坂本龍馬は「土佐藩を脱藩した」といいますが、実際に「藩」という言葉が一般に使われるようになったのは明治維新後の「府藩県三治制」が採用されてからのことのはずです。では、龍馬の「脱藩」という行為は、その当時、一体何と表現されていたのでしょうか。


※司馬遼太郎などの小説における記載は除外して、実際の文献や歴史学的に裏付けのある表現を求めています。よろしくお願いいたします。

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  • 登録:2010/05/12 23:13:19
  • 終了:2010/05/17 12:59:14

ベストアンサー

id:rsc96074 No.3

rsc回答回数4398ベストアンサー獲得回数4032010/05/13 06:35:13

ポイント30pt

 「国抜け」のようです。

●神戸新聞 編集局から 読者から

こうした記述を総合すれば、今日言う「藩士の脱藩」は、「逐電」または「出奔」と称していたようで、実際、幕末の手紙などの私文書に、脱藩の意味で出奔や亡命と記したものを見かけますが、坂本竜馬研究家の土居晴夫さんによると、竜馬が脱藩した際、高知では「国脱(ぬ)け」と呼んだと言います。

http://club.kobe-np.co.jp/mint/blog/hen20081219.html

●龍馬堂>>考龍馬伝>>安政五年~文久二年>>国脱け

http://homepage2.nifty.com/ryomado/Sakaryo/SRanec/saryo_anec04-1...

id:matsunaga

上のページには「「初出」を意識的に拾っている日本国語大辞典などでは、明治6年刊の「近世紀聞」にある「我が輩は水府の脱藩にて」との例文を挙げるにとどまっていて、江戸期にはさかのぼれません。」とありますね。

亡命、脱国、国脱け、出奔あたりが実際に使われていた言葉の可能性が高いですね。

2010/05/13 09:23:02

その他の回答(5件)

id:SALINGER No.1

SALINGER回答回数3454ベストアンサー獲得回数9692010/05/12 23:47:14

ポイント30pt

確かに、wikipediaの藩を見る限り、

江戸時代から藩という言葉はあったが、一般的に使われるようになったのは明治以降、府藩県三治制以降ということになるでしょうか。


この当時の書簡で脱藩というのはどう言っていたかがわかる書簡があります。

宮迫、じゃなくて平井収二郎が加尾にあてた書簡で脱藩ではなく「亡命」という言葉を使っています。

http://bakumatu.blog82.fc2.com/blog-entry-518.html

id:matsunaga

なるほど、実際の書簡は説得力がありますね。

2010/05/13 09:14:19
id:owada No.2

owada回答回数159ベストアンサー獲得回数252010/05/13 00:21:48

ポイント30pt

とても興味深いテーマで答えを知りたくなり自分でも調べてみました。

確かに、ご指摘のようにずいぶん誤った考えが横行しているようです。

こちらのような考えが一般的だったと思いますが、これは考えを改めねばなりません。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/845779.html

こちらは比較的当時の用語などが出ている例だと思います。

http://homepage2.nifty.com/ryomado/Sakaryo/SRanec/saryo_anec04-1...

見る限りでは「脱国」「亡命」という言い方をしているようです。

id:matsunaga

「脱国」も当時の文献に載っていればいいのですが……。

2010/05/13 09:19:33
id:rsc96074 No.3

rsc回答回数4398ベストアンサー獲得回数4032010/05/13 06:35:13ここでベストアンサー

ポイント30pt

 「国抜け」のようです。

●神戸新聞 編集局から 読者から

こうした記述を総合すれば、今日言う「藩士の脱藩」は、「逐電」または「出奔」と称していたようで、実際、幕末の手紙などの私文書に、脱藩の意味で出奔や亡命と記したものを見かけますが、坂本竜馬研究家の土居晴夫さんによると、竜馬が脱藩した際、高知では「国脱(ぬ)け」と呼んだと言います。

http://club.kobe-np.co.jp/mint/blog/hen20081219.html

●龍馬堂>>考龍馬伝>>安政五年~文久二年>>国脱け

http://homepage2.nifty.com/ryomado/Sakaryo/SRanec/saryo_anec04-1...

