【贈与税】鳩山総理6億円納付【廃止のお知らせ】



合計12億6000万円の贈与を受けて、贈与税を一切支払わないでいて、
「バレたから贈与税払いました」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091227-00000277-yom-soci


贈与税って国税局に見つかるまで支払わなくていい税金だったんだな。

支払わないでおいて、
バレたら申告して贈与税を支払う。
バレずに時効を迎えたらそのまま貰える。

これで済むんなら誰も支払うわけがない。ノーリスクハイリターン。


もちろん由紀夫だけじゃなく邦夫もだが、
これだけの金額を脱税しておいて事情聴取もせず不起訴決定っておかしくね?


そんな鳩山弟は元法務大臣。
元警察官僚の亀井もこの件に関してはダンマリ。
小沢秘書逮捕のときは警視庁幹部に電話してクレームまで入れてたくせに。


そんな彼らに一言どうぞ。

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  • 登録:2009/12/27 16:20:19
  • 終了:2009/12/30 18:31:04

回答(13件)

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税金って ゲフンゲフン2009/12/27 20:41:13ポイント8pt
払わなくても総理大臣なら追徴課税はないんですね。さすがですw 埋蔵金は自分のお財布にありましたね。灯台下暗しです。
金持ちほどセコい wet09092009/12/30 18:08:02
立場的には国税局から言われなくても重加算税支払って国民に納得して貰うぐらいが妥当なとこだよな。 こんなとこでケチるとかホントどういう金銭感覚してんだ鳩山家はw
同感です。 ttz2009/12/27 21:43:05ポイント6pt
追徴課税しても良いのでは??
茂木健一郎も3億申告漏れしたけど、 あしか祭り実行委員長2009/12/27 23:24:47ポイント4pt
追徴税額で約1億6000万円だったんだよね。
追徴どころか… tomoida2009/12/28 15:46:24ポイント4pt
全財産没収してもいいのでは?相当悪質だと思います。
これで幕引きにならないか心配 willingness2009/12/28 17:00:13ポイント3pt
うやむやになりそうで怖いです。
政治家が家業になってる家系、 あしか祭り実行委員長2009/12/29 10:57:34ポイント2pt
結局、国民とはかけ離れたポジションで生きている人たちなんですよね。   次からの選挙ではそういう世襲議員とかがどんどん落選していく、党も公認しない方向になっていくんじゃないでしょうか。   自分で金を稼 ...
なんだかんだで世襲議員は当選する罠 wet09092009/12/30 17:51:35
あれはタレント議員と同じようなもんだからな。 支持率10%台の麻生内閣でも元閣僚らはみんな当選したろ? 知名度に勝つのは並大抵のことじゃあない。 本当は庶民から選んだほうがいいと国民もわかってるが、 ...
そもそも・・超資本主義化されたときの貨幣価値とは単にどうにでも動かしうる数値似すぎなくなってしまってる・・??? takokuro2009/12/29 10:18:50ポイント1pt
国内で1000円をもっていて それでお肉200g買えても そのお肉が外国から来ていて 為替が 円安になると 1000円持っていても 10円のものしか買うことが出来なくなるというシステムが 資本主義化によるグローバル経済では ...
なんですか? まっは2009/12/27 21:04:46ポイント1pt
これっておこずかいのやつですか?
いい加減、意味のない、いわし、たてるのやめてくれる goog200909012009/12/27 16:30:52ポイント3pt
ごみ
通報した wet09092009/12/27 16:33:51
「お前が意味を理解できない」 のと 「意味が無い」 のはまったく別だということぐらい知っておいたほうがいいぞ。
こいつの回答履歴ひでーな wet09092009/12/27 16:45:18
質問をほとんど読まずURLのみの貼り付けor適当回答連発 こんなカスが質問に文句言うとかマジ死ねよお前
  • id:takokuro
    鴎外関連・・・
    北条霞亭より・・・

