古墳時代の殉葬者と関連するとされる「シクの村」と呼ばれる地域が奈良県にあるそうですが、この点について伝承などご存じのことを教えてください。また、卑弥呼との関連の有無についても気になります。

回答の条件
  • 1人2回まで
  • 登録:2009/10/12 15:55:26
  • 終了:2009/10/14 23:27:01

ベストアンサー

id:nozomi_private No.5

nozomi_private回答回数93ベストアンサー獲得回数92009/10/13 19:32:32

ポイント150pt

おそらくは全国に広がった古墳の墓守だと思います。

こちらに大和の国大塚村(塚は一般に古墳を指します)のシクという記述が出てきます。

http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50571457.html

【大館高門曰】我一とせ在京の砌大和國廣瀬郡大塚村のシクと餌取(ゑた)と氏神の事に付て争論ありて訴訟に及ぶ其時シクの方が利運のよしに御裁許ありと聞ぬ尤此シクは塚守の由緒の者のよし氏神とは古墳の謂なりとぞ【正生考】シクとは祝人の事にや【小塚直持曰】シクは守戸(シュコ)の轉聲なるべし諸陵式に守戸五烟三烟などあればなり          

「祝人」とは「ハフリ」と読み、神官です。

http://gejirin.com/src/Ha/hafuri.html

ハフリ・ホフリ

推測するに、「侍る(はべる)」→ はぶる →はふる。 宮に侍る人=ハフリ。

しかし「ハフリ」と「ホフリ」はおそらく別。

【祝】ハフリ -広辞苑より-

神に仕えるのを職とする者。 普通には禰宜(ねぎ)の次位で祭祀などに従った人。 はふりこ。 はふりと。

【葬り】ハブリ -広辞苑より-

ほうむること。埋め祭ること。ほうむり。葬送。

【屠り】ハフル・ホフル -広辞苑より-

祝人は、こちらを見る限り、一般に神官としての職務を行っていたようです。

http://gejirin.com/src/dic/DIC_O.html

ムメ大宮の祝人・穂積のオシウド(勅使)にヰツアサマ御子とヤマスミの四神をヤスガハラに遷すように命じる(冨知神社)。

http://gejirin.com/src/dic/DIC_Su.html

孝安92年春にスルガ宮のハフリがヤマトタリヒコクニ(6代孝安天皇)にハラの絵(富士の絵)を奉るが、天皇は興味を示さず受け取らなかったという。 

■その後スワのハフリ(祝人)がオオヤマトフトニ(7代孝霊天皇)に再びハラ山の絵を奉っている。 同じ物と思われる。

『九十二年 春 スルガ宮 ハフリ ハラの絵 奉る 御子 申せども 君 受けず』31紋

『翌日十二日 朝 スワハフリ ハラ山の絵を奉る 君 これを褒む』32紋


そもそも諏訪神は古来、風の神として有名で、諏訪大社にはかつては風の平穏を祈る専門職として風祝(カゼハフリ)というものが置かれていた。 

こちらは北関東、神職としての記述が出てきますが、古墳守としての機能も確かにあったようです。

http://mukidouan.exblog.jp/7941544/

 「祝人」は「はふり」と読むんさね。

・・・

何でも「祝人」(はふり)は「神主」のような意味あいらしい。

wikipediaでは

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E9%A3%9F

ほいど(ほいと)。祝人(ほぎ人)が転訛したもの。神楽、獅子舞などの縁起者が物乞いも行っていた事から言われるとされる。

とあるのですが、神職のハフリとはまた別に被差別対象がいたのか、ハフリの一部が被差別対象になったのかはわかりませんでした。



一方、守戸(シュコ)ですが、

http://www.geocities.jp/rois_77/outo-nendai-hi3.htm

宝亀 9年 778

3月23日 淡路廃帝(淳仁天皇)の墓を山陵と称し、生母大夫人当麻山背の墓を御墓と改称。守戸を置く。

とあります。

祝人、ハフリは神職として(被差別対象ではなく)機能していたようなので、こちらの方がおそらく「シク」なのではないかと思います。

「延喜式」の記述をいくつか。

http://shimin-kyodo.sakura.ne.jp/bungei/aichikogan/tokaido157.ht...