id:matsunaga

上のページには「「初出」を意識的に拾っている日本国語大辞典などでは、明治6年刊の「近世紀聞」にある「我が輩は水府の脱藩にて」との例文を挙げるにとどまっていて、江戸期にはさかのぼれません。」とありますね。

亡命、脱国、国脱け、出奔あたりが実際に使われていた言葉の可能性が高いですね。

2010/05/13 09:23:02
id:yuto0414gt No.4

D-M-S回答回数5ベストアンサー獲得回数02010/05/13 18:01:34

ポイント5pt

社会の授業中、先生は脱藩とは言わずに、国を抜けた、国抜けしたと言いましたよ。

先生に脱藩って言わないのか聞いてみたら、「うーん、微妙だなー。」と言われました。

国抜けだと思います。

http://q.hatena.ne.jp/answer

id:matsunaga

たぶんその社会の先生と問題意識は同じように思われます。

ただ、ここではその社会の先生が「なぜ」そう考えたのかという根拠を示していただければと思います。

2010/05/14 10:43:23
id:edokko23 No.5

edokko23回答回数2ベストアンサー獲得回数02010/05/15 14:46:46

ポイント25pt

「脱藩」ではないが「藩中」という言葉が文政、天保年間に使われています。

http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/21sai.html の下段部に、

「今通った侍は飛脚でもないが藩中でもなし、なんだろう」


勝夢酔(海舟の父)が書き残したもので、箱根の関所を無手形なのに

通して貰った時の役人の言葉。藩という言葉が使われていた証拠です。


又、剣術の「道場」とは言わず「稽古場」と言ったとの説がありますが、

夢酔は両方を使っていますし、その他にも当時の話言葉がたくさん残る

貴重な読物と思います。


ついでに、某大河ドラマで勝安房守に「おいら」とか言わせていますが、

親子共に普通に「おれ」と話しています。「おいら」なんてありません。

id:matsunaga

ありがとうございます。これは天保十四年(1843)の文献ですね。

今回の質問では、藩という言葉がなかったとは一度も述べていません。

ただ、それが行政区画の正式名称として使われたのは明治以降で、また「脱藩」という言葉を龍馬が発したという証拠は今のところ見つからないという事実を確認しています。

2010/05/15 22:41:33
id:adlib No.6

adlib回答回数1903ベストアンサー獲得回数1132010/05/16 01:53:09

 

 Personal Escape ~ 新島 襄、二十一歳の場合 ~

 

 わたしは高校一年の折、加藤延雄校長の「新島伝」を受講しましたが、

「脱藩」や「脱出」などのキーワードは記憶にありません。

 あるいは「出奔」よりも「出帆」ではなかったかと思いだします。

 

 不在を伏せて(家族が)藩の録高を受取っていた可能性もあります。

── 元服後、安中藩士となるが元治元年(1864年)、国禁を犯しての

アメリカ合衆国への渡航を画策する。── (Wikipedia)

 

 下記の解説は「海外遊歴の秘望」「夜陰に乗じて、幕府の厳重な禁制

を犯し、海外へ脱出」などと表現していますが、当時の本人の書状では、

注意深く「只々帰錦の事のみ御待ち下され」と婉曲表現しています。

 

 新島 襄 18430212(天保14.0114)江戸 小田原 18900123 48 /客死

/幼名=七五三太/18741126-1128 帰郷/18751129 同志社英学校創設

 18640717(元治 1.0614)函館より江戸の父への書簡(↓)

 

── 新島は(略)築島の英人ポーターの商館に勤めていた日本人書記

の福士屋卯之吉(福士成豊)と相識り、彼に海外遊歴の秘望を打明けた。

卯之吉は新島をべルリン号(Berlin)の船長セイボリー(William T.Savoy)

に紹介し、ここに、いよいよ卯之吉とセイボリー船長の義侠的幇助によ

り、六月十四日(陽暦七月十七日)の夜陰に乗じて、幕府の厳重な禁制

を犯し、海外へ脱出することになったのである。此の書簡は、かかる一

大事を決行せんとする際に、家郷へ認めたものである。(P27)

