君に、A君は「どうしておまえは伸びきっとゴムのようでいられるんだ」と呟いたといいます。2人の違いはこんなふうに言うとわかりやすい。A君は「人生はそこそこ楽しい、でも世界は無意味だ」と言うのに、B君は「世界は無意味だ、でも人生はそこそこ楽しい」と言う。2人は似ているようで、決定的に違うのです。
東京に出てきたA君は、路上ナンパやテレクラや風俗を通じて、数多くの女性たちと匿名的に(名前を隠して)出会い、交流して、各女性たちの「カルテ」を記録していました。会話のノリ、相手の自尊心や劣等感など、いろいろ記していますが、面白いのは、相手からもらったものと自分が与えたものととの「収支決算」が書いてあること。つまり、自分の方が楽しめたと思った場合は黒字、相手の方が楽しんだと思った場合は赤字、ということです。いつも赤字でした。相手を楽しませる割には、自分自身が楽しめない苦悩が滲んでいるようです。
自殺する2週間前、A君はテレクラを通じて、Cさんという同じ年頃の女性と出会います。リストカットなどを含めて自傷癖(自分を傷つけて自分の存在を確かめる傾向)のある子で、決して「軽い」子ではありませんでしたが、A君は、Cさんの豊かな感情の幅や、肩書きや身分とは無関係に、相手の本質と向き合ってコミュニケーションする力に驚嘆し、「自分は理想的な女性に出会った」とノートに記しています。しかしその直後、A君は自殺するのです。
知り合いの心理学者に「理想的な人間に出会って死にたくなる、などということがありうるのか」と尋ねました。答えは「ある」。単に理想を思い描いていた段階から、理想が現実に存在することを知る段階に進むと、かえって自分が理想から遠いことが深い絶望を引き起こすことがあると言うのです。A君はおそらくCさんに「無意味な世界をそこそこ楽しく生きられる」理想的存在を見出し、自分を振り返って絶望したのではないかと言うのです。
A君は、目標に向かって突き進んでいて、それが挫折したのではありません。つまり「意味を求めて得られなかった」のではない。彼は小さいころから、無意味を納得しています。むしろ彼は「意味の無い世界を、どう生きたらいいか分からずに」苦しんだのだと思います。A君の悩みは、実はかつての僕自身の悩みでもありました。だから人が無意味な世界をどう生きていくのか知りたくて、A君と同様にテレクラにはまった過去があるのです。
「人生はそこそこ楽しい、でも世界は無意味」というA君。「世界は無意味、でも人生はそこそこ楽しい」というB君とCさん。実は似たような違いを、僕は別な場所で経験してきています。僕は、いろいろなところで講演するのですが、そこで意味にすがって生きる者たちはの「意味の空洞ぶり」を指摘して叩きのめすようなことを、続けてきています。すると、女の子の多くは「やっぱり自分が思っていた通りだったんですね」となるのに、男の子の大半は「僕はどうやって生きればいいんですか」なるのです。
その理由を、僕はこんなふうに考えています。男は以前から、天下国家のため、立身出世のため、世のため人のために生きることになっていました。意味追求的な生き方が推奨されていました。でも右肩上がりの近代過渡期(重化学工業が急展開し、都市化が進んでいく時期)になると、そういう生き方は難しくなっていきます。
頑張れば、国も地域も会社も家族も自分も豊かになるという時代は終わりました。これ以上豊かになる(ために頑張る)ことよりも、コミュニケーションを今ここで楽しめるような生き方が重要になってきます。もしもし女の子は、天下国家や立身出世から見放されていたこともあって、「今ここ」のコミュニケーションを楽しんで生きることの達人です。ところが男の子は「意味のゲタ」の歯が折れて、右往左往せずにいられません。
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こうして比較してみると、成熟社会を生きるために男の子が学ぶべき課題がはっきりしてきます。遠い未来のために現在を、不透明な社会のために自分を、犠牲にするのはヤメて、「今ここ」を楽しく充実して生きるべきこと。「今ここ」で世界と自分の折り合いをつけるために--世界とシンクロするために--いろいろと試行錯誤するべきこと。そういう努力を積み重ねることで、男の子は、ようやく女の子に追いつくことができます。
「意味」の充実とは別の種類の濃密さを「強度」と言います。これはポスト構造主義という哲学の概念で、フランス語でアンタシンテ、英語でいうとインテンシティ(intensity)の訳語です。「密度」とか「濃密さ」と訳したほうが分かりやすいかもしれません。もっと簡単に言えば、意味とは〈物語〉、強度とは〈体感〉に相当しています。なぜなら、〈物語〉は過去から未来につながる時間の展開が重要ですが、〈体感〉は「今ここ」が重要だからです。
これはもともとは、19世紀の哲学者ニーチェの「生の歓喜」という概念にルーツがあります。ニーチェは、「意味が見つからないから良き生を送れないのではなく、逆に、良き生を送れていないから意味にすがろうとするのだ」と言いました。そういう生き方は、2000年前に出現したキリスト教が「生きることの意味を考えはじめた」ところから始まると考え、そういう生き方しかできない人間たちのことを「弱者」と呼んで、軽蔑しました。
たしかに僕たち自身を振り返ってみても、僕たちの歓びの大半は、意味とは関係ありません。レシピ(うんちく)に意味があるからこのラーメンは美味しい、という人がいたら可笑しいでしょう。踊って気持ちがいいのも、意味があるからではありません。ゲームで興奮するのも、スリルやスピードが気持ちいいのも、意味とは関係ありません。ただひたすらに楽しく、気持ちよく、充実しているわけです。
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昔は、「意味を求めても得られない」人が追いつめられました。今は、自殺したA君のように、「強度を求めても得られない」人が追いつめられます。今の若い人たち、とりわけ激しい受験をして一流校に進学する人たちを見ると、A君のように追いつめられないのは、強度を獲得できたからではなく、逆に、単に問題を「先延ばし」しているからです。もしかすると意味が無いのではないかと思いながら、勉強で時間をつぶして、先延ばしする。
僕から見ると、先延ばしするのは非常に危険です。先延ばししても何もありません。何かあるという状態に到達できる人は、一握りだけです。受験戦争の勝者が一握りなのもありますが、ダウントレンドの成熟社会では「いい学校・いい会社・いい人生」という安全な道が必ずしも期待できないからです。先送りせず、若い時分から試行錯誤して、世界とうまくシンクロして強度を引き出すやり方を身につけないと、将来確実につらいことになります。
《以下略》
へぇ25%も生存率があるのか。そりゃすごいや。それでは100年後の生存率0%の私が、読んで良かったと思った『よのなかのルール』宮台真司著「意味なき世界をどう生きるか?」より抜粋。