日本武尊。在伊勢国鈴鹿郡。兆域東西二町。守戸三烟

http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage945.htm

贈一位田口氏、同天皇外祖母、在河内国交野郡、兆域東西三町、南北五町、守戸二烟

http://mblog.excite.co.jp/user/barakan1/entry/detail/?id=4832971

皇后井上内親王、大和国宇智郡に在り兆域東西十町、南北七町、守戸一 烟

これを見る限り、国家が制度としておいたもののようです。

こちらを見ても(大和地方だけでなく)全国に配置されたようです。

http://www.dbpia.co.kr/view/ar_view.asp?pid=740&isid=34504&arid=...

“別記云, 常陵守及墓守, 并八十四戸, 倭国卅七戸, 川内国卅七戸, 津国五戸, 山代国五戸, 免調徭也, 公計帳文莫納, 別為計帳也. 借陵守及墓守, 并百五十戸, 京二十五戸, 倭国五十八戸, 川内国五十七戸, 山代国三戸, 伊勢国三戸, 紀伊国三戸, 右件戸納公計帳文, 而記借陵守也(『令集解』巻第4, 治部省 諸陵司条の古記い引用された別記)”という記録は守墓人を‘常陵守及墓守’と‘借陵守及墓守’として区分して各地域別に定員を規定している点で碑文の記録方式と同じである

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/90885/m0u//

古代、陵墓の守営にあたった戸。陵戸の足りないとき、近隣の良民から指定された。

とありますし、上の記述を見ても神職ではなく普通の良民、墓を守るために配置された人々のようです。

被差別問題については、以下のような事件があったようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%83%A8%E8%90%BD

麓に神武天皇陵(ミサンザイ古墳)を見据える畝傍山の麓からやや上方にかけて、かつて洞(ほら、大和国高市郡白橿村大字山本枝郷洞)と呼ばれる村が存在した。

この村は、神武陵の南手、ちょうど同陵を見下ろす場所に位置する、嘉永7年(1854年)の時点でおよそ120戸、大正9年(1920年)の時点でおよそ200戸を数えた、同陵墓の守戸―いわゆる墓守の集落と伝わる村で、被差別部落であった。

やはり被差別民であった夙と同一視する見方もあるようですが、定説として確定はしていないようです。

(上記の史料を見ると、紀伊にも伊勢にも置かれているようなので、否定の根拠とされた「シュコは畿内以外にはいなかった」、という話とは食い違ってくるのですが)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%99

夙(しゅく、夙の者、宿の者)は、中世から近世にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民。

起源 [編集]

夙の起源として有力であったのが天皇の御陵番である「守戸」が転訛したという説である。これは幕末に北浦定政が提唱し、本居内遠が『賎者考』にて紹介[3]したものである。これに対して柳田国男は「毛坊主考」(『定本柳田国男集』第九巻)にてこの説を否定している[4]。大体、夙の分布は畿内の外、紀伊・伊賀・近江・伊勢・丹波・播磨・淡路に広がっており、一方守戸はほぼ畿内に限られていたため一致していないのである。

被差別問題との関係ではこういうことが言われています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E3%81%AE%E8%B5%B...

古代の賎民の業務には天皇陵の警備など皇族と関係の深いものが多かったことから、自分たちこそが天皇に最も近い民であると主張する人々もおり、

なお、守戸は律令制により定められた賤民ではなく、別の経緯から差別されたようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E8%B3%A...