 

── 一簡捧げ奉り候。向暑のみぎりに御座候処、御祖父様初め、益々

御勇健に御座なされ候はん事、大慶に存じ奉り候。随て私事も無異勉励

仕り候間、憚りながら御安慮遊さるべく候。

 然らば両三日以前、私罷在り候魯館に於て写真会これ有り候処、私師

匠二コライ私に勧め、男児苟くも四方の志をなせば、須らく其身を写し、

家郷へ遣すべしと、呉々も申聞け、無代に写真致し呉れ侯間、則ち捧呈

仕り候。何卒此写真を御眺め下され、私事朝夕御膝下に罷在り侯様思召

し、決して私事を御案じ下されまじく、只々帰錦の事のみ御待ち下され、

御加療専一と存じ奉り候。

 右貴意を得たく此の如く御座候。 勿々敬白

  六月十四日(一)           七五三太 百拝(P27-28)

http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/B000JB59M4

── 同志社・編《新島襄書簡集 19541205-19880316-20000707 岩波文庫》

 

── Uris, Leon Marcus《Exodus 1958-19610622 America》

http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD1104/index.html

 邦題「栄光への脱出」←旧約聖書《出エジプト記》に由来。

 

id:matsunaga

これは藩を脱けたのではなく、出国の禁を犯したという事例ですね。

2010/05/16 11:18:23
  • id:SALINGER
    龍馬が出奔を使っている書簡がありました。
    乙女も京に行きたいというのを諭す書簡です。
    http://space.geocities.jp/kamito_ken/SakamotoRyomaLetter5.html#Keio30624
    「坂本家の行く末に頭を痛める(その三)」に
    ─〇しっぽんしたれバ─私しの御国にかへるまで死でも御まち可被成候。
    とあります。
    この「しっぽん」=「出奔」であることは間違いないのですが、
    ここで脱藩の意味で使っているのかがちょっとわかりづらいところです。


  • id:rsc96074
    答えが一つとは限らないかも。人によって呼び方が違っていたかも。(^_^;
  • id:matsunaga
    もちろん答えは多数あると思いますが、当時の表現の中に「脱藩」はないのかどうか、ということがポイントです。
  • id:SALINGER
    龍馬伝のドラマの中で久坂玄瑞が「脱藩」と書いたというシーンがあるらしいですが、それは創作として、
    最近見つかった龍馬が運んだとされる久坂玄瑞から武市半平太への書簡で「尊藩」という言葉を使っています。
    http://sakamoto.noramba.net/e103812.html
    少なくとも長州とかの中心的な人物は「藩」という言葉を使っていたのではないかと。
  • id:matsunaga
    少なくとも「土佐藩」「長州藩」といった藩名呼称に「藩」という言葉が正式採用されたのは明治維新後のことですね。
    尊藩・弊藩という言葉は確かにあったようですが、維新の志士たちによる漢語での気取った表現と思われます。
    脱藩という言葉は、今のところ維新前に使われた例がないように思われます(代わりに国脱け、出奔、亡命の用例はあるわけで……)。
  • id:SALINGER
    幕末志士の書簡などから脱藩という言葉を探してみてるのですが見つからないですね。
    勤王派が実験を握っていた長州では珍しく、高杉晋作は6回脱藩したのでそちらを探してみたけど、
    http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/az0012.htm
    >>
    亡命誓書を書き置きし、出奔
    <<
    と長州でも「亡命」は使ってるっぽい。
  • id:SALINGER
    調べていておしかったので紹介しておきます。
    脱藩については、長州藩の須佐で起こったことを記録した回転実記に使われています。
    http://www.geocities.jp/susakyodoshi/edition001/kaitenjikki01.htm
    このP2の1864年(蛤御門の変)のところに脱藩という文字が2回出てきます。
    (後の方でも2回ほど)
    ただし、残念ながらこれは歴史書なのでこのときに書かれたものとは限らず、
    後に書かれたものである可能性が高いと思われます。
  • id:matsunaga
    ありがとうございます。同ページから最後まで見てみましたところ、
    「回天実記」の最終項目は明治二年八月の記載となっています。
    http://www.geocities.jp/susakyodoshi/edition005_06_12/kaitenjikki_6.htm
    というわけで、これは明治に入ってから書かれたものであること、
    また漢文体なので漢語風表現が特に選ばれていると考えられますね。
  • id:adlib
     
