そこで、なぜこのような『科学的根拠』を重要視する風潮にあるのかということをうまい具合に説明できません。
どのなたかお教えください。
主観的な見解ですが、個人芸・職人芸が尊重されない風潮なんじゃないですかねえ。
それと反対に「客観的」であることが異様に重要視される時代なのでしょう。
「科学的根拠」が形式的にそろっていれば、法的にも対外的にも文句をつけにくく、客観的な判断であったと
見なされるわけです。
その実、科学的って何かは誰も分かっていないようです。
データがそろってれば帰納的に裏付けられるというのは、短絡的です。
データがいくらあっても再現できない現象はいくらでもありますから。アリゾナの天文台でローウェルは火星に縞模様を観測しましたが、その後誰も火星に同じものを見ていません。ここでは、ハンソンのこの本を議論の参照にしてます。
医学もそれに近いものがあります。薬品はヒトによって効き方が異なります。全然効かないケースもある。
麻酔がなぜ効くか、鍼灸がなぜ効くか、分かってないです。偽薬効果などは最たるものでしょう。
http://www.gsic.jp/for/fr_05/isg/09_04.html
この医師はEBMで従来の治療法が有害で、有害そうな治療が有効だと判明した、とEBMの効能をアピールしてます。
実際に無作為二重盲検法(偽薬と対象薬で比較対照試験を行う手法)で研究すると、従来の治療が実は有害と判明し(心筋梗塞後の抗不整脈薬)、直感的に有害そうな治療が実は有効(心不全に対するベータブロッカー(薬)など)なことが判りました。
でも、その実有害そうな治療法でも有効なケースがあって、判断が微妙だから逆転してたわけです。多くのケースを集計すると差分が有意になるのがEBMの本質であるなら、十分なケース数は逆の結果だったわけです。偽薬で治った患者だっていたわけでしょう。
こういうのは実証的だとは言えるけど、科学的だとは言い難いですね。
人それぞれで再現性が弱いわけですから。
EBMの方法論は疫学に由来するのでしょう。つまり、集団的な傾向分析しかできないので、個体についてはそれほど説得力検証力がないんじゃないでしょうか。
何はともあれ、どのような仕事も数値化してデータをとることが当たり前の時代なので、それを管理することが巾をきかせている、ただそれだけのような気がいたします。
◆科学的根拠
仮説が統計的に有為にあるかどうかで、その正しさ(有効性)を判定している。
http://www.tuins.ac.jp/~ham/tymhnt/analysis/d/d_kensyo.html
◆根拠は本当はない
たとえば、医薬品とかでも本当は人体にどんな影響があるかをきちんと調べれなくて
上記方法によってしか有効性を確かめられないから。
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事物によるんじゃないですかね?
医療関係とかなら「科学的根拠」だし、人の権利に関することなら「法的根拠」だし
最近は怪しげな宗教団体も増えてきたし、テレビもあてにならないですからね・・・
人を納得させるには「根拠」が必要なんですよ
同じ科学の分野にしても、いろんな学説があってどれが正しいか一般人には判断できない
そこで実験をやってその説を「根拠」付けるのです
裁判で言うとこの証拠に近いものだと考えていいと思いますけどね
「科学的」とは、誰がどこでやっても再現できるということを意味します。
人間は、自分の目の前で行われていることを信じる傾向があります。
本やテレビの中でなく、自分の目の前で“科学的に”再現されていれば、相当な説得力を持つわけです。
絶対的な説得力をもつという意味で、「科学的根拠」を重視しています。
以前は、人間の感覚の方が科学的根拠よりも優れていると考える人が多かったように思います。
最近では、確かに科学的根拠を優先させる動きが強くなってきましたね。
これは、コンピューターなどの発達に伴って、人間の判断よりも、コンピューターなどの判断が優先されてきたという事になると思います。人間の感覚では、単純な作業を間違いますけど、コンピュータは、単純作業を間違わないのです。
それが、単純作業や単純な判断では、科学的根拠を優先する理由です。
ただし、複雑な作業になればなるほど、人間の入り込む要素はあると思います。
つまり、その複雑な作業こそ価値があると捉えられています。
渡辺竜王 VS ボナンザ 世紀の対決 1-1 2007年です。
http://www.youtube.com/watch?v=im_JbXZn2QQ
将棋とコンピューター2000年
主観的な見解ですが、個人芸・職人芸が尊重されない風潮なんじゃないですかねえ。
それと反対に「客観的」であることが異様に重要視される時代なのでしょう。
「科学的根拠」が形式的にそろっていれば、法的にも対外的にも文句をつけにくく、客観的な判断であったと
見なされるわけです。
その実、科学的って何かは誰も分かっていないようです。
データがそろってれば帰納的に裏付けられるというのは、短絡的です。
データがいくらあっても再現できない現象はいくらでもありますから。アリゾナの天文台でローウェルは火星に縞模様を観測しましたが、その後誰も火星に同じものを見ていません。ここでは、ハンソンのこの本を議論の参照にしてます。