ネットで拾えるものをいくつか出してみましたが、守戸(あるいは祝人)=シクだとすれば、畿内だけではなく広範囲に広がっていること、また制度としても中国や韓国と関連性が深いという研究もあることから、邪馬台国とはあまり関係がないのではないかと思います。

id:boatnov

大変詳細かつ専門的なご回答を頂き有難うございました。古代史に関してあまり知識がありませんので、ご回答中の資料等をもとに今後勉強させていただきます。洞村の件については最近知りました。被差別の起源についても関心を持っております。ちなみに奈良県の「シクの村」については子どもの頃から親から聞いており、一般的な被差別部落とは一線を画していて豊かな農村だったそうですが、一般の村民とは通婚しなかったそうです。詳細なご回答を頂き本当に有難うございました。大変勉強になります。改めてお礼申し上げます。

2009/10/13 23:00:22

その他の回答(5件)

id:rafting No.1

ラフティング回答回数2652ベストアンサー獲得回数1762009/10/12 17:42:52

ポイント5pt

「畿内説」の春成氏は、最新技術による研究で「奈良の箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは、間違いなくなった」との発表を行い大きな話題となりました。

奈良県のある村に、大昔の古墳時代、亡くなった偉い人と一緒に生きたままお墓に埋められた後で、こっそり脱出した人々の末裔が住んでいると伝えられている集落があったそうです。そこに住む人々は、”シク”と呼ばれ、一般の村の人々はそこの人々との婚姻は避けたそうです。

http://www.ytv.co.jp/takajin/research/20090719/form.cgi

箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳とも)は、奈良県桜井市箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられており、3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。建造時期や大きさなどから卑弥呼の墓に見立てられることも多いが、未だその確証は無い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B...

昔は王様が死ぬと奴隷たちは生きたまま墓の周りに埋葬された時代もあったそうですので、生き延びて脱走した人達も多かったのではないでしょうか?

id:boatnov

ありがとうございます。しかしながら、上の方のリンク先の記事は私自身が書き込んだものです。他に情報がありましたらお願いします。

2009/10/12 20:28:02
id:afurokun No.2

afurokun回答回数4647ベストアンサー獲得回数992009/10/12 18:14:29

ポイント2pt

奈良県のある村(母が女学生の頃)に、大昔の古墳時代、亡くなった偉い人と一緒に生きたままお墓に埋められた後で、こっそり脱出した人々の末裔が住んでいると伝えられている集落があったそうです。そこに住む人々は、”シク”と呼ばれ、一般の村の人々はそこの人々との婚姻は避けたそうです。戦後間もない頃、新米の教師として、奈良のある女学校に勤務したことのある父も、そのことは、知っていました。卑弥呼の墓に100人以上の人々が生き埋めにされたそうですが、もし箸墓が卑弥呼のお墓なら、その”シク”と呼ばれていた人々の中に卑弥呼の殉葬者の末裔が含まれていたかも.......その人々のお家に口伝で代々伝承された話の中に思わぬ貴重な史実があるかもしれません。権力の都合のいいように書かれた文献よりも、庶民の伝承の方に真実があったりして.......自称、卑弥呼の末裔より.......

http://www.ytv.co.jp/takajin/research/20090719/form.cgi

id:boatnov

ありがとうございます。しかしながら、この記事は私自身が上記リンク先に書き込んだものです。他に情報がありましたらお願いします。

2009/10/12 20:28:37
id:MEI-ZA-YU No.3

MEI-ZA-YU回答回数4734ベストアンサー獲得回数7512009/10/12 19:01:43

ポイント20pt

シクとは古代の大和で陵墓を作り、それを守った「守戸」の呼び名のようです。

古墳を守る為の人間が住んでいるくらいですから重要人物だったと推測できますが、

それが卑弥呼の墓だとまでは断定できないと思います。


こんなURLですが・・・

http://mentai.2ch.net/min/kako/988/988420242.html

470

>>451

「杜の都」ですが、

菊池山哉の本に、古代の大和で陵墓を作り、それを守った「守戸」のことが

記してあります。しかし東国には古墳の傍にその守戸がないとあります。

守戸は古代には「シク」と読んだとありますが、その後はたぶん「モリト」。

その名が宮内庁職員の陵墓管理者、守長、守部にひきつがれています。


http://74.125.153.132/search?q=cache:37-UXwIXyFwJ:www2.odn.ne.jp...

id:boatnov

ご回答ありがとうございました。古代の大和で陵墓に関わった人々がシクと呼ばれていたのですね。大変参考になります。巻向遺跡や箸墓などの初期古墳群の近辺なので、卑弥呼との関連が気になりました。

