日米安保条約の発効日について質問です。

署名は1960年1月19日、発効日は同年6月23日とされていますが、なぜこの日が発効日とされたのか知りたいのです。
沖縄戦の終結日6月23日と何か関係があるのでしょうか。
よろしくお願いします。

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  • 登録:2010/05/18 21:35:48
  • 終了:2010/05/23 10:12:55

回答(2件)

id:sankei_antenna No.1

sankei_antenna回答回数7ベストアンサー獲得回数02010/05/18 22:12:25

ポイント48pt

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(日米安保条約)

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/pdfs/jyoyaku.pdf

第8条後段によれば、「この条約は、両国が東京で批准書を交換した日に効力を生ずる」とされています。

日米安保条約の発効についての経緯については、

http://web.econ.keio.ac.jp/staff/tdoi/onchi.html

を見るかぎり、はじめから6月23日を想定して批准書を交換したのではなく、当時の政治社会状況により6月23日になったものと考えられます。

id:qqc77r49

なるほど。

早いご回答有難うございました。

2010/05/18 23:21:59
id:kick_m No.2

kick_m回答回数1372ベストアンサー獲得回数542010/05/21 00:12:14

ポイント22pt

半年後くらいがふつうですね。

id:qqc77r49

「ふつう」とはどういうことを言うのでしょうか。

いかなる根拠で「ふつう」とおっしゃるのか、これだけでは不明ですね。

また仮に「半年後くらいがふつう」としても、なぜ6月22日や24日ではないのか、というのが質問の趣旨です。

例えば東京裁判の起訴の日が昭和天皇の誕生日(1946年4月29日)だったり、判決に基づく絞首刑の執行が当時の皇太子であった現天皇の誕生日(12月23日)だったりというような、意図的に選ばれた日だったのかということです。

質問も舌足らずでしたが、こういった件についてご存じであればよろしくお願いします。

2010/05/21 10:16:00
  • id:takokuro
    基本的に気づかせてくださってありがとうございます


    『沖縄戦』が
     実は、
     世界大戦をはじめる段取りを日本が選ばざるを得なかった理由に
     『沖縄』と言う地勢状の理由が
      直接結びついてることを再考してみました・・
      (でも・・まったく!政治経済は
       若い頃から一番、避けてきた分野で
       付け焼刃ですが(笑)

    私は
    自然科学や文学の方から
     どうも・・
     地震というのが気にかかっています・・


    南の果て?のフィリピン東から
    黒潮がはじまり
    台湾東と石垣島をとおり
    東シナ海から
    九州南から
    トカラ海峡から
    紀伊半島潮岬でりくに接近し、
    房総半島で消える・・
    フィリピンは・・
    江戸中期頃から
    在日?系の山田長政など日本人町を作った人たちや鄭氏らがさかんに行き来していたところ・・??
    戦時中も
    海軍の拠点?として
    将校が遊んだリゾート地でもあったということですが・・
    戦後、岸氏にあずけられたことになってるとの書き込みが
    小泉期初期の頃にありました・・
    岸氏は
    満州で松岡祐介の甥っ子として
    政財界の人脈を築くことで戦後の政界のドンであったこと・・
    安陪氏のおじいさんでもあり、
    渡辺氏親子が
    岸氏の時代の人脈で
    民主主義国だと疑わなかった時代でも
    政界で不思議な君臨の仕方をしてきたこと・・??

    フィリピンの海底ノプレートが徐々にうごき、
    日本列島近くにまで
    もぐりこむことで
    紀伊半島など陸地の地盤が次第に引きずり込まれ
    それが元に戻ろうとし、
    急激に跳ね上がる・・・
    この動きが地盤沈降、地震、隆起という天災現象であるというので
    江戸時代末期から明治期、学者たちはデータを和歌山でさかんにとるシステムを作ってる
    観潮所、震度計・・・
    M32、国土地理院は水準点を国道沿い2キロごとにもうけ、
    地盤の上下を計測データーを公式に収集はじめる

    関空、四国大橋工事が
    角栄さんの時にた違った後、
    当初予定を大幅にもつれこみ、
    十数年以上あとに
    やっと、完成し、
    そのあと、
    阪神大震災がおきてること、
    阪神大震災は
    揺れ被害よりも
    火砕流被害で多くの人が亡くなったこと・・

    これは・・
    関東大震災の特徴と同じであること・・

    S21年12/21、『南海道地震』
         潮岬測候所地震計が
         振り切れてしまった
    震源とされてるのは
      潮岬沖合いの海底
    震度5、マグニチュード8.1、
      このときも火砕流被害が大きかったことが特徴として記載され
    新宮で4割の家戸数が焼失されてる
    津波は白浜で6,5mで
     死者・行方不明が233人、
     全壊、流失家屋2755コ
    那智勝浦の浦神港の検潮所で
    地震の際に紀南地方地盤が海水面から」51センチ隆起


    大森房吉・・・
    943(S18):
     12月~S20年9/20、重要軍需工場が密集する室蘭近くの
    北海道南西部・洞爺湖南岸の有珠山で
    昭和新山ができる・・

    この昭和新山は
    実は、
    M43(1910)、地震学者大森房吉博士が
       予言していたとおりのことが実証されてる

    つまり・・
    室蘭の舞台は
    実は、日本を地震で壊滅しようと言う計画が
    マッカツらにあるという情報を確かめる為に??
    室蘭で
    大森博士の指摘通りか?調べる為に?
    軍は軍事機密として、実験したのではないだろうか??・・??

