「軍歌」とタイトルにあるので、平和を愛する皆さんには「え?!」と驚かれてしまうかもしれませんが、とりあえずお読みください。
「ソノシート」とは、アナログレコードの一種ですが、通常のレコードとは異なるペラペラの塩ビシートなどにプレスされたレコードのことで、薄く、柔軟性があって割れないので、雑誌にレコードを添付するなどのメディアミックス製品に多用されていました。
「ソノシート」という名称は朝日新聞社の関連会社だった朝日ソノラマという出版社(2007年会社清算)の商標で、同社は59年末より「音の出る雑誌」というキャッチフレーズの「月刊朝日ソノラマ」を刊行するなどして一世を風靡しましたが、その後は多数の会社が、懐メロや民謡、童謡、童話の朗読、テレビ主題歌、その他様々なテーマの「音の出る単行本」や「音の出る絵本」を刊行。60年代はソノシートの時代と言ってもいいくらい、たくさんの製品がリリースされていたようです。
そんな中に、「軍歌」のソノシートがありました。今私の手元にある物は祖父の家からお預かりしてきた物で、ジャケットは何ページにも及ぶ立派な本になっています。そこには歌詞だけでなく、曲の沿革や当時の時代背景などが詳しく説明されていて、なかなかの読み応えです。そして、数ページに1枚ずつのソノシート。ソノシートの保存状態はあまりよくなく、きっと何度も何度も繰り返しかけては聞いていたのでしょう、かなりノイズがひどくなっていましたので、PCで録音してデジタルデータ化してバックアップとすることにしました。
その作業中、それぞれの曲をじっくり聞きました。最初は単に資料的価値だけで作業していましたが、聴き込んでいくうちに、だんだんそれぞれの曲の本当の姿が見えてきました。
今「軍歌」と呼ばれている物の多くは軍隊のためではなく庶民のために作られた「戦時歌謡」とでも呼ぶべき歌で、戦時下の世相を反映してテーマは軍隊や戦争ですが、その内容はけっして戦争を礼賛するものばかりではなかったのです。
たとえば「戦友」。
此處は御國を何百里
離れて遠き滿州の
赤い夕陽に照らされて
友は野末の石の下
日露戦争を舞台に作られたこの歌は戦場で友を失った一兵卒の悲しみを歌ったもので、軍律に反して戦闘をかなぐり捨てて友の手当てを行う様子などが歌われています。こうした内容が軍規を乱すとして、太平洋戦争中、軍隊内では「禁歌」とされていたそうです。ある意味これは戦争の悲惨さをリアルに歌い上げる反戦歌でした。
「ラバウル小唄」
さらばラバウルよ
また來るまでは
しばし別れの涙がにじむ
戀し懷しあの島見れば
郷子の葉かげに十字星
ラバウル(ラボール)はニューブリテン島シンプソン湾を臨む都市の名で、太平洋戦争中は日本軍の占領下にありました。日本軍の一大拠点として陸海軍合わせて9万余名が駐屯。自給自足体制によって食料を確保するなどして、兵士たちは現地に「定住」するかのように過ごしていたといわれています。この歌はラバウルを生まれ故郷のように思いはじめていた兵士たちの帰還を歌ったもので、現地の女性との淡い恋心や別れの悲哀なども歌われています。兵隊はけっして殺人兵器なんかじゃない、やはり血の通った人間なんだと教えられます。
「麥と兵隊」
徐州徐州と人馬は進む
徐州いよいか住みよいか
しゃれた文句に振り返りゃ
お國訛りのおけさ節
髭が微笑む麥畑
この歌は、雑誌「改造」に連載された火野葦平の同名小説が評判となったことから、陸軍報道部の依頼によって作られた「国策歌謡」でした。
作詞は当時から多数のヒット曲を手がけていた藤田まさと氏。藤田氏は当初、出だしを「ああ生きていた/生きていた/生きていましたお母さん」としたそうです。ところが軍当局から「お国のために死ぬことが軍人精神だ」とクレームが付き、仕方なく「徐州徐州と人馬は進む」の歌詞に書き直したというエピソードが残っています。
藤田まさと氏は戦後もヒット曲を多数手がけていますが、その中に、未だ帰ってこない息子を待ち続ける母を描いた「岸壁の母」があります。本来なら「麦と兵隊」にも、息子を愛し安否を気遣う母心が歌い込まれるはずでした。
このように、「軍歌」と呼ばれる歌には、実は戦争の悲惨さを伝え、兵士といえども血の通った人間であることを歌い、戦時にあっても変わらぬ母の愛を歌い上げるなどしながら、ひたすら平和の訪れを待ち望む歌が少なくなかったのです。表面的にはいかにも戦争礼賛の歌のように聞こえますが、真実はその逆でした。