2009/10/12 22:29:11
id:sirotugu40 No.4

sirotugu40回答回数449ベストアンサー獲得回数142009/10/12 19:02:29

私の母(81歳)が奈良県出身でその父(私の祖父)が先祖代々からの土着大和人でした。母から卑弥呼さんや邪馬台国にまつわる

話は聞いたことがありませんが、子どもの頃から古墳にまつわる妙な話を時々きかされました。奈良県のある村(母が女学生の頃)に、大昔の古墳時代、亡くなった偉い人と一緒に生きたままお墓に埋められた後で、こっそり脱出した人々の末裔が住んでいると伝えられている集落があったそうです。そこに住む人々は、”シク”と呼ばれ、一般の村の人々はそこの人々との婚姻は避けたそうです。戦後間もない頃、新米の教師として、奈良のある女学校に勤務したことのある父も、そのことは、知っていました。卑弥呼の墓に100人以上の人々が生き埋めにされたそうですが、もし箸墓が卑弥呼のお墓なら、その”シク”と呼ばれていた人々の中に卑弥呼の殉葬者の末裔が含まれていたかも.......その人々のお家に口伝で代々伝承された話の中に思わぬ貴重な史実があるかもしれません。権力の都合のいいように書かれた文献よりも、庶民の伝承の方に真実があったりして.......自称、卑弥呼の末裔より.......

http://www.ytv.co.jp/takajin/research/20090719/form.cgi

id:boatnov

せっかく回答を頂きましたが、1および2の回答の開封・公開後相当の時間経過後の同一内容回答であり、ポイントを浪費してしまいましたため、不適切な回答とさせていただきます。

2009/10/12 20:26:30
id:nozomi_private No.5

nozomi_private回答回数93ベストアンサー獲得回数92009/10/13 19:32:32ここでベストアンサー

ポイント150pt

おそらくは全国に広がった古墳の墓守だと思います。

こちらに大和の国大塚村(塚は一般に古墳を指します)のシクという記述が出てきます。

http://blog.livedoor.jp/fura1738/archives/50571457.html

【大館高門曰】我一とせ在京の砌大和國廣瀬郡大塚村のシクと餌取(ゑた)と氏神の事に付て争論ありて訴訟に及ぶ其時シクの方が利運のよしに御裁許ありと聞ぬ尤此シクは塚守の由緒の者のよし氏神とは古墳の謂なりとぞ【正生考】シクとは祝人の事にや【小塚直持曰】シクは守戸(シュコ)の轉聲なるべし諸陵式に守戸五烟三烟などあればなり          

