では、我々は記憶にないことをどうやって考えるのでしょう。五感の感覚に訴えてこない科学的な原理(「デジタル」)や時空間的に感知不能な現象(「ゴンドワナランドの分裂」、「地球環境問題」、「地球規模海洋汚染」)は、どうすれば考えることができるのでしょう。
どうすれば思考の中に取り込むことができるのでしょう。
また、考えた末にたどりついた概念が、他の人と違う場合に、どうすれば共通概念を構築できるのでしょう。
言葉(概念の音韻形態)と意味(五感で感じられない現象や原理)の結びつきが適切であるということは、どうすれば確認できるでしょうか。
とりあえずいわしにします。いわしは回答をオープンする手間が省けますから、自由な議論が可能だから
人間が生理的早産なのは大脳をおおきくし後天的学習に重きを持たせるためです。生まれる前の記憶が無ければなにも判断でき何のなら、新たに何も学ばなくても良い。
本能だけでは不足するから、知能を獲得できるように進化したのだと思います。
しかし、だからといって、知能があれば、本能がいらないとはいえないのではないでしょうか。
また、昨今のように、社会がばらばらになって、きちんと「伝統」を子どもたちに教え込むシステムが機能していない(学校は「ものを教えない」)し、自然から隔絶して生きていますから、本来知っているべきことを何も知らないで暮らしている人が多いと思います
人間は、自分が何を知らないかを知らないで、平気で生きています。
実はとっても危ういことだと思うのです
記憶の論理操作とは、記憶を引っ張り出してきて、それを「そのまま肯定する」(=)、「否定する」「そうでないものを思う」(NOT)、「二つの記憶の共通部分に着目する」(AND)、「二つの記憶のどちらかに当てはまるものを思う」(OR)などの、ブール代数の操作を行なっているということです。
つまり、何かとてつもなく新しいことを考え付くことはあまりなく、たいていは、記憶をこねくり回しているのが考えることである。
だから、「下手な考え休むに如かず」なんてことをことわざで言われるのでしょう