wikiペディアにあるような基礎情報は全て抑えたので
それ以外の雑学でお願いします。
初めての少年向け週刊誌「少年マガジン」と「少年サンデー」が創刊された日
1959年(昭和34)の今日,初めての少年週刊誌「少年マガジン」と「少年サンデー」が創刊された。講談社の「少年マガジン」は一冊40円,小学館の「少年サンデー」は30円。表紙にはそれぞれ,当時の少年達の憧れのスターを登場させている。マガジンは前年の3月,11月と幕内優勝を飾った大関朝汐を配し,創刊特集も大相撲春場所。片や野球界のスーパースター,長島茂雄を登場させたサンデーは,当然のことながらプロ野球特集を組んでいる。両誌が演じることになる,その後の熾烈なシェア争いを予感させる同時デビューだった。
週刊少年サンデーの1997年28号表紙用カラーと
犬夜叉完結記念で発売された【犬夜叉とかごめ】の表紙が
同じらしい
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1232823...
サンデーが手塚治虫を破格のギャラで囲い込もうとしたそうですが、結局は破談となったようです。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~daddy8/y/160/f.htm
価格設定でも、このような暗闘を繰り広げた両社ですが、問題は中身。
どのような作家でラインナップを組めるかということは、長期的な販売競争に決定的な影響を及ぼします。
ここでも「サンデー」が先手を打ちました。
その秘策は、初代・サンデー編集長豊田亀市が号令した“漫画の神様”の囲い込み。
人気絶頂の手塚治虫から独占契約を取り付け、以後、「少年サンデー」以外には執筆させないというものでした。
当時の手塚治虫は月に7本の連載を抱え、その他に読みきりやグラビア特集の絵も描くという超・売れっ子。
何と言っても、光文社の『月刊少年』に連載している国民的人気の「鉄腕アトム」まで辞めさせて、それら全てを補償する破格の専属ギャラを提示したのです。
←(提示月額は、小学館の社長の給料よりも高かった。)
そこまで覚悟を決めた小学館でしたが、この申し出はニベもなく却下されました。
手塚治虫いわく・・・
「僕はお金うんぬんではなくて、作品をいろんな場所で描いていきたいんだ。」
コメント(0件)