    滝川幸辰が京大中心に
    民主主義ッ勢をはった時期とは・・
    1891(M24):
    下瀬雅允火薬の発明
    海軍造兵廠創立
    電気試験所、創立
    水力電気事業はじまる(京都疎水で発電)これが幸辰らの民主主義勢の対抗策!
    10/28、濃尾地震 M8.4
    震源:岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市、
     陸域世界最大地震、
     建築物・・
     名古屋城城壁
     宿場町で江戸時代からの建物
     欧米技術で作られた近代建築でさえ、
     長良川鉄橋の落下
     橋梁や煉瓦の建築物など
     破壊され、
     この地震により
     耐震構造研究が進展
     震後に震災予防調査会が設置
    地質学者の小藤文次郎(1856~1935年3/8)、
    濃尾地震(1891)発生から約2週間後に現地入りし、
    後にその結果から
    断層地震説を発表
    調査での根尾谷断層の写真は、1893、小藤が発表
    地震学者大森房吉、
    濃尾地震の余震調査から
    「大森公式」を発表:
    本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す
    ちなみに、地震から100年以上経た現在もなお、余震が続いている
    足尾(渡良瀬川)銅山鉱毒問題起こる。

    1899:水沢緯度観測所、創立
       地震の研究発表(大森房吉)
       初期微動の継続時間から
       震源までの距離を決定できることを発表
       (震源距離の)大森公式を発表
      サン・ペレグリノ・テルメ
      (温泉、火山帯で
      ここは欧で最初のマッカツらによる?地震?火山?天災兵器の拠点の一つ??・・??
       中世、貴族政財界人が入り浸った)を発売
    1918(T7):鹿島組、
     丹那トンネル西口着工 ~34年!!
    1912(T1):大島三原山噴火の 11年後に関東大震災(1923)
       大島三原山噴火(1950)の3年後に房総沖地震(1953)
       特定の火山噴火の後に大地震が起き、
       その火山と震央との距離と、地震発生までの時間に相関関係
    1914(T3)1/1:朝、
       大森房吉、
       前日から桜島周辺で小さな地震多発の報告を受け
       注意を促す電報を打とうとしていた矢先に
       桜島大正大噴火が発生
      1/16:海上から桜島を視察し、
       pm7時、鹿児島市内に危険なしの見解を発表し
       市内は平静を取り戻す
      櫻島は1958~88までの間に5000回噴火してるが
      1914と1946、
      西表島の北の海底火山の1924噴火がとても大きく、黒潮で
       その時の石軽石が大量に潮岬、房総半島まで流れてきている

    1929(S4):オムニヨシダ(株)、創業
    1928(S3):今村明恒(東京帝大地震学教授)、
      南海道地域の地殻活動調査を目的として和歌山市和歌浦に
      和歌山地震観測所、設立
      前身=「南海地動研究所」
      薩摩、陸軍教授として東大助教授を兼任
      震災予防調査会委員
      防疫研究室創設者の石井四郎(当時軍医大尉)、
      2年間の欧米視察旅行、出発
    1929:地震学会を創立し会長
     1905年関東地震の予言問題で
       大森房吉と大論争
    1923年の関東地震の
       震災予防調査会幹事として調査活動全般の中心人物
      「地震講和」、「地震の征服」という好著がある。
      昭和に入ってからは、
      測地測量による地殻変動調査を意識的に行い、
     今日の地震予知計画の一基本思想を確立
      その他、震災対策の基本的内容は、
     1)地震予知研究の完成、
     2) 耐震建築法の普及、
     3)国民の地震の知識の向上であるとして、
      活発な啓蒙活動にも従事


    ここに、今村氏がマッカツ側工策員として
      大森博士の研究を邪魔したり改竄したり
      喪失させたり
      教授の行き先を細かに暗殺工策員らに伝達・・

    1923:大森は汎太平洋学術会議に出席するため
       オーストラリアに出発していて
       東大の地震研究所トップは
       今村明彦が再拝していた
       その留守の間に
       関東地震(関東大震災)は起こされ
       大森はちょうどシドニーのリバビュー天文台で
       ここの地震計に関東大震災の自身が記録されているのを発見し   この地震が日本で発生した大地震であることを知り、
       急遽帰国の途につくが
       途上の船上で
       脳梗塞ということでフラフラになって
       帰国後、暗殺!?・・??


    この時期から
    脳梗塞兵器は実際に活用されていた・・??・・??







     

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