下記についての回答をなるべく深い科学的な考察を添えてお願いします。


1) エゴの定義を教えて下さい。
2) エゴのみで物事を進める事に大義があるかを教えて下さい。
3) エゴのみで物事を進めて大きな事を成し遂げた人物を教えて下さい。

回答の条件
  • URL必須
  • 1人2回まで
  • 登録:
  • 終了:2009/10/29 14:00:02
※ 有料アンケート・ポイント付き質問機能は2023年2月28日に終了しました。

回答4件)

id:NazeNani No.1

回答回数1615ベストアンサー獲得回数276

ポイント23pt

1) 「フロイトの定義では1923年以前までは意識を中心にした自己の意味で使われていた。1923年以後、心的構造論を語るようになってからは明確に「意識と前意識と無意識的防衛を含む心の構造」を指す言葉として使われるようになった。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91


2) 「よくエゴはないほうがいいといいますがそれは?です。エゴがないとは「ただあるだけ」なのですからこの世界にいる意味があまりないでしょう。この世界はある意味エゴを持って経験する世界です。どんなエゴを持つかはその人が決めます。自由にエゴを持っていいのです。ただ世の中の多くの人が持つエゴは喜びになります。例えば、「愛が欲しい」、「愛を与えたい」「感謝したい」、「許したい」など波動が高いものはたくさんの人が望みます。それだけ喜びが大きいからです。でもこれらもエゴには違いありません。」

http://www.angelflower.org/weblog/wordpress/yyoyeyayaycyeyoyye/9...


3) 日本一のお金持ち(高額納税者)斉藤一人氏。 

氏いわく「人間というのはエゴで欲張りで少しエッチで、それでいてどこか崇高なところを

自分で求めている。」

http://marui.exblog.jp/4139248/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E4%B8%80%E4%BA%B...

id:godric No.2

回答回数77ベストアンサー獲得回数2

ポイント23pt

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210342...

①上記URLでは、イド(本能)、スーパーエゴ(道徳)、エゴ(自我)ということでー、そのまま書き写すと、キライなヤツがいて殴ってやりたいと思うのがイゴ(本能)、んで、それじゃ可愛そうかなとか社会道徳として宜しく無いってのがスーパーエゴ(道徳)、この二つの間を揺れて結局殴るのかどうか?決める自我をエゴと言う・・・ものの、通常日常語ではエゴは「selfish」「わがまま」「自分勝手」というような意味になる・・・とのことなんで、定義はそれ。


②エゴで物事を進めることに大義はあるか?については、「大義」の定義がまたどうなの?ってことになってしまうけれど、大義・小義と言えば、おっきな目的とちっさな目的であって、逆に大義名分と言うと、「これぞ正当な目的ですっていう旗を掲げること」だよねー。んで、ここでは、なんとなく「大義名分」やや寄りの「大義」という意味で回答しますー。


つまりー、エゴでものごとをすすめるってことは、「selfishな理由のままチームリーダーが物事を進める」っていう意味とするとー、まず何をもってselfishと判断するか?が重要。たとえばー、selfishとされる判断または進め方が、それは状況に対して、状況判断として、理論的に考えて有り得ない!っていうことなわけだけれど、それっていうのはあくまでも、状況を理解・判断・分析した上での話ですよねー。だから、その大元の状況判断・状況理解・状況分析が、もし甘いならば、エゴで進めていると判断したはずの進め方が、実は正しい進め方であって、エゴじゃなかった、ってこともありますよねぇ。これって人間関係のなかじゃ多いパターン。


逆に、もしも、エゴで物事進めてるって思ったその進め方が、実にその通りエゴだったという最終結果である場合は、それは、エゴということが、その担当者のヒューマンスキルの低さを言い表すだけのことであり、ヒューマンスキルの低さについては、同僚や後輩ってだけでは即時対応の方法がないわけですよねぇ、普通。だから、担当者のヒューマンスキルの話じゃなくして、必要とされる状況対応として理論的かつ物理的に、ここが間違ってる、こんな不都合が出る、その結果こうなる、だからプロジェクトは失敗するであろうと、いうような精神論ならざる理論的な段取りの話になりますよね。

つまりー、結論はー、エゴ=大義ってことは、お題目の通りありませぬ。存在しません~



③については、まー、歴史的に言えば、エゴだらけで、大事を成した人間はいますw。ほとんどエゴじゃにゃいですかねー。

id:kunitz

>>1様、>>2様 有難うございます。

「2)」「3)」の質問が明確ではないので、もう少し正確にします。

↓のように"他人を犠牲にして"と入れるとどうなるでしょう。

犠牲の定義もアレですが、病気や廃人にしちゃうととらえてください。

2) エゴにより"他人を犠牲にして"物事を進める事に大義があるかを教えて下さい。

3) エゴにより"他人を犠牲にして"物事を進めて大きな事を成し遂げた人物を教えて下さい。

2009/10/22 15:03:22
id:Newswirl No.3

回答回数210ベストアンサー獲得回数24

ポイント22pt

1)自分の利益を追求するとは、次の2種類の利益を追求することを指します。欲求には、一般的な欲求と特殊な欲求があり、一般的な欲求は社会全体の利益を満たすことで得られる行為を欲し、特殊な欲求は自分の特殊な性質が引き出される行為を欲します。