    田内月堂・・・・
     松平定信の侍臣の水野為長(永?)が
    定信が老中であった天明 7(1787)~寛政 5(1793)間の
    寛政改革をめぐる世間の噂、風聞などもそっくり記録して
    定信に呈上し
    定信が秘蔵した《よしの冊子ソウシ》(19巻)を
    定信没後に
    侍臣の月堂が抄書し、編集し、
    「…のよし」とあるのが多いために
    吉野にからめて??・・・??
    「よしの冊子」と名づけた。引用元は「随筆百花苑」
    安永3(1758):松平定信(1758~1829,御三卿・田安宗武の七男,Ⅷ吉宗の孫)、
    白河藩主(福島県)の松平定邦の養子となり,
    天明3(1783):松平定信、
    白河藩主(福島県)松平定邦の家督を継ぎ
    天明6(1786):松平定信(三十代の前半期)、老中首座に就任し,
    以後6年間にわたる「寛政の改革」で知られています。
     老中を退いた後は
    白河藩主として,藩政に尽くし
    文化9(1812):松平定信、
    家督を嫡子・定永に譲り
    自らは「楽翁」と号し,一流の文化人としての生活を送る
    「政治家」の定信は
    教科書にも「寛政の改革」で掲載されるのみだが,
    老中在任期間はわずか6年で
    三十代後半から亡くなるまでの方が長い。
    文化9刊行の『黄葉夕陽村舎詩』で
    備後国神辺(広島県神辺町)の菅茶山(1748~1827、福山藩儒),
    当時の漢詩人として一流の評価を得
    文化11(1814):菅茶山、藩命により江戸へ赴き
    各藩の藩儒や文人たちと盛んに交流
    文化12(1815)2/5、帰郷を前にした茶山は,
    白河藩下屋敷に造営された「浴恩園」に招かれ
        定信の日記『花月日記』より
    「昼つかた茶山をまねく。齢もいとたかし。
    林の君(林大学頭述斎)も,
    詩ハ茶山,文ハわが方の典なりと,
    つねに賞し給うほどの人なれバ,
    この亭舎によて,
    からうたこハんとて,よびたる也。」
        つまり,林の君(林大学頭述斎)が賞賛する茶山に,
    「魁春園」(春知る里)の漢詩を求めるために呼ぶ
        当日,白河藩士に案内され園内を巡った茶山は,
    春風館で定信と対面し
    漢詩や和歌を作ってしばらく過ごしたのち,
    定信は一枝の梅を手折り,和歌を添えて茶山に差し出し
    「故郷を おもふもしばし なぐさめよ 
    むめ(梅?)の色香は よしあさくとも」
    雪の舞う一日中寒い中、
         この後,二人は望嶽台に登り
    富士山を眺めた
    定信に賜った梅は,
    福山藩邸に持ち帰られ,
    接木して鉢植えにされ
    茶山は,帰郷するにあたり,
    この鉢植えを石田梧堂に預け
    文政1(1818)4月,茶山、
    芳野への花見のあと,京都の宿へ
    倉敷の小野梅舎が,鉢植えを届けた。
         その梅は,そのまま宿へ置かれたのかも知れません。
     文政4(1822),茶山の日記に,
    梅が神辺へ届けられたと記
    二日後には庭へ植えかえをし
    江戸の築地にあった「浴恩園」の梅は,
    神辺まで届けられた
    神辺・・・・
    →燗鍋?
    銅製(つる←神道のシンボルの鶴??
              注ぎ口と
              蓋)
    ←神嘗かんなめ(かんに会エ←神の会??←神の“合”(愛?)?)
        10/17
       →仏教系の伊賀忍者の能役者?観阿弥(名が『清次』キヨツグ・・・
       郡山の今井一族を信奉していた父の父(ひいじじとは仲が悪く
    下の弟と京都山科に
    滝川幸辰らとともに引っ越し
    当時、珍しい歯科女医で
    かつてテレビや映画で
    江戸っ子の下町おかみさんの役をしていた女優さんにそっくりの
    お顔と声とものごしの後妻に
    御池通りの旅館をきりもりさせて
    後妻さんとの間の娘さんは
    独の牧場主に嫁がれたそうで
    実の息子(父方の祖父の実弟)は
    京都で女学生だけのワンルーム・マンションをしていて
    大学入学時、友人(日生病院内科部長次女で
     私が見合後、東大阪の彼の先輩のDr坂本の誘いで
     日生のグランドにテニスに行ったとき、彼女も家族連れで着ていて
     『見たよ』というように翌日、言われたことがある・・
     当時の日本生命は
     世界一の資本を有し資産運用に職員らの施設も
     会員制のクラブのように立派で
     紹介なしでは利用できなかった・・
    その彼女が、
     入学してしばらくして
     そのおじさんのマンションにいて
     大家さんと話してるときに
     私のことが話題になったというので
     それまで、
     町医者のボンヤリ娘としてやや冷ややかな視線を感じていた彼女から
     急に
     誘われて彼女の下宿に伺ったことがある・・
     中学校受験するときに
     (前年、父方の伯父の従姉が高校受験するというので
      保証人をお願いするのに
      ひいじじ、このおじさんにお願いするのに
      郡山の今井氏を信奉する祖父の父方兄弟とは
     弓を折った関係から
     (父方のひいじじは
    長男である父方の祖父のお嫁にと
    母方の祖母のひいじじの永坂のところにいって
    お願いしたけれど
    「お前にはやれん」といわれたそうで
    母と父とのお見合い話が出たときに
    養子(大阪の商家は有能な番頭はんを選んで
    娘婿にして跡継ぎにする習慣がある
    息子は
    幼いときから芸事を慣わせ
    明系マッカツの拠点でもある色町?繁華街?に
    取引先などの情報活動にするため・・??
    つまり・・営業部長という役目??
    婿養子の跡継ぎは総務部長という経理や財務を万全にし
    豊かな感受性がありながらもしっかりとした感性の跡継ぎを育てる役目・・??・・??
    一番下は
    「おとんぼ」(とんぼ:秋津?交配の形がハート型・・)といわれ・・
    甘やかされて
    結局は・・簡単に!?
    遊郭の餌食となってしまいやすかった・・??・・??

