NHKのスペシャル番組、「坂之上の雲」が好評のようです。ところで海軍ゆかりの地「舞鶴」では街の通りの名が日露戦争で活躍した軍艦の名前が付けられていると聞きました。

これは、「坂之上の雲」に呼応して付けられたのでしょうか?それとも以前からのことでしょうか?戦争を美化するような風潮が気になってお尋ねします。

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  • 登録:2009/12/10 20:11:33
  • 終了:2009/12/11 08:20:16

回答(8件)

id:mnO302 No.1

mnO302回答回数201ベストアンサー獲得回数72009/12/10 20:14:49

ポイント10pt

「福岡」という地名の由来は、黒田氏の出身が備前国邑久郡福岡であったことから、地名を福岡と改め、福岡城とした。また博多湾からの景観から「舞鶴城」とも呼ばれました。

 明治以降、陸軍の連隊の駐屯などにともなって、城郭建物のほとんどが失われ、城跡に現存するのは、大手門、潮見櫓、多聞櫓、石垣、内濠などです。

http://www.mori-midori.com/sisetsu/10maizuru/rekishi.html

id:Ohse

お答えに感謝します。

私の質問の主旨は街路の軍艦名は「坂の上の雲」に由来するものか、否かでした。

2009/12/11 08:10:43
id:dggh777 No.2

dggh777回答回数61ベストアンサー獲得回数02009/12/10 20:21:48

ポイント10pt

近代日本で本格的に海軍が整備されはじめたのは、明治10年代になってからである。朝鮮の領有をめぐって日本と清国との対立が深まり、海軍力の整備は緊急の課題となっていた。明治19年(1886年)には、対清戦争の拠点として、横須賀、呉、佐世保の各軍港施設が決定し、同22年には対ロシア戦略上の拠点として日本海側の舞鶴に鎮守府を設けることが決まった。舞鶴湾は湾口が狭く、防御に適しており、湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど軍港としては格好の地形であった。

 なお同29年5月、舞鶴鎮守府の建設着工にあたって東京に臨時海軍建築部、舞鶴に臨時海軍建築支部が設置され、その主力は舞鶴にあった。しかし、二軍港(呉、佐世保)の整備が優先され、舞鶴の軍港建設費用には日清戦争によって清国から支払われた賠償金があてられた。

 敷地開削工事には莫大な費用と手数を要したが、明治32年の暮れには、土地造成工事がほぼ出来上がった。これに並行して鎮守府諸施設の工事が始まり、数百件の工事が進められた。こうして明治34年(1901)10月1日に舞鶴鎮守府が開庁、初代司令長官は当時海軍中将であった東郷平八郎である。後に日露戦争の勝敗を決した日本海海戦において、連合艦隊司令長官として指揮をとった名将である。

 以後舞鶴は昭和20年(1945)の終戦まで海軍のまちとして特異な発展をみせる。

http://www.redbrick.jp/maizu/kaigun.htm

id:dggh777 No.3

dggh777回答回数61ベストアンサー獲得回数02009/12/10 20:17:31

ポイント10pt

舞鶴は16世紀末から明治時代まで田辺城の城下町として栄えてきました。また舞鶴の地名は田辺城の雅称(舞鶴城:ぶかくじょう)に由来しているとか

http://www.asahi-net.or.jp/~xr8k-tmr/maizuru/maizuru.html

id:tensisyougun No.4

tensisyougun回答回数39ベストアンサー獲得回数12009/12/10 20:27:31

ポイント10pt

舞鶴に鎮守府が開庁されたのは明治34(1901)年、その後、軍港、海兵団、海軍工廠などが設立されていったが、ワシントン条約の軍縮により大正12(1923)年、舞鶴鎮守府は廃止され要港部となった。また、海軍工廠は工作部となった。

(昭和11年に海軍工廠、14年に鎮守府が復活した)