2)社会の構成員が犯してはいけない行為をもって利益を調達することは、前者に反するため、エゴが他者の生活を脅かすことはありません。自分の性質や意志は、社会の中で構築されるため、自分にとっても不本意な行為ということもできるからです。一方で、特殊な利益を追求する過程で、他者の利益を阻むことはあります(≠経済的な自由)。しかし、他者の生活を脅かすことが肯定されるものでは無いでしょう。

3)エゴは、自分にとっての一般的で特殊な正義を純粋に守ることに留まります。したがって、社会や自分が所有する正義を犯していない者をエゴと定義できるでしょう。事を成し遂げた2人のうち、いずれかが大きな事を成し遂げたかは比較できません。小さな事を成した人間が大きな事を成したかのような充足感を手にしたり、大きな事を成した人間が小さな事のように不満を訴えたりするからです。我々は物理的かつ生物学的に有限に生きながらえることが許されない存在ですから、限られた時間で目的を合理的に満たした者は成功したといえるでしょう。人の目的は多種多様で、内面に描かれているものです。いずれにしても、我々がそれを知ることは不可能です。

ゲーム理論 - Wikipedia

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル - Wikipedia

id:godric No.4

回答回数77ベストアンサー獲得回数2

ポイント22pt

続けてご回答します~


お題の微小修正ということで、続けてご回答いたします~(前回回答の前提は全て同一でー、追加条件のみの付加という前提ですー)


病気や廃人という犠牲を出してという前提についてー、二つの状況のどちらに属するかによって、また変わってくると思います。二つの内①とは、社会的ならざる関係である場合、もうひとつの②の場合とは、社会的関係である場合です~。


①社会的ならざる関係とは、主に血縁もしくは男女関係によって成り立つ関係に類する関係ですー。つまり、家族親族恋人夫婦親子etcを意味しますー。②社会的関係とは、親友・知り合い・クラスメート・同僚・部下上司・取引先etcを意味しますー。 では①と②のどちらもあてはまる場合とは、たとえばー、恋人であるとかー、愛人であるとかー、夫婦であるとかー、なんだすけれども、そして同時に同僚でもある場合や、上司や部下でもある場合を意味しますがー、または例えば、親子であるけれども同時部下上司でもあるような場合ですが、これは①に属します。


んで、設問2からの回答になりますがー(設問1は既回答のため)

①の場合、問題があるますよね?、当然。②の場合は論外です。損害賠償の世界ですねー、立証できればの話ですがねぇ。

ただここで唯一出てくるのが、しばしば言われる「これだけの犠牲を出した。しかし、あの時の、あのひとのあの果断な(エゴな?)判断がなければ、今の豊かさや安全はなかった」と表現される事態ですねー。ただー、これには論点があってー、結局その喜んでいる、または、最低限必要だったとされる「豊かさ」と表現されているが、結果的に、それほどの成果である必要もなかった、つまり、言い換えれば、それほどの犠牲を払って、そこまでの成果を出さなくてもよかった、そこそこでよかったではないか、という事ですー。当然出てきますよね。①の場合には、特に平和な世の中ですし、当然その犠牲は有り得ないという結論になります。②の場合は論外です。


ところで、②の場合に限るとなんですけれども、

当然社会的な関係な訳ですからー、廃人にされる方にも、または、病人にされる方にも、パーソナルな見地に限って言うならばー、やや問題があると言わざるを得ません。例えばどんなに崇高な仕事をしていたとしても、どんなに高尚な仕事をしていたとしても、敢えて強いことを言わせていただくのならー、それは被雇用者に過ぎません。通常。経営者でなければです。被雇用者には会社を辞める正当な権利があります。雇用者は多大な権限を持っていますが、被雇用者は辞めることも、裁判に訴えることも、より良い条件でいきなり転職することも、正当な権利であり、逆にその反面として、廃人にならないようにすることも必要です。いやまぁ飽く迄もーパーソナルな味方で言えばなんですけれども。


じゃー、パブリックで言うならば、すべからく全ての雇用者は、従業員の健全で安心な就業環境を守る、または作る義務がありますんで、廃人ともなれば論外であって、ショーシセンバンってところでして、これも裁判に訴えれば勝ちます、尤も立証できるならの話ですが。


設問3についてはー、それはもー、過去にさかのぼればあることでしょー。昭和戦後のころまで「2号さん」が沢山いたわけで、そんな信じられない時代なんですし。そのペースで言えば、20年前の平成元年だって、いろいろいたわけですよねー。

http://hatena.com/

コメントはまだありません

この質問への反応(ブックマークコメント)

「あの人に答えてほしい」「この質問はあの人が答えられそう」というときに、回答リクエストを送ってみてましょう。

これ以上回答リクエストを送信することはできません。制限について

回答リクエストを送信したユーザーはいません