               つまり・・
               父方のひいじじは民主主義派神道派?真性カトリック派?の
    滝川勢力側に一端していて
    永坂のひいじじに断られて
    長男には
    永坂の姉妹(祖母の時には和歌山にも女学校が出来たので
          祖母は桜井の女学校には下宿していない)
    が通うことになっていた桜井の女学校で
    同級生だったという父の母をお嫁さんにしたそうで
    (この祖父は全盲にされてる・・!!?)
    父との結婚以降は
    今井氏人脈明系の結婚をさせられている・・??
    (長女:福助系?辻本家に??
     次女:半田氏(本願寺から公安警察として長崎で
     キリシタン取締に出かけていた人たちの中に同じ苗字があり
     私の結婚でそれまで全く、お顔も見たことのなかった人ですのに
     急に采配し、
     竹内家の祖父がいるのに
    その家風を無視して土足で自分たちの価値観を
    まるで自分たちの所有物とでも思ってるように
    持ち込み、采配し
    両親にも有無を言わせないので
    山口系や仏教に感じる横暴さ、厚かましさ、情念に腹立たしくて
    『不浄さ』を強く感じたので
    『不浄』だと言ったというので
    母に土下座させ、
    結婚後、母に娘の私と縁切りを酒に酔いながら迫った人物・・
    自分の一人娘にA級ライセンスと真っ赤なオープンカーを与え
    素直?用心深くても
    ミユキさんが家に入ってから
    長く母の周囲に付きまとってきた人を
    疑う?一度、系統だって整理して再考しなおすことを知らない??母に
    私を甘やかせて育てたからと
    生涯、ヤクザのチンピラが言い寄るように言いがかりをつけつづけた人物

