そもそも論として、
紛争解決の手段として「戦争」を選択する理由は何なのでしょうか。
血を一滴も流さずに紛争を静めても、それでは国民のナショナリズムは満たされないのでしょうか。
偏狭なナショナリズムに煽動されることはないでしょうから、戦争とは元から無縁だと思います。
しかし、最初は小さな他民族差別意識などからスタートして、それを他国嫌悪の感情にまで引き上げると、群衆は簡単に戦争を望み始めます。日本も段々そうなりつつあるのではないでしょうか。
そこに自分は文民として前線に出なくて良い安全な立場を保持しながら、軍隊の最高司令官として君臨することに憧れる政治家が加わると、戦争が危険な妄想実現のオモチャに使われる恐れすら出てくると思います。
敵がいるから国としてまとまろうといった機運に現実感が伴うため、この集団本能から逃れることは理性の力をってしても乗り越えることが難しい関門でしょう。
もしも理性的な人間の集まりが存在していたとして、その場合は、敵と認めた瞬間に対手たる他者を非人間(非仲間)として理性的に異生物としてみなし、それを自己防衛のために殺害しようと極めて理性的に殺害手段の効率化の追求が行われるようになっていくことが予想されます。つまり理性化への偏重は、人間の攻撃性を高めもするでしょう。自身の攻撃性を正当化する理論的な権威が付与されます。
そして、特定集団が己の権力を維持しようとして集団全体に共通する仮想敵を求めるといった手段の有用性は権力を得た人ならば、その誘惑に逆らうことが非常に難しいかもしれません。
なぜなら、それだけの効果が実際に見込めるだろうからです。これは理性的であろうとするほどに人間が陥りやすい錯覚ではないだろうかと二つの大戦について学びながら思案いたしております。
理性という言葉を人間に備わっている知的能力の一つという本質的な意味で捉えるならば、castleさんのご意見は本当にその通りで、戦争というトンデモ行為を政権の求心力に転換していく作業は、まさに理性の応用と言えると思います。
普通に考えればどう言い訳をしても悪であり、国際的にも不利となるはずの行為を正当化できる知的能力を持つ政治組織や政治家が、戦争という手段を有利な道具として利用できるということですね。
こうした理性に訴えかける思想誘導は、理論で物事を考えようとする人間がはまりやすい落とし穴と言えそうです。
近年のアメリカが当事者の中心となっていた戦争では、この内政面への効果を狙ったと思われるケースが多かったように思われます。
ナショナリズムがもたらす優越感に酔う風潮を政権の支持に振り向けていく。その具体的な方法が軍備の増強と、それを誇示するための実際の戦闘ではないでしょうか。