「祝人」とは「ハフリ」と読み、神官です。

http://gejirin.com/src/Ha/hafuri.html

ハフリ・ホフリ

推測するに、「侍る(はべる)」→ はぶる →はふる。 宮に侍る人=ハフリ。

しかし「ハフリ」と「ホフリ」はおそらく別。

【祝】ハフリ -広辞苑より-

神に仕えるのを職とする者。 普通には禰宜(ねぎ)の次位で祭祀などに従った人。 はふりこ。 はふりと。

【葬り】ハブリ -広辞苑より-

ほうむること。埋め祭ること。ほうむり。葬送。

【屠り】ハフル・ホフル -広辞苑より-

祝人は、こちらを見る限り、一般に神官としての職務を行っていたようです。

http://gejirin.com/src/dic/DIC_O.html

ムメ大宮の祝人・穂積のオシウド(勅使)にヰツアサマ御子とヤマスミの四神をヤスガハラに遷すように命じる(冨知神社)。

http://gejirin.com/src/dic/DIC_Su.html

孝安92年春にスルガ宮のハフリがヤマトタリヒコクニ(6代孝安天皇)にハラの絵(富士の絵)を奉るが、天皇は興味を示さず受け取らなかったという。 

■その後スワのハフリ(祝人)がオオヤマトフトニ(7代孝霊天皇)に再びハラ山の絵を奉っている。 同じ物と思われる。

『九十二年 春 スルガ宮 ハフリ ハラの絵 奉る 御子 申せども 君 受けず』31紋

『翌日十二日 朝 スワハフリ ハラ山の絵を奉る 君 これを褒む』32紋


そもそも諏訪神は古来、風の神として有名で、諏訪大社にはかつては風の平穏を祈る専門職として風祝(カゼハフリ)というものが置かれていた。 

こちらは北関東、神職としての記述が出てきますが、古墳守としての機能も確かにあったようです。

http://mukidouan.exblog.jp/7941544/

 「祝人」は「はふり」と読むんさね。

・・・

何でも「祝人」(はふり)は「神主」のような意味あいらしい。

wikipediaでは

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E9%A3%9F

ほいど(ほいと)。祝人(ほぎ人)が転訛したもの。神楽、獅子舞などの縁起者が物乞いも行っていた事から言われるとされる。

とあるのですが、神職のハフリとはまた別に被差別対象がいたのか、ハフリの一部が被差別対象になったのかはわかりませんでした。



一方、守戸(シュコ)ですが、

http://www.geocities.jp/rois_77/outo-nendai-hi3.htm

宝亀 9年 778

3月23日 淡路廃帝(淳仁天皇)の墓を山陵と称し、生母大夫人当麻山背の墓を御墓と改称。守戸を置く。

とあります。

祝人、ハフリは神職として(被差別対象ではなく)機能していたようなので、こちらの方がおそらく「シク」なのではないかと思います。

「延喜式」の記述をいくつか。

http://shimin-kyodo.sakura.ne.jp/bungei/aichikogan/tokaido157.ht...

日本武尊。在伊勢国鈴鹿郡。兆域東西二町。守戸三烟

http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage945.htm

贈一位田口氏、同天皇外祖母、在河内国交野郡、兆域東西三町、南北五町、守戸二烟

http://mblog.excite.co.jp/user/barakan1/entry/detail/?id=4832971

皇后井上内親王、大和国宇智郡に在り兆域東西十町、南北七町、守戸一 烟

これを見る限り、国家が制度としておいたもののようです。

こちらを見ても(大和地方だけでなく)全国に配置されたようです。

http://www.dbpia.co.kr/view/ar_view.asp?pid=740&isid=34504&arid=...

“別記云, 常陵守及墓守, 并八十四戸, 倭国卅七戸, 川内国卅七戸, 津国五戸, 山代国五戸, 免調徭也, 公計帳文莫納, 別為計帳也. 借陵守及墓守, 并百五十戸, 京二十五戸, 倭国五十八戸, 川内国五十七戸, 山代国三戸, 伊勢国三戸, 紀伊国三戸, 右件戸納公計帳文, 而記借陵守也(『令集解』巻第4, 治部省 諸陵司条の古記い引用された別記)”という記録は守墓人を‘常陵守及墓守’と‘借陵守及墓守’として区分して各地域別に定員を規定している点で碑文の記録方式と同じである

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/90885/m0u//

古代、陵墓の守営にあたった戸。陵戸の足りないとき、近隣の良民から指定された。

とありますし、上の記述を見ても神職ではなく普通の良民、墓を守るために配置された人々のようです。

被差別問題については、以下のような事件があったようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%83%A8%E8%90%BD

麓に神武天皇陵(ミサンザイ古墳)を見据える畝傍山の麓からやや上方にかけて、かつて洞(ほら、大和国高市郡白橿村大字山本枝郷洞)と呼ばれる村が存在した。

この村は、神武陵の南手、ちょうど同陵を見下ろす場所に位置する、嘉永7年(1854年)の時点でおよそ120戸、大正9年(1920年)の時点でおよそ200戸を数えた、同陵墓の守戸―いわゆる墓守の集落と伝わる村で、被差別部落であった。

やはり被差別民であった夙と同一視する見方もあるようですが、定説として確定はしていないようです。

(上記の史料を見ると、紀伊にも伊勢にも置かれているようなので、否定の根拠とされた「シュコは畿内以外にはいなかった」、という話とは食い違ってくるのですが)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%99

夙(しゅく、夙の者、宿の者)は、中世から近世にかけて近畿地方に多く住んでいた賎民。

起源 [編集]

夙の起源として有力であったのが天皇の御陵番である「守戸」が転訛したという説である。これは幕末に北浦定政が提唱し、本居内遠が『賎者考』にて紹介[3]したものである。これに対して柳田国男は「毛坊主考」(『定本柳田国男集』第九巻)にてこの説を否定している[4]。大体、夙の分布は畿内の外、紀伊・伊賀・近江・伊勢・丹波・播磨・淡路に広がっており、一方守戸はほぼ畿内に限られていたため一致していないのである。

被差別問題との関係ではこういうことが言われています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E3%81%AE%E8%B5%B...

