※司馬遼太郎などの小説における記載は除外して、実際の文献や歴史学的に裏付けのある表現を求めています。よろしくお願いいたします。
「国抜け」のようです。
●神戸新聞 編集局から 読者から
こうした記述を総合すれば、今日言う「藩士の脱藩」は、「逐電」または「出奔」と称していたようで、実際、幕末の手紙などの私文書に、脱藩の意味で出奔や亡命と記したものを見かけますが、坂本竜馬研究家の土居晴夫さんによると、竜馬が脱藩した際、高知では「国脱(ぬ)け」と呼んだと言います。
http://club.kobe-np.co.jp/mint/blog/hen20081219.html
●龍馬堂>>考龍馬伝>>安政五年~文久二年>>国脱け
http://homepage2.nifty.com/ryomado/Sakaryo/SRanec/saryo_anec04-1...
確かに、wikipediaの藩を見る限り、
江戸時代から藩という言葉はあったが、一般的に使われるようになったのは明治以降、府藩県三治制以降ということになるでしょうか。
この当時の書簡で脱藩というのはどう言っていたかがわかる書簡があります。
宮迫、じゃなくて平井収二郎が加尾にあてた書簡で脱藩ではなく「亡命」という言葉を使っています。
なるほど、実際の書簡は説得力がありますね。
とても興味深いテーマで答えを知りたくなり自分でも調べてみました。
確かに、ご指摘のようにずいぶん誤った考えが横行しているようです。
こちらのような考えが一般的だったと思いますが、これは考えを改めねばなりません。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/845779.html
こちらは比較的当時の用語などが出ている例だと思います。
http://homepage2.nifty.com/ryomado/Sakaryo/SRanec/saryo_anec04-1...
見る限りでは「脱国」「亡命」という言い方をしているようです。
「脱国」も当時の文献に載っていればいいのですが……。
「国抜け」のようです。
●神戸新聞 編集局から 読者から
こうした記述を総合すれば、今日言う「藩士の脱藩」は、「逐電」または「出奔」と称していたようで、実際、幕末の手紙などの私文書に、脱藩の意味で出奔や亡命と記したものを見かけますが、坂本竜馬研究家の土居晴夫さんによると、竜馬が脱藩した際、高知では「国脱(ぬ)け」と呼んだと言います。
http://club.kobe-np.co.jp/mint/blog/hen20081219.html
●龍馬堂>>考龍馬伝>>安政五年~文久二年>>国脱け
http://homepage2.nifty.com/ryomado/Sakaryo/SRanec/saryo_anec04-1...
上のページには「「初出」を意識的に拾っている日本国語大辞典などでは、明治6年刊の「近世紀聞」にある「我が輩は水府の脱藩にて」との例文を挙げるにとどまっていて、江戸期にはさかのぼれません。」とありますね。
亡命、脱国、国脱け、出奔あたりが実際に使われていた言葉の可能性が高いですね。
社会の授業中、先生は脱藩とは言わずに、国を抜けた、国抜けしたと言いましたよ。
先生に脱藩って言わないのか聞いてみたら、「うーん、微妙だなー。」と言われました。
国抜けだと思います。
たぶんその社会の先生と問題意識は同じように思われます。
ただ、ここではその社会の先生が「なぜ」そう考えたのかという根拠を示していただければと思います。
「脱藩」ではないが「藩中」という言葉が文政、天保年間に使われています。
http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/21sai.html の下段部に、
「今通った侍は飛脚でもないが藩中でもなし、なんだろう」
勝夢酔(海舟の父)が書き残したもので、箱根の関所を無手形なのに
通して貰った時の役人の言葉。藩という言葉が使われていた証拠です。
又、剣術の「道場」とは言わず「稽古場」と言ったとの説がありますが、
夢酔は両方を使っていますし、その他にも当時の話言葉がたくさん残る
貴重な読物と思います。
ついでに、某大河ドラマで勝安房守に「おいら」とか言わせていますが、
親子共に普通に「おれ」と話しています。「おいら」なんてありません。
ありがとうございます。これは天保十四年(1843)の文献ですね。
今回の質問では、藩という言葉がなかったとは一度も述べていません。
ただ、それが行政区画の正式名称として使われたのは明治以降で、また「脱藩」という言葉を龍馬が発したという証拠は今のところ見つからないという事実を確認しています。
Personal Escape ~ 新島 襄、二十一歳の場合 ~
わたしは高校一年の折、加藤延雄校長の「新島伝」を受講しましたが、
「脱藩」や「脱出」などのキーワードは記憶にありません。
あるいは「出奔」よりも「出帆」ではなかったかと思いだします。
不在を伏せて(家族が)藩の録高を受取っていた可能性もあります。
── 元服後、安中藩士となるが元治元年(1864年)、国禁を犯しての
アメリカ合衆国への渡航を画策する。── (Wikipedia)
下記の解説は「海外遊歴の秘望」「夜陰に乗じて、幕府の厳重な禁制
を犯し、海外へ脱出」などと表現していますが、当時の本人の書状では、
注意深く「只々帰錦の事のみ御待ち下され」と婉曲表現しています。
新島 襄 18430212(天保14.0114)江戸 小田原 18900123 48 /客死
/幼名=七五三太/18741126-1128 帰郷/18751129 同志社英学校創設
18640717(元治 1.0614)函館より江戸の父への書簡(↓)
── 新島は(略)築島の英人ポーターの商館に勤めていた日本人書記
の福士屋卯之吉(福士成豊)と相識り、彼に海外遊歴の秘望を打明けた。
卯之吉は新島をべルリン号(Berlin)の船長セイボリー(William T.Savoy)
に紹介し、ここに、いよいよ卯之吉とセイボリー船長の義侠的幇助によ
り、六月十四日(陽暦七月十七日)の夜陰に乗じて、幕府の厳重な禁制
を犯し、海外へ脱出することになったのである。此の書簡は、かかる一
大事を決行せんとする際に、家郷へ認めたものである。(P27)
── 一簡捧げ奉り候。向暑のみぎりに御座候処、御祖父様初め、益々
御勇健に御座なされ候はん事、大慶に存じ奉り候。随て私事も無異勉励
仕り候間、憚りながら御安慮遊さるべく候。
然らば両三日以前、私罷在り候魯館に於て写真会これ有り候処、私師
匠二コライ私に勧め、男児苟くも四方の志をなせば、須らく其身を写し、
家郷へ遣すべしと、呉々も申聞け、無代に写真致し呉れ侯間、則ち捧呈
仕り候。何卒此写真を御眺め下され、私事朝夕御膝下に罷在り侯様思召
し、決して私事を御案じ下されまじく、只々帰錦の事のみ御待ち下され、
御加療専一と存じ奉り候。
右貴意を得たく此の如く御座候。 勿々敬白
六月十四日(一) 七五三太 百拝(P27-28)
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/B000JB59M4
── 同志社・編《新島襄書簡集 19541205-19880316-20000707 岩波文庫》
── Uris, Leon Marcus《Exodus 1958-19610622 America》
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD1104/index.html
邦題「栄光への脱出」←旧約聖書《出エジプト記》に由来。
これは藩を脱けたのではなく、出国の禁を犯したという事例ですね。
上のページには「「初出」を意識的に拾っている日本国語大辞典などでは、明治6年刊の「近世紀聞」にある「我が輩は水府の脱藩にて」との例文を挙げるにとどまっていて、江戸期にはさかのぼれません。」とありますね。
亡命、脱国、国脱け、出奔あたりが実際に使われていた言葉の可能性が高いですね。