THEME:「幼年から今年まで……仲間や家族とのひと夏の思い出」
“ディア・ライフ”=『親愛なる日々』。イエは暮らしと人生の舞台。「LIFE」という言葉に、生活と人生の2つの意味をこめて、イエと家族のストーリーを語り合いませんか? 心のページに刻まれた思い出も、現在のイエでの愛しいワンシーンも。毎回のテーマに沿って素敵なエピソードを、豊かな暮らしを創っていく〈イエはてな〉のマインドで投稿ください!
*回答条件* 下記のページをご覧になってご投稿くださいね!
「Welcome to イエはてな」
http://d.hatena.ne.jp/ie-ha-te-na/20080731
テーマ詳細とアイデア例
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※ピックアップ受賞メッセージは、〈みんなの住まい〉サイトにて記事紹介させていただきます。またメッセージは表記統一や文章量の調整をさせていただくことがございます。
※〈イエはてな〉では、はてなスターを「おすすめメッセージ」として活用しています。投稿期間中ははてなスターのご利用を控えていただけますようお願いいたします。
※質問は8月23日(月)正午で終了させていただきます。
祭りで賑やかなのに、不思議とまとまり感がありますね。
いつ頃までだったのかは、忘れてしまいましたが
子供の頃、使ってた覚えがあります
懐かしいです
今では、ウチではあまり蚊取り線香さえ使わないのですが
絶対に昔は、蚊帳が必要不可欠だったんです
使わないと落ち着いて眠れなくて・・
学生の頃にやっていたバンド。夏こそ集中練習をしようと話し合っていたのですが、1回の練習ごとにスタジオ代がかかります。バイトもやらずにバンド三昧の学生には、これはなかなか厳しいものがありました。それぞれ小遣いが無いわけではありませんが、親からもらったお金をスタジオ代に注ぎ込むのは、何となくロックスピリットに反する気がします。
そんな時、友人の一人が、吉報をもたらしてくれました。「親戚の持ってる空き家が借りられるかもしれないよ」と。
「親戚の兄ちゃんも以前バンドやっててさあ、そこ使って練習してた記憶があるんだよ。畑のど真ん中だから、農作業のおじさん達から苦情が出るほどの騒音でなければ何とかなると思うよ」
彼はバンドのメンバーではありませんが、とてもいい友達です。その夜、早速親戚の人に電話を掛けてくれて、OKどころか一夏自由に使って構わないという、素晴らしい報告をくれたのでした。空き家とのことで電気が来ているかどうかが心配でしたが、まだ契約は解除されていないので、ブレーカーを上げれば使えるとのこと。
「俺も遊びに行くよ、肉持ってくからみんなでバーベキューしようぜ」
電話の向こうの彼の声も弾んでいました。
バンド用の機材一式をどうやって運ぶかという難問もありましたが、これも別の友人のお兄さんがトラックを出してくれることになって解決です。4トンの幌無しトラックですが、雨さえ降らなければ大丈夫。
「そういえばボーカルアンプはどうするよ」
「あ、俺たちの機材だけじゃマイクの音が出せないわけか」
「って俺たち自前のマイクもスタンドもないだろ」
しかし、これも仲間の応援で解決。足りない機材は別のバンドから借りられることになりました。
「俺らも行くからセッションしようぜ」
どんどん遊びに来てくれる仲間も増えてきました。
こんなふうにみんなの友情パワーで実現した一夏ぶっ通しのロングラン合宿。早朝、機材をトラックに積み込み、運転手役のお兄さんとその弟である友人が先発。私達は電車とバスを乗り継いで現地入りです。現地で合流して、家を貸してくださる方にご挨拶。
「おうおう、よく来たなあ、○○から話は聞いてっから。自治会にも話は通してあっから、盆踊りくれえの音は出して構わねえよ」
手ぶらではまずいだろうと途中で買ってきたのし紙付きの一升瓶を差し出すと、気を使わせてしまったなと、畑からスイカを採ってきてくれました。
「水道も出るから冷やして食え」
「あ、ありがとうございまーす!!」
車を出してくれたお兄さんは翌日仕事とのことでしたので、すぐに帰らなければなりません。同行してくれた友人も、ここで一旦帰ります。機材を下ろして、さっそく頂いたスイカを食べることにしました。冷やす暇もなく食べることになってしまったので生暖かいスイカでしたが、でもその味は格別でした。
夜はみんなでまず掃除。貴重な家をお借りするのですから、まずはピカピカに磨き上げるのが礼儀です。普段ならそんなことを進んでする奴は一人もいませんが、「合宿」という響きが、私達の何かを変えてくれていたのかもしれません。やっと一通り終わると汗びっしょり。風呂はここの持ち主のお宅でお借りできることになっていましたが、この日は水道の水を浴びました。ひゃ~~、冷たいっ!! 子供の頃の夏を思い出しました。