同年、関東大震災で横須賀・白浜にあった海軍機関学校が全焼、江田島の兵学校に臨時移設された。その後、施設に余裕のあった舞鶴に移ることになり、15年に要港部病院に移転が完了した。

昭和5年、もとの海兵団跡地に新校舎が完成した。それがこの場所である。

http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki9/maiduruso/maiso.html

id:goog20090901 No.5

goog20090901回答回数637ベストアンサー獲得回数172009/12/10 20:46:58

「坂之上の雲」に呼応して付けられたものです。

やりすぎですな。

http://q.hatena.ne.jp/answer

id:Ohse

「坂之上の雲」に呼応して付けられたことを、客観的に説明できる資料が欲しいのです。

適切なサイトは無いでしょうか?

2009/12/10 21:13:36
id:SALINGER No.6

SALINGER回答回数3454ベストアンサー獲得回数9692009/12/10 22:06:59

ポイント50pt

結論からいいますと、これらの通りの名前は「坂之上の雲」が書かれる以前(明治36年)に名づけられた

ようなので、「坂之上の雲」とは呼応されていないようです。

しかし日露戦争は明治37年~38年なので直接の関係はないと思います。

(その後、通りにつけられた軍艦が日露戦争で使われているようです)

http://www.o-mon.maizuru.info/html/history.html

明治36年、碁盤目状に区画した浜の市街地は、京都のように区画造成されていたので、

寺川から与保呂川の南北の道を、一条から九条と名づけました。

東西に走る道路には戦艦・巡洋艦などの軍艦の名がつけられました。

八重山・富士・八島・敷島・朝日・初瀬・三笠です。

この浜の市街地に全国から商人が集まり賑わったのです。

このころから大門通りは商店集合地としてはじまりました。

ところで、なぜか大門通りだけ軍艦名ではありません。

かつて余部下-北吸間が軍港構内であった時代に「 東門 」「 西門 」が設けられ、

その門に通じる大通りを「 大門通り 」と呼んだようです。

余部下の大通りは現在「下本通り」といいますが、当初は「大門通り」でありました。

id:Ohse

有り難うございます。

大変勉強になりました。

2009/12/11 07:58:24
id:kanan5100 No.7

kanan5100回答回数1469ベストアンサー獲得回数2752009/12/10 23:25:20

ポイント50pt

これは明治時代に命名されたもので、『坂の上の雲』とは関係ありません。

http://www.maipress.co.jp/menu/rensai/17.html

東舞鶴の町は碁盤の目、南北を歩いていると各通りを示す「艦船」の看板が目につく。

由来は、明治31年に樹立された市街地計画が明治35年11月に完成し、そこで浜地区を中心に、通りの名を付けることになった―。

その時、町は京都のような碁盤の目に区画造成されていたので、寺川から与保呂川の南北の通りを、一条から九条と名づけた。

また、舞鶴市は海軍の町としてふさわしく、戦艦・巡洋艦など艦種別、建造年代順に軍艦の名が用いられたという。

つまり八重山・富士・八島・敷島・朝日・初瀬・三笠……である。そして、道路名の名付親は、当時の高等小学校の校長さんとか。

id:Ohse

有り難うございます。

大変勉強になりました。

2009/12/11 08:00:45
id:T_SKG No.8

T_SKG回答回数206ベストアンサー獲得回数182009/12/11 01:50:47

ポイント70pt

小説「坂之上の雲」の影響ではありません。

舞鶴市の広報より

http://www.city.maizuru.kyoto.jp/contents/7d34120e0b062da/7d3412...

東地域と西地域“それぞれの道”の項によると、明治36年(1903)

http://www.city.maizuru.kyoto.jp/contents/7d7a04083719289/other/...

2ページ目の年表によると、明治30年に、鎮守府開庁に伴う都市基盤整備(新市街地通り命名)

とあります、いずれにせよ、昭和に書かれた、小説の影響ではありません。

id:Ohse

有り難うございます。

大変勉強になりました。

2009/12/11 08:06:35

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