    (山口系文化の伝統的なイチャモン戦術?)
    話し方も顔つきも発声も
    明系山口系工策員???・・??
    (一人娘は今、大流行の塾経営者と結婚??・・??)
    下の娘にいたっては・・
    明系九の一??小山明子(民主主義勢力の子弟が殺到した戦後京大法学部第一期生)目立ちたがり屋のお人よしの大島渚をつかって
    映画界で世論工策??・・??
    彼女の裏に
    清貧?誠実?とは思えないどちらかというと・・
    山口系らの水商売系に居そうな女性たちが
    渡辺組長期の太閤園で小山明子セミナーに読んでもらったことがあるが
    ロビーで彼女の友人というこれらの女性たちに
    良からぬ人物(また、大田知事期になるとこういう女性らが私の
    周囲に感じることが頻繁になっていた)感があり
    どうしても気になるので
    尋ねると・・
    大和での古くからの友人だという・・
    今井氏人脈??)の信奉者であること・・・
    繁田氏は
    学生運動期に日ノ岡のおうちに毎週2日、英語のレッスンという名目で
    実際には
    食べ盛りでお食事やおやつに通わせていただいていた滝川春雄先生の
    奥様が
    先生がめずらしく、食卓にいらしたときに
    我が家にも
    繁田さんという法学の先生がいますというと・・
    奥様が『・・・・』と返す言葉に弱ったようになさってらしたこと・・
    (でも・・今振り返ると・・
      そんなこともすでに、ご存知だったのでは??と思う・・
      だから・・本当に思いもよらない突然の困り方ではなかった・・??)
    当時、母は戦後京大法科の一期生の社会科の先生も
    学校にいらしたのですが
    繁田氏のことは口に出さないようにしなさいといっていたし、
    それは母が明系工策員活動のことを知っていたからではなく
    ご近所の田川先生(デランジェラ神父様がつくられた星光学院で
    海軍将校のあと教頭先生でいらした)とのことや
    子供時分から
    自分のPRすることに恥じらいもないし
    我が家で大切にしてきた母がお嫁に持ってきたお筝を
    簡単に無心したり
    家を買うのに
    まだ、豊かとは言えないのに
    借金を申し出られたり
    自信家の繁田氏を
    それまでの我が家に出入りされていた方とは異質の
    型破りの?人として
    有能ではあるけれど
    どこかしら・・(母は単純に貧しい育ち方のせいだとばかり
    思い込んでいた)
    変わった人という感じで、
    私が感じてきた山口系や明系や仏教哲学に感じる醜い本音を
    平気で美しい建前で覆い隠して人を欺いたり騙すことが
    できる精神的な『不浄さ』から忌むのとは
    ちがう・・??・・??
    つまり・・
     父の兄は自分の長女の保証人を
    父方のひいじじ方に頼むのに
    嫁と義父との関係である母に
    頼まないと
    お願いできなかった・・
    で・・
    そのときに
    色んな方たちにいっしょにお願いに上がって
    学校を見学してるうちに
    私を入学させたいと思い出し、
    急に受験勉強を始めることになる・・・
    で・・・
    田川先生のご紹介の山崎先生にお世話になって
    山崎先生はその後、
    我が家の倉庫となっていたお向かいの雨漏りのする家に
    下宿??されることになる・・
    (郵便局の息子さんで
    阪大工学部にはいったのに
    受験中の古文から
    大学で文学部に転学してしまって
    卒業後も次々、大学院や別の大学の文学部に行かれて
    お父さんに勘当され
    田川先生が
    紹介した私学に講師にいかれて・・)
    お父さんに勘当されたので
    我が家の空き部屋でよければと
    お引越しされ
    私たち姉弟は
    自由人で文化を愛するお兄ちゃん先生として
    時間を見つけては
    社会人でありながら
    自分たちとも文化を共有し
    マンガを気前よく買う先生にまとわりついた・・

    永坂のひいじじに断られてからは
    ひいじじは発奮して満州に出かけて一旗あげて
    母を自分の長男の息子たちのうちで
    ただ一人、祖母を大切にする父を
    養子婿にだし、
    母たちは
    養子というときっと断るだろうと思ってたのが
    ひいじじは
    結婚式の日に
    永坂の祖父に断られたという話を母にして
    やっと、孫の代で成就したと言って
    とても大切にしてくれたそうだ・・
    子供時分、我が家にもちょくちょく来られ
    神殿(新田?)つきのお雛さまは
    ひいじじが初節句のときに買ってくれたものですのに
    相生に引越して
    西田辺に置いたままでも
    結婚前には
    子供時分、なんでも口に入れる時期に
    ハイハイして段に上がって
    頭からなめていたそうで
    首が取れ
    お顔は髪の黒い色で汚れていましたが
    懐かしくて
    ずっと、木箱を開けては見ていたのですが
    結婚してから
    母が出入りするなと言い出してから
    お人形を確かめる機会もないままに
    強く不眠症になっていた母に
    肝炎で入院するからと
    ようやっと、
    大阪へ帰ることを決意して
    東住吉で家探しして
    決まったら、母は即座に入院し
    その間、診療所の手伝いを始めたときには・・
    すでに!ひいじじからもらったお雛さんの箱は消えうせていた・・
    沢井さんのおばあさん、今村さんが出入りしだした頃から
    怪しげな人たちが我が家に問題を持ちかけ
    気持ちの洗われるような共感を感じることが減って行き、
    母の周囲には
    カルト系の人たち・・
    千種さん(神道系)、
    創価学会の指導者の女性二人、
    纐纈先生を診療所に紹介くださった方で
    結婚の準備にも桂の木で我が家の女紋の丸に橘のお盆を3つと
    鏡を彫ってくださって
    結納をするのにと
    相生に引越して
    そこのお手伝いいさんとして
    彼女のお弟子さんをよこしてくださって
    宝塚で洋服の仕立て屋さんを紹介くださった四柱推命をされ
    お祓いをする方・・