食事は、カセットコンロに乗せた飯盒で飯を炊き、初日の夜はレトルトカレー。食事が終わると、まだ寝るのは早いとばかりに、アコースティックギターを取りだして軽く何曲か流しました。ホーホーと遠くで鳴いているフクロウとセッションです。就寝は寝袋。キャンプの夜みたいでした。
アンプを使った本格的な練習は翌日から。でも、豊かな自然の中の生き物のことを考えて、ちょっとパワーは抑えめです。これが今まで音量に頼ってロックらしさを表現していた私達に、演奏技術を磨くことの大切さを教えてくれました。
あ、何か忘れてないか? 午後は近くの畑を回って、農作業に精を出している土地の皆さんにご挨拶です。
「わけえモンの音楽はいいのう」
「でもロックっちゅーのはもっとこう、ぐわっーとでけえ音じゃねえのか? 遠慮しねーでどんどんやんな」
「ナス食うか? キュウリやトマトもあるぞ、好きなだけ持ってけ」
「町まで行くのに足あんのか? 一夏いるなら買い物もせにゃなんめえ。おーい、おめえんとこに乗ってねえバイクあったなー?」
「おー、明日にでも運んできてやんべえ」
皆さん、こんなよそ者の若僧を大変な歓迎ぶりです。私達がドギマギしていると、ここはみんなで支え合って生きていく場所なんだから郷に入ったら郷に従えだと、逆に叱られてしまいました。
それからは、もちろんみっちりバンドの練習もしましたが、地域の人達との交流も楽しかったですね。エレキピアノを弾いてみんなで一緒にラジオ体操をやったり、草刈りを手伝ったり。8月のお盆には、さすがにロックというわけにはいきませんが、やぐらの上に登って、アコースティックで何曲か披露させてもらいました。やぐらの上で仰いだ星空の美しかったこと!!
さらに、入れ替わり立ち替わり遊びにやってくる友人達。花火にバーベキュー、もちろん他のバンドの連中が遊びに来てくれればセッションです。夜、田んぼの畦に出て、アカペラでボーカルやコーラスの練習をしたのも楽しい思い出でした。しばらく滞在しているうちに私達はすっかり現地に慣れ、ちょっと風のある夜なら蚊に刺されないことを発見したのです。
「今夜はいい風だ」
「よーし、練習は外に移動!!」
行き帰りはカエルの歌の輪唱です。豊かな自然の中で、みんなすっかり童心に返っているようでした。
音楽三昧で過ごしたこの夏は、私達の演奏技術を一回りも二回りも成長させてくれました。また、豊かな自然と温かな地域の皆さんの人の輪に囲まれて過ごした経験は、それまでの私達にはなかった音楽性を与えてくれました。合宿中に、新しい曲もたくさん生まれました。
そして文字通り「同じ釜の飯」を食い合って、家族のような強い絆を得たわがバンド。親元を離れて自炊をし、地域の人達と交わってきた経験は、私達の人間性をも、大きく育ててくれたようでした。
数々のかけがえのないものを掴んで帰った私達を、さらにこの合宿のために様々な力を貸してくれた仲間達が迎えてくれました。こうして演奏のテクニックも音楽性も、人としての経験も人間性も、仲間の輪も、大きく成長させてくれたあの年の夏。
今、私が抱いている田舎暮らしの夢やレストラン付き農園構想なども、この夏の思い出が下敷きになっていることは言うまでもありません。もちろん実現したら、そこで音楽もやりますよ!!
こちらでご紹介した軽トラをベースにしたキャンピングカー。この夏、これで母と一緒に出かけてみました。
http://q.hatena.ne.jp/1267765009/255893/#i255893
最初は私が留守番をして父母二人で行く計画になっていたんですが、父の都合で私が運転手役を引き受けることになったんです。
行った先は、そんなに遠方ではない、東京西部のキャンプ場です。軽と言えどもキャンピングカーですから中で寝ることが出来ますが、父があらかじめバンガローを予約していてくれたので、夜はそこで過ごすことになります。
現地到着。車を降りてチェックイン、早速バンガローに向かいました。バンガローの外観はログハウス風で、杉木立の中の斜面に建てられています。「へぇ、すてきなところね」と母。軽はやっぱりきついわぁと、早速床に寝転んでいます。「ちょ、寝転がるならシートくらい敷…」「手足伸ばすと気持ちいい~」。おやおや。
バンガローは数棟あり、私達が借りたのはその中で一番小さな棟でした。内部は四畳半をちょっと横長にしたくらいの大きさですが、二人ならこれで十分です。
川が近いので、まずは涼みに行くことにしました。かなり上流部の川なので、水深は膝くらい。母はさっそく裾をまくり上げて、子供のようにはしゃぎながら川に入っていきました。
「あんたもいらっしゃいよ」
「いいよ、子供じゃあるまいