戦国武将や世界の皇帝、世界の軍師、探検家、発明家、科学者、などの

「世界史の教科書に出てくるような著名人物」達の、

●機転を利かせて、困難な局面を乗り越えた!
●誰も考えつかない発想で、結果を残した!

といったエピソードの情報を集めています。

例えば、今なんとなく見つけているのが、
インパクトとしては弱いとは思うのですが…。

「真田幸村は、わずか300人の軍隊で移動中、4万人の北条軍と遭遇。
当時15歳だった幸村はなんと!相手である北条家の一武将である松田氏の
家紋を白旗に描かせ、味方のフリをして近づいていき、夜、闇に乗じて攻撃!
という作戦を用いた。」


もっと、「ビックリする!」、「すごい!さすが!」と唸る、
驚きのエピソードを教えてください!!

よろしく御願いします!

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  • 登録:2009/11/09 23:35:20
  • 終了:2009/11/16 23:40:02

回答(12件)

id:afurokun No.1

afurokun回答回数4647ベストアンサー獲得回数992009/11/09 23:40:45

ポイント15pt

織田信長は、植民地政策的には、領地全部を取りにいったポルトガルやスペインとは異なり、香港などの要所を押さえ、そのポイントで稼ぐイギリス型であった。

経済的なセンスからいうと、徳川時代の政治家よりも、信長の方がはるかに優れていた。

商業というのがお金をよぶことが良く分かっていたのだ。

http://www.sbrain.co.jp/theme/T-14028.htm

id:Yapon No.2

Yapon回答回数61ベストアンサー獲得回数02009/11/09 23:47:06

ポイント15pt

豊臣秀吉

第2は、その出世を可能にした才能である。臨機応変の機敏さ、実行力、リーダーシップ等々、多くの逸話は話半分としても、秀吉の非凡な才能を物語っている。秀吉がもっとも秀吉らしく活躍したのは、天正10年(1582)6月の本能寺の変から、翌年4月の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いまでの期間である。本能寺の変は6月2日の明け方のことであった。備中高松城を攻めあぐんで織田信長に援軍を求めていた秀吉のもとへその知らせが来たのは3日、急遽毛利方と和議を成立させ、6日には姫路、11日には早くも尼崎に入った。去就に迷っていた諸将を巻き込んで約4万の大軍となり、13日、山崎合戦で1万数千の明智光秀軍を一気に撃破する。もちろん運もある。他の有力な武将が近畿圏にいなかったということもある。毛利側が前々から和平を望んでいたということもある。賤ヶ岳の戦いでも、大垣で織田信孝と戦っていた秀吉は、雪深い越前北荘(きたのしょう)から柴田勝家が出て来たのを知るや、賤ヶ岳まで60キロ近い道のりをわずか6時間で駆けぬけた。運のよさがあったにしても、機を見て間髪を入れず指揮するあたりが、秀吉の才能である。

http://serifu.web.officelive.com/hideyoshi.aspx

id:lancer13 No.3

lancer13回答回数2934ベストアンサー獲得回数682009/11/10 00:21:41

ポイント15pt

黒田官兵衛の幽閉と竹中半兵衛の機転 

http://blog.livedoor.jp/nobunaga_1534/archives/50847076.html

id:powdersnow No.4

powdersnow回答回数1301ベストアンサー獲得回数652009/11/10 02:52:59

ポイント15pt

島津義弘

通常、撤退する場合は、後方に引くのが当たり前なところを、

敵陣に向かって前進、突破するような形で脱出を成功させた。

http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/seki08.html

id:rsc96074 No.5

rsc回答回数4398ベストアンサー獲得回数4032009/11/10 05:41:39

ポイント15pt

>●機転を利かせて、困難な局面を乗り越えた!

 と言えば、こちらはいかがでしょうか。

●鴻門の会

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E9%96%80%E3%81%AE%E4%BC%9...

●【君子もとより窮す】

http://koyomi8.com/doc/mlko/200806250.htm

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2009/06/post-21c2.html

>●誰も考えつかない発想で、結果を残した!

 と言えば、ハンニバルのアルプス越えが有名です。

●ハンニバル

>アルプス越え

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%9...

id:sukiyakisuki3 No.6

sukiyakisuki3回答回数71ベストアンサー獲得回数02009/11/10 05:49:29

ポイント15pt

戦国大名でもっとも突出しているのは、何といっても織田信長で、その発想力はとびぬけちゃっていて、彼は基本的に理にかなっていないことが嫌いです。だから、そういうところで面白い逸話がありますよ。

たとえば、ある沼があって、そこに昔から主がいると。信長に言わせるとそんなものは存在しないという立場です。家来を呼んで、この沼の水を全部出せというわけです。で、水を出し切ってから、どうだ、そんなものはいないんだということになるわけです。

当時は、南蛮からの船も来てましたから、南蛮人が奴隷としてつれてきたアフリカ人を信長に献上するわけです。信長は、墨を塗ってるんじゃないかと疑い、丁寧に彼を洗うわけです。洗って肌の色が落ちないということが分かると、信長は彼を家来にしちゃうんですね。面白いです。

http://tsurezure.tea-nifty.com/nbs/2009/05/post-67b2.html

id:lepremierpas No.7

lepremierpas回答回数1175ベストアンサー獲得回数412009/11/10 10:32:29

ポイント15pt

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%8...

信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いて、情報収集や諜報活動を行わせたと言われている[誰?](甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせたという。信玄が戦争に常に勝利し続けたのは、常にこういった情報収集が素早かったためと言われている

id:NazeNani No.8

なぜなに回答回数1615ベストアンサー獲得回数2762009/11/10 11:50:39

ポイント15pt

歴史的にも有名な、ギリシャのオデュッセウスのトロイ(トロイア)の木馬:

http://www.jp-tr.com/icerik/efsane/truva.html

id:nibomp No.9

鈍音符回答回数52ベストアンサー獲得回数02009/11/10 19:44:48

ポイント15pt

厳島の戦いでの毛利元就

桂元済の偽りの内通

http://www.mmjp.or.jp/askanet/ending_katsura_motozumi.htm

小早川軍の敵中通過

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ura_k.html

id:daichan330 No.10

ʕ •ᴥ•ʔ<だ 回答回数565ベストアンサー獲得回数1062009/11/11 20:42:33

ポイント15pt

「項羽と劉邦」などで有名な楚漢戦争における名将・韓信の井陘(せいけい)の戦いにおけるエピソードなどはどうでしょう。

「背水の陣」の故事で有名な戦いですが、実際に「史記」などで書かれている内容からすると、機転を利かせたというだけでなく、緻密な戦略が練られていることが分かります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%81%A...

id:mododemonandato No.11

mododemonandato回答回数759ベストアンサー獲得回数772009/11/13 20:07:38

ポイント10pt

孟嘗君(もうしょうくん)の食客。

  

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%98%97%E5%90%9B

 ①鶏鳴狗盗

 紀元前299年に秦の昭襄王は孟嘗君を宰相として迎え入れようとした。孟嘗君はこれに応えて秦に入ったが、ある人が昭襄王に「孟嘗君が当代一流の人材であることは認めますが、孟嘗君は斉の人でありますから、秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いありません。さりとて帰せば斉の利の為に働き、ひいては秦の脅威となるでしょう」と進言、昭襄王はこれを容れて孟嘗君が滞在している屋敷を包囲させ、孟嘗君の命は危うくなった。

孟嘗君は食客を使って昭襄王の寵姫に命乞いをしたが、寵姫は孟嘗君の持つ宝物である“狐白裘”と引き替えなら、昭襄王に助命を頼んでも良いと答えた。狐白裘とは狐の腋の白い毛だけを集めて作った衣の事で、一着に狐が一万匹必要と言われるほど非常に希少なものであり、孟嘗君は秦に入国する際に昭襄王にこれを献上していたのである。すでに狐白裘は持っていないのでどうするかと悩んでいた所、食客の一人である狗盗(犬のようにすばしこい泥棒)が名乗り出て、昭襄王の蔵から狐白裘を盗んできた。これを寵姫に渡し、その取り成しによって屋敷の包囲は解かれ、孟嘗君はひとまず危機を逃れた。

とは言え、いつ昭襄王の気が変わるかわからないので、孟嘗君らは急いで帰国の途に着き、夜中に国境の函谷関までやってきた。しかし関は夜の間は閉じられており、朝になって鶏の声がするまでは開けないのが規則であった。既に気の変わった昭襄王が追っ手を出しており、孟嘗君らもそれを察していたため困っていた所、食客の一人である物真似の名人が名乗り出た。そして彼が鶏の鳴きまねをすると、それにつられて本物の鶏も鳴き始め、これによって開かれた函谷関を抜けて、孟嘗君は秦を出国することができた。昭襄王の追っ手は夜明け頃に函谷関へ着いたが、孟嘗君らが夜中に関を通った事を知って引き返した。こうして孟嘗君一行は虎口から脱出したのである。

 ②馮驩の復職策

 孟嘗君は斉の宰相から外されることとなり、孟嘗君の元にいた3千人の食客が去った。だが馮驩だけは残った。そこで馮驩は斉の宰相に復職させるために一芝居を打つことになった。

まず馮驩は秦へ赴き、昭襄王と面会し「斉の宰相だった孟嘗君が秦へ仕官したがっています」と告げる。昭襄王は孟嘗君の才覚を気に入っていた上に斉の内情に詳しいので、すぐさま使者を出した。

 次に馮驩は斉に急いで戻り湣王と面会し「秦が孟嘗君を斉から引き抜こうとしています。そんなことになっては一大事だから、斉の宰相に復職させて領土を増やし、わびるべきです」と説いた。

 さらに湣王は秦の使者が斉に入ったことを知ると、すぐさま斉の宰相へ復職させ領土を増やしわびたという。

id:chinjuh No.12

chinjuh回答回数1599ベストアンサー獲得回数1842009/11/16 09:45:03

ポイント10pt

アルキメデス

 王冠を傷つけずに、純金かどうか調べよと命令され「風呂が溢れるのを見て」体積の法則を思いついた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A...


カンビュセス

http://homepage2.nifty.com/chasukekun/nk-219.htm

http://www.geocities.jp/rexbc323/rekisi-eg/rekisi-eg-makki.htm

ペルシアのカンビュセス王は、エジプトとの戦争で「猫」を投石機のようなもので投げ込んだり、盾にしばりつけるなどして勝利した。エジプト人が猫を神聖な生き物として傷つけないことを利用したもの。




うーん、でもきっと、開けてもらえないんだろうな。

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