古代の賎民の業務には天皇陵の警備など皇族と関係の深いものが多かったことから、自分たちこそが天皇に最も近い民であると主張する人々もおり、

なお、守戸は律令制により定められた賤民ではなく、別の経緯から差別されたようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E8%B3%A...


ネットで拾えるものをいくつか出してみましたが、守戸(あるいは祝人)=シクだとすれば、畿内だけではなく広範囲に広がっていること、また制度としても中国や韓国と関連性が深いという研究もあることから、邪馬台国とはあまり関係がないのではないかと思います。

id:boatnov

大変詳細かつ専門的なご回答を頂き有難うございました。古代史に関してあまり知識がありませんので、ご回答中の資料等をもとに今後勉強させていただきます。洞村の件については最近知りました。被差別の起源についても関心を持っております。ちなみに奈良県の「シクの村」については子どもの頃から親から聞いており、一般的な被差別部落とは一線を画していて豊かな農村だったそうですが、一般の村民とは通婚しなかったそうです。詳細なご回答を頂き本当に有難うございました。大変勉強になります。改めてお礼申し上げます。

2009/10/13 23:00:22
id:meefla No.6

meefla回答回数984ベストアンサー獲得回数4602009/10/14 03:40:12

ポイント100pt

奈良県公式ホームページ に、同和問題関係史料センター のページがあります。

ここの刊行物である リージョナル の第9号の記事、夙村の慨歎と深憂 (PDF)から、ご質問の件に関する興味深そうな部分をピックアップしてみます。


何頃ヨリカ他村ヨリ穢多村或ハシク村抔ト相唱

「シク村」という記述がありますが、抔=等ですから、夙村からすると正しい呼び方ではなかったのでしょう。


大意は、藩内夙村が「元貴種」でありながらいつのころからか穢多村同然と見なされるようになり

「元貴種」の理由は、脚注の③にあります。


夙村住人は垂仁天皇の時代に野見宿禰とともに埴輪を作って殉死人を救った土師部の末裔とするものである。

Wikipedia の 土師氏 もご参照ください。

「亡くなった偉い人と一緒に生きたままお墓に埋められた後で、こっそり脱出した人々の末裔」というのは、この土師部の末裔という由来から来ているものかもしれません。


また、

領内夙村が五条家との由緒を誇ることに困惑し

ともあり、

幕末になると金春家領では夙村住人が地代官になり

(P4下段)ですので、「一般的な被差別部落とは一線を画して」いたのは間違いないでしょう。


より詳しい情報は、奈良の被差別民衆史 を渉猟すれば得られるのですが、全部で321頁あるので私の力量(と検索に割ける時間)を超えています。

被差別の起源についての知識も得られるでしょうから、お時間のある時にご一読を。

ご参考になれば幸いです。

id:boatnov

大変良い資料を提示して頂き、有難うございます。奈良県出身の高齢の母から伝え聞いたところでは「シクの村の人々は古代の高貴な人の末裔なので、お金持ちが多く、特に他村から蔑みや差別を受けているわけではないが、結婚と深い交際は避けられており、それは古代の殉葬者の末裔と伝えられているから」というものでしたが、これらの事がご提示いただいた資料からよく理解できました。殉葬者の末裔というのもご指摘の通り、土師部の末裔という由来からかもしれません。期待していた卑弥呼との直接的な関連は無さそうですが、近代化以前の畿内の農村にいわゆるえた・非人以外の被差別グループと、複雑な差別構造が存在していたことを物語る貴重な資料でした。本当に有難うございました。

2009/10/14 23:22:33
  • id:mopet55
    私の知るシク村の云われには、シクの人々は土師氏の子孫ではありません。

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