私は多数のレコードやCDをコレクションしています。いつかそれを博物館的に公開するのが夢ですが、その多数のコレクションの中でも特にこのソノシートを、戦後に刊行された物ではありますが、戦時にあって平和を待ち望んだ人々の心を伝える物として、大切に保存し、未来に伝えていきたいと思っています。
「軍歌」とタイトルにあるので、平和を愛する皆さんには「え?!」と驚かれてしまうかもしれませんが、とりあえずお読みください。
「ソノシート」とは、アナログレコードの一種ですが、通常のレコードとは異なるペラペラの塩ビシートなどにプレスされたレコードのことで、薄く、柔軟性があって割れないので、雑誌にレコードを添付するなどのメディアミックス製品に多用されていました。
「ソノシート」という名称は朝日新聞社の関連会社だった朝日ソノラマという出版社(2007年会社清算)の商標で、同社は59年末より「音の出る雑誌」というキャッチフレーズの「月刊朝日ソノラマ」を刊行するなどして一世を風靡しましたが、その後は多数の会社が、懐メロや民謡、童謡、童話の朗読、テレビ主題歌、その他様々なテーマの「音の出る単行本」や「音の出る絵本」を刊行。60年代はソノシートの時代と言ってもいいくらい、たくさんの製品がリリースされていたようです。
そんな中に、「軍歌」のソノシートがありました。今私の手元にある物は祖父の家からお預かりしてきた物で、ジャケットは何ページにも及ぶ立派な本になっています。そこには歌詞だけでなく、曲の沿革や当時の時代背景などが詳しく説明されていて、なかなかの読み応えです。そして、数ページに1枚ずつのソノシート。ソノシートの保存状態はあまりよくなく、きっと何度も何度も繰り返しかけては聞いていたのでしょう、かなりノイズがひどくなっていましたので、PCで録音してデジタルデータ化してバックアップとすることにしました。
その作業中、それぞれの曲をじっくり聞きました。最初は単に資料的価値だけで作業していましたが、聴き込んでいくうちに、だんだんそれぞれの曲の本当の姿が見えてきました。
今「軍歌」と呼ばれている物の多くは軍隊のためではなく庶民のために作られた「戦時歌謡」とでも呼ぶべき歌で、戦時下の世相を反映してテーマは軍隊や戦争ですが、その内容はけっして戦争を礼賛するものばかりではなかったのです。
たとえば「戦友」。
日露戦争を舞台に作られたこの歌は戦場で友を失った一兵卒の悲しみを歌ったもので、軍律に反して戦闘をかなぐり捨てて友の手当てを行う様子などが歌われています。こうした内容が軍規を乱すとして、太平洋戦争中、軍隊内では「禁歌」とされていたそうです。ある意味これは戦争の悲惨さをリアルに歌い上げる反戦歌でした。
「ラバウル小唄」
ラバウル(ラボール)はニューブリテン島シンプソン湾を臨む都市の名で、太平洋戦争中は日本軍の占領下にありました。日本軍の一大拠点として陸海軍合わせて9万余名が駐屯。自給自足体制によって食料を確保するなどして、兵士たちは現地に「定住」するかのように過ごしていたといわれています。この歌はラバウルを生まれ故郷のように思いはじめていた兵士たちの帰還を歌ったもので、現地の女性との淡い恋心や別れの悲哀なども歌われています。兵隊はけっして殺人兵器なんかじゃない、やはり血の通った人間なんだと教えられます。
「麥と兵隊」
この歌は、雑誌「改造」に連載された火野葦平の同名小説が評判となったことから、陸軍報道部の依頼によって作られた「国策歌謡」でした。
作詞は当時から多数のヒット曲を手がけていた藤田まさと氏。藤田氏は当初、出だしを「ああ生きていた/生きていた/生きていましたお母さん」としたそうです。ところが軍当局から「お国のために死ぬことが軍人精神だ」とクレームが付き、仕方なく「徐州徐州と人馬は進む」の歌詞に書き直したというエピソードが残っています。
藤田まさと氏は戦後もヒット曲を多数手がけていますが、その中に、未だ帰ってこない息子を待ち続ける母を描いた「岸壁の母」があります。本来なら「麦と兵隊」にも、息子を愛し安否を気遣う母心が歌い込まれるはずでした。
このように、「軍歌」と呼ばれる歌には、実は戦争の悲惨さを伝え、兵士といえども血の通った人間であることを歌い、戦時にあっても変わらぬ母の愛を歌い上げるなどしながら、ひたすら平和の訪れを待ち望む歌が少なくなかったのです。表面的にはいかにも戦争礼賛の歌のように聞こえますが、真実はその逆でした。
私は多数のレコードやCDをコレクションしています。いつかそれを博物館的に公開するのが夢ですが、その多数のコレクションの中でも特にこのソノシートを、戦後に刊行された物ではありますが、戦時にあって平和を待ち望んだ人々の心を伝える物として、大切に保存し、未来に伝えていきたいと思っています。