医学もそれに近いものがあります。薬品はヒトによって効き方が異なります。全然効かないケースもある。
麻酔がなぜ効くか、鍼灸がなぜ効くか、分かってないです。偽薬効果などは最たるものでしょう。
http://www.gsic.jp/for/fr_05/isg/09_04.html
この医師はEBMで従来の治療法が有害で、有害そうな治療が有効だと判明した、とEBMの効能をアピールしてます。
実際に無作為二重盲検法(偽薬と対象薬で比較対照試験を行う手法)で研究すると、従来の治療が実は有害と判明し(心筋梗塞後の抗不整脈薬)、直感的に有害そうな治療が実は有効(心不全に対するベータブロッカー(薬)など)なことが判りました。
でも、その実有害そうな治療法でも有効なケースがあって、判断が微妙だから逆転してたわけです。多くのケースを集計すると差分が有意になるのがEBMの本質であるなら、十分なケース数は逆の結果だったわけです。偽薬で治った患者だっていたわけでしょう。
こういうのは実証的だとは言えるけど、科学的だとは言い難いですね。
人それぞれで再現性が弱いわけですから。
EBMの方法論は疫学に由来するのでしょう。つまり、集団的な傾向分析しかできないので、個体についてはそれほど説得力検証力がないんじゃないでしょうか。
何はともあれ、どのような仕事も数値化してデータをとることが当たり前の時代なので、それを管理することが巾をきかせている、ただそれだけのような気がいたします。
医療の分野でもいろいろなガイドラインがあるようですね。診療ガイドライン - Yahoo!百科事典
医療の分野に限らず、今は、どんな業界でも監督官庁がガイドラインを策定し、企業はガイドラインに従って、読み切れないほどたくさんのマニュアルを作っています。
何か問題が起こった場合に、企業の責任が問われ、また、監督官庁としての責任が問われる判断基準が、「ガイドラインやマニュアルを遵守していたかどうか」に重きが置かれている時代になってしまったと感じます。
リンク先の文章中に「従来は病院や学閥、有力医師ごとに診療内容の基準が違うことが珍しくなかったが・・・」とありますが、以前は病院や企業がそれぞれの理念に基づいて行動し、医師や経営者がそれぞれに自らの信念に基づいて行動できていたということではないかと思います。悪い言い方をすれば「殿様商売」ができていたというイメージでしょうか。
しかし、現代は「弱者保護」の風潮にあるというか、これまで「弱者」に位置づけられていた患者や消費者の立場や発言力が強くなり、従来は「強者」であった病院や企業が、何か失敗をしてしまったような場合に、患者や消費者からのクレーム対応に困ってしまう場面が増えてきて、何らかの拠り所=「(科学的)根拠」に頼らざるを得なくなってきたということではないでしょうか。
従来は、うやむやな説明をしても患者や消費者が納得していたのに、最近は、明確な説明材料を示さなければ患者や消費者が納得してくれなくなってしまった、ということなのかな、と思いますが、いかがでしょうか。
科学って曖昧なものが多いし、世のあらゆる科学的根拠が絶対的なものではないです。
ただ科学がこれまでの世の中の文明を発展させてきた事だけは事実なんです。
車も電車も飛行機も科学から生まれたもの。
その科学を生み出してきたのはその分野においての専門的知識を持った人間の実験と検証。
スポーツの世界でも昔に比べれば科学的根拠が重視されるようになってきている。
ウエートトレーニングもこんな鍛え方をすれば必ず良くなるという絶対的なものはない。
だからと言ってやみくもにやれば良いというものでもない。
時がたてば今より正しい理論が見つかるかもしれない。
それでも現時点で判断するには、何の知識もない素人の理屈よりも専門的な知識を持った人間が
実験して検証して出した理論、科学的根拠の方がより正しい答えに近いのではないかと。
絶対的ではないけど歴史からくる実績と確率論からくる現時点の最も真実に近いと思われる答えだからではないでしょうか?
コメント(1件)
それとも何かい?未だに占い師がガンの治療したりすんのかね?
ああ、だから治らないんだ、、
科学的根拠というか論理的思考であれば自然にそういう事にならざるを得ない。
「あいつは黒い服を着てるから魔女だ」
「どれどれ、では拷問して尋問してみよう」
→「ありゃ、死んじゃった、では、こいつは無罪じゃ」
→「うむむ、しぶとい奴め、絶対に有罪を認めないんだな、これだけしぶといのは魔女の証拠じゃ、火あぶりの刑」
芸術と科学は全く別物。
そのデータは本物か?
それをきちんと検証するのが科学。
有害そう、、、「そう」じゃなく、千人に試して990人に有害で、10人に有効だった場合、有害と判定するとか、そういう基準で言う。
確かに1%の人間には良くても、99%に有害であったらおいそれと使える手段ではない。
逆であれば普通に使う。1%の人間にはお気の毒としか、、、
事前にその1%が判明するならもちろん避けるが、使わなければいずれにしろ悪化するのであれば1%のリスクとして試してみるのが順当な判断。
ところが、リスクが99%では避けた方が無難。
どうしても1%に賭けたいならそれは当人次第。
あくまでケースバイケースであって、全ての場合に適用するのは間違い。