    これらの人は・・
    『明系』や『仏教系』というカテゴリーには
    入る人たち・・??・・?
    神道の千種さん以外は・・
    (千種さんが上六のビルを父を母に内緒で
    競売に連れ出して寿司『半』と競合して落札させた方で
    当時、この近くに神主協同組合があって
    千種さんは
    十三吉向(亀甲??実は千種さんは神道と言っても亀系??
          大体!日本神話で
          千種神社がでてくる頭や足なんかは
          結婚の準備に機を織っていた大月姫が
          スサノオに暗殺されたり
          神道系の葬儀関連の高野山のかつらぎあたりに絡んできて??・・??
          私が子供時分からもってるイメージの大らかさと
          残忍なことを忌む感性とは違うイメージ・・??・・??)
      話が長くなりましたが・・・
    つまりは・・
    父の清次セイジという命名は
    今井氏人脈によって??つけられ??
    我が家の弟たちの命名も
    男の子たちは
    父方がつけたという・・
    清次キヨツグちゃんと父の姉妹は呼び、
    竹内のひいばばの酒井サケイ氏姉妹の明坂の酒井サケイ氏つながりで
    私が子どもの頃(小学校3年担任は今城先生)
    瓜破に酒井サケイ氏の紹介で
    墓地を購入してるが
    その番号が
    9-1(クノイチ)!!
    山育ちで泳ぐことなど出来ない真っ白な父の誕生日は
    渡辺組長期に
    『海の日』になったり
    何度か変わっていて
    弟のお嫁さんは
    梗塞をしてる父に
    紀伊田辺のマンションで
    夏の炎天下に父に子どもの守をさせ、
    父は真っ黒になってしまう・・
    (反対に、彼女の父親は金沢に実家があるそうで
     海の人で
     魚には口が肥えてると
     北摂に引越して
    父と琵琶湖に行ったときみつけたおしょうゆをもって
    挨拶に行ったとき、
     夕方ですのに
      夕食の準備もしてないので
      子どもが『御すし食べたい』とかいっていて
      『回転寿司に行く?』と尋ねると
      『うちはそんなところの魚は食べません』とか笑う・・
     彼女が年末、母の買い物に付き添うようになってからは
    元旦早々から
    生もののお刺身で
    ウンザリしてしまう・・
    それに、
    元旦早々から
    殺生をしないために
      おせち料理があり
      食べてもいい蛋白源は
      おふと蒲鉾と
      数の子と
      ごまめと
      とり(カシワ)だけ・・が我が家流だったはず!?
      (単順に、貧しかったからかも知れませんが・・
       にらみ鯛もブリもない)

    ひいじじが
    キヨツグ清次とつけられた父を
    早川徳治さんが
    鈴木商店からの台湾資本引去りによる東京大恐慌連鎖倒産直後に起こされた?関東大震災までは
    早川兄弟社として
    徳治さんの技術を
    兄として助けていた早川政治セイジさんにちなんで??・・??
    セイジって呼び変えた・・??・・??

    1823(文政癸)7/25;田内月堂の書にある楠公碑設立の件に関し
    前年つくった「武臣曽跋扈、兇豎況迷昏・・・」の詩碑を
    湊川なる【楠木正成】の墓に立てると
    霞亭は月堂に告げ
    白河楽翁侯の題額をとろうとしたが
    月堂はあえてとどめ置いてる・・
    (楠正成と周の武帝(神武帝を倭国にやがてマッカツども夷らが襲ってくると
    救援として派遣)がつくった国々を滅ぼしたのちの明系夷賊が
    田氏として
    篠氏が神主として長く統治した信太山、木氏キシが長く統治した現、岸和田城

    楠正成兄弟は
    北条家の黒幕の高氏らが工作員ののちの足利姓をもらった
    尊氏らと共謀し、
    河内源氏の新田氏の城・所領を占拠し
    ちがうところに自分で新たに築城して
    昔からそこに住んでいたことにして
    年取ってから
    一人は
    神主としてシノダ山(篠氏の山)の篠氏に入り込み??
    篠田氏をなのりシノダ山とし
    一人は
    田氏でも
    倭の田氏というので和田氏と名乗って
    木氏に姻戚して
    キシワダ城となる・・??・・??
    岸和田城の家老のお嬢さんが
    西田辺の奥田家の大奥様で
    結婚したときには
    駕籠に載って
    侍女をつれてお嫁入りされ、
    その奥田家には
    大きな楠がある・・
    もともとは綿農家の豪農の平野郷の本家にも
    お社には楠がある・・

    でも・・・
    楠は・・
    太古の時代、
    金属がない頃、
    楠の針で刺青をしていた民のシンボル・ツリーで
    南国系の刺青をしていた部族が
    インデアンやアイヌにその文化を伝えた・・??・・??
    神道系には
    天、大自然からもらった生命に
    傷?加工して美しいと感じる文化はない・・
    グロテスク、残忍だと感じる・・??・・??
    壬午(5)7/25に田内月堂の霞亭に与へた書は、
    浜野氏のわたくしに示した尺牘の一である。
    「築地園中之
    勝地之名凡三四十景、みだりに名づけ申候。
     その内
    恍然島御寄題御托申候様、宜相願候へと申付られ候。
     扨この島の和名は
     名ごりのしまと唱申候。
     もと此名は
    78箇年以前 奥松島遊覧いたされ、
     彼地之絶景常に心頭に来往いたし、
     池を穿て
     松の島出来候所、
    おのづから松島之島のけしきに似寄、
     この池之島を見るごとに絶景を想慕いたされ候ゆゑ、この名つき申候。
     この丹罫紙へ御揮写可被下候。
    異なる紙に候が、
    是は碑石之大きさにて御坐候。
     その箇所々々各碑一本づゝ建申候。
    詩歌を彫、地名を表申候。
    白河転封にて何角一藩多忙に御坐候。
     大夫之隠居、吉村又右衛門之父なり、
    病にて年若く辞し、退隠仕候而、
    只風月文墨にのみ耽好のをとこに候。
     南湖に
    別荘あり、
    その御寄題相願度よし申越候。
     これは春の事にて候ひき。
     今桑名へ行てはいらぬやうなれども、
    先生之佳作なくては遺憾に可存、
     転封はしらぬふりにて御一首御構成奉祈候。
     外に一双如別紙相願申候。乍御面倒ひとつびとつ相願申候。
     各横巻也。料紙呈上仕候。頓首。7/25(廿五)。輔拝具。歳寒園主人君。」

     月堂が
    築地園中の恍然島のために霞亭の詩を求めたのは、
     楽翁侯の命ずる所である。
     わたくしは今海軍大学校になつてゐる旧邸の園に、
    文字を刻した石の幾箇かゞ遺つてゐることを聞いた。
     恍然島の標石は其中に存してゐるや否や。

     書中に謂ふ転封は
     両松平と阿部との間に行はれた。
     元の奥平氏姫路少将忠明の裔松平下総守忠尭が
     伊勢国 桑名郡桑名より 武蔵国埼玉郡忍へ移り、
     楽翁侯の嗣 松平越中守定永が
     陸奥国白川郡白川より桑名へ移り、
     阿部善右衛門正勝の裔 鉄丸正権が忍より白川へ移つたのである。
    (奥平氏・・大学時代、友人が結婚した先、
    たしか・・よど号事件??
    北鮮関係で出てきたような気がする・・??・・??)
     此書を得た時、霞亭は既に脚気を病んでゐた。そして其病は遂に癒えなかつた。わたくしは翌日岡本花亭の霞亭に与へた書に由つてこれを証することが出来る。亦浜野氏の示した所である。「拝誦、御清適奉賀候。乍去御脚疾に而御引籠の由、御困り可被成、折角御保養奉祈候。豚児共も両人共久々重腿の患に而困却致候。時気により候や、此夏は所々に有之候。聯玉(山口凹巷)壮寧のよし被仰越候趣具悉、近便私への伝言も委曲申来候由、忝事に御坐候。私も大に無音仕候。御返書被遣候時、何分宜奉願候。御国元御家老方より御一幅托題御求のよし、其外扇頭白紙等被遣被仰下候趣、被入御念候事に奉存候。容易之儀、不日に相認可申候。御新居趨賀こゝろ掛居候へ共、近来冗紛、日又一日延引仕候。何れ近日御尋可申上候。来月この頃には墨水辺へ御同伴仕度含罷在候。何分御脚疾御保護奉禱候。草々拝答、余は期面晤候。頓首。七月廿六日。成復。霞亭雅宗梧下。茶山先生へ大御無音、やうやう昨日長崎奉行発軔に付し、一封呈し候。如仰昨夜は暴雨、暑はかくて退候半。甚御遠々敷候。ゆるゆる御物語を期し、何事も申残候。御風呂敷もとゞめ置候。」