     追記
     
     晩年(188304‥)には「わが藩(安中藩)を去って」「脱奔した罪」
    と述べています。もとは藩主の命で出国した可能性もあり、留学許可
    を得た翌年(1872)に、田中不二麿(文部省)の通訳を務めています。
      
     脱奔 ~ 同志社設立の始末(口語改訳)~
     
    ── 幕府政治の末期にあたり、外交がせっぱくして、時世が、いよい
    よ危険となり、人心が騒がしくなってきたときのことである。かねてか
    ら海外に渡って、勉学したいという志をいだいていたわたしは、わが藩
    (安中藩)を去って、遠く函館におもむき、よい機会を待っていたので
    あるが、ついに元治元年(一八六四年)六月十四日(陽暦七月十七日)
    のま夜中に、ひそかに、国の禁じている法令を犯して外国商船(ベルリ
    ン号)に乗りこみ、一水夫となって働きながら(上海で米国商船ワイル
    ド・ローヴァー号に乗りかえ)およそ一箇年ばかりの間、海上生活のさ
    まざまの苦しい経験をなめたのち、ようやくにして米国(ボストン)に
    到着することができた。(P289)
     
    ── 田中理事官に随行するに先だち、ありがたいことには、わが政府
    から特別の恩典によって以前わたしが国の禁令を犯して海外に脱奔した
    罪をゆるされたばかりでなく、帰国して官職につくことさえも、いくた
    びかすすめられたけれども、わたしとしては、将来ちかって一身を教育
    事業にささげ、まことの正しい文明文化を日本にみちびきたいと、切に
    望んでいたので、かたくそのすすめを断って、理事官と欧州で別れたの
    ち、再びわたしは米国にひきかえし、そうして、さらに勉学をつづけ、
    ついに卒業の初志を達することができた。(P291)
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/B000JB59M4
    ── 同志社・編《新島襄書簡集 19541205-19880316-20000707 岩波文庫》
     
  • id:SALINGER
    少し期待したんですが、これも後の1883年に脱奔と述べたということでしかないですね。
    ただいつの時代から脱藩という言葉が使われるようになったかを考える場合、
    桜田門外の変の脱藩藩士による事件とかをきっかけとして脱藩という行為が
    世に広まった後のことかもしれませんし、脱奔から音が似てる脱藩になったのではないかとか
    想像はいろいろできますね。
     
    むしろ脱藩という言葉よりも、この時代の志士が藩というものをどういう捉え方をしていたか
    のほうが気になるところです。
    司馬遼太郎さんの「峠」等に書かれていることで、この時代日本は一つの国であるという意識は無く、
    藩とは自国であるという認識だったとあります。
    それで行くと、国脱、亡命というのはうなずけます。
     
    黒船が来航し吉田松陰をはじめとする先進的な学識のある志士達が、幕藩体制について論じる。
    そうして初めて自分たちの国は日本の中の藩なのだと認識し始める。
    龍馬が脱藩したころそういう見地に立っていたのかはわかりませんが、
    藩という認識が違ったなら「脱藩」という言葉が使われるようになったのはずっと後のように思います。
  • id:adlib
     
     追々記
     
    >1883年に脱奔と述べたということでしかない id:SALINGER<
     第三者が云ったのではなく、当の本人が述べた点が趣向なのです。
    (家族や友人が、なるべく気をつかって言葉をえらぶように)
     
     たとえば、自分で「落第した」と云わず「留年した」と云ってみたり、
    おなじく「夜逃げ」を「経済的亡命」と置換するような心理的偽装です。
    (もちろん他人については「落第、夜逃げ」と指差すたぐいですが)
     