     花亭の茶山に寄する書を托した長崎奉行は、此月に問宮筑前守信興に代つた高橋越前守重賢である。

     8/10、古賀穀堂が書を霞亭に与へた。
    「秋暑未退候処、愈御清福被成御奉職奉賀上候。
    御出府後毎度御尋可申上相心得居候処、御聞及も可被成、
    俗務牽絆不得如意、大背本意候。
    何とぞ不遠内遂御一面度候。此筋御序御座候はゞ御尋可被下候。
    何とぞ結社請教(度)ものと存候。
    東都も諸家林立候得共、色々之流義御坐候と相見、
    且暇も無之、皆以遠々敷罷過申候。
    茶山先生毎々御恵書此方よりは甚失敬仕候。
    別書奉復仕候間、御序に被遣被下度御頼仕候。
    御近著之書御垂示被成度、此段奉得御意候。
    草々頓首。8/10 燾。
    北条仁兄。
    尚々此書昌平諸生へ嘱候間、
    御落手遷延候(事)も可有之と存候也。」
    此書は艸体読み難きが故に、所々意を以て補塡した。
    穀堂は社を結んで学を講ぜむとして、
    霞亭にこれを謀つてゐる。
    此時穀堂(46、霞亭より長ずること3歳、
    父精里を喪つて後6年)
    弟の伺庵(35)


    文政7(1824):白河藩士の田内月堂(定信の近侍)から
    『浴恩園図並詩歌巻』を??に届けられ
    この中に白河藩お抱え絵師の星野文良の梅の絵があり
    添書に「かの手折りてまいらせし梅のすがたをこゝにうつさしむ」
    とあり
    まさに定信が手折った梅を描いていることからも,
    茶山と白河藩士たちにとって,
    浴恩園での宴は,忘れがたい出来事であったのでしょう。
       文政10(1827)、茶山は,生涯を神辺で閉じ
    その2年後,大火により,浴恩園も灰燼と帰す
    その2ヵ月後,定信も暗殺??
       
     
    なお・・・
    明太子についても鴎外は調べている・・

    我が家では
    矢田から
    屋台を引っ張って
    鶴が丘で長くたこ焼きの屋台をしていた朝鮮半島からの移民のおばさんが
    診療所が終わる頃に
    たくさん、焼いて持ってきてくださって
    高校時分には
    特製トンカツソースを一本頂いたことがあるのですが
    私が婚約する頃??・・??
    相生の家に引越したときに
    母に診療所で
    本当のメンタイコは
    鯛の子でできてるんだといって
    持ってきてくださったそうで
    その頃、まだ、大阪には明太子は普及してなくて
    私たちは
    タラコの大きいようなのだけれど
    お味がついているようだし
    どうして頂いていいのか分からずに
    タラコのように
    焼いてみたけれど
    結局、わからなくて、
    お酒のみのご主人のいらっしゃるお手伝いさんが持って帰ったことがある・・

    ま。ピザも最初はびっくりして臭くてショックだったのですが・・

    エイズ血清で問題になったミドリ十字が
    博多の明太子会社にのっとられたのか??・・??
    結婚後、
    夫はプロパーが大量にタッパー詰めした明太子を
    どっさりと医局においていったというので
    大量に持って帰ってきて
    それから
    ご飯に生のままで頂くというのを知ったのですが
    その時代の大阪には
    明太子も納豆も流通していなかった
    納豆というと甘納豆だった・・

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