     脱国 ~ 脱国の理由書(原文未祥)~
     
    ── ローヴァー号の船主A.ハーディーと夫人に「脱国の理由書」を
    提出。夫妻は新島のいわば「養父母」となる決意を固める(186410‥)。
    http://joseph.doshisha.ac.jp/ihinko/bubun/disco/02.html
     
     同志社の関係者も、あれこれ気をつかっている形跡があります。
    ── 加藤 延雄《新島七五三太の脱国に関する二・三の点につき 196501‥ 新島研究:30号》
    http://www.doshisha.ac.jp/academics/institute/archives/publish/neesima/neesima21-40.php
     
  • id:SALINGER
    本人が述べようが本人が記録しようが、それが1869年の府藩県三治制以後だということです。
    質問の意図はその府藩県三治制以前に脱藩を文献で何と表現されているかです。
    脱奔が使われていたかもしれません。
    ですが、それを証明する当時の手紙や日記ではないということです。
    まあそれも、脱奔が「出国の禁を犯した」以外に脱藩の意味があればですが。
  • id:adlib
     
     脱国 ~ 脱して此国に至る(木戸日記)~
     
    >本人が記録しようが、それが1869年の府藩県三治制以後 id:SALINGER<
    ── 公式には「藩」とは明治2年(18690725)の版籍奉還から明治4年
    (18710829)の廃藩置県までの2年間だけの制度である。──(Wikipedia)
     
     すると「廃藩」によって「脱藩」という熟語が生れたことになります。
     ならば「脱国の理由書(186410‥)」は、どう解釈すべきでしょうか。
     脱国しなくても脱藩できますが、脱藩しなければ脱国できないのです。
     
     脱藩は藩の、出国は幕府の禁令であったとしても、維新前後の要人に
    とって、さしたるインパクトがなかったようにも思われます。
     もっと大きな構図が、あらかじめ敷かれていたのではないでしょうか。
     
    ── アーリントン・ホテルに於て、日本特命全権副使 木戸孝允(略)
    の「日記(18720321)」には「今日西島(新島の誤り)始て面会す。同
    人は七八年前学業に志し、脱して此国に至る。当時已に大学校を経、此
    度文部の事にも着実に尽力せり。頼むべきの一友なり」とある。(P89)
     
  • id:matsunaga
    この質問の趣旨はまさにid:SALINGERさんのおっしゃるとおりです。
    明治以降になって振り返って発言するとき、後世の言葉で当時の状況を表現することはいくらでもあります。
    たとえば、戦前は「大東亜戦争」と呼ばれていたものについて、当時生きていた人が「太平洋戦争」や「第二次世界大戦」という言葉をもって認識していたはずはありません。しかし、戦後に出版されたもので、元兵士が「太平洋戦争に私が出征したとき」と言ったとしても、それは終戦前に太平洋戦争という言葉を使っていたということにはならないのです。
    なお、明治以降の「国」というものが、近代ナショナリズムや水戸学・国学を背景にした新しい概念であり、それ以前はまさに藩に該当する範囲(大名の治める範囲)や律令制の「国」(武蔵、伊豆、等々)も含めて非常に曖昧かつ多義的なものであったということを認識する必要があると思います。山内公の領土(いわゆる土佐藩)も、「土佐国」も、日本六十余州も、いずれも「国」と呼んで差し支えなかったはずです。
    ですから「脱藩なくして出国なし」というのは、まさに「府藩県三治制」で明確にされた概念、すなわち「国の下に府藩県がある」という階層構造をもとにした発想であり、明治維新以前には存在しない発想であったと思われます。
  • id:SALINGER
    >公式には「藩」とは明治2年(18690725)の版籍奉還から明治4年
    >(18710829)の廃藩置県までの2年間だけの制度である。
    正式な採用されたのは前述のとおり。
    しかしそれ以前から使われているといたという事実もedokko23さんの回答と私のコメントにあるとおり。
    また、吉田松陰の文献の中にも「藩」という文字は使われています。
     
    >「廃藩」によって「脱藩」という熟語が生れたことになります。
    そういう文献がどこかにありますでしょうか?それを問うている質問です。
    廃藩になっているのに、脱藩という言葉ができるとは不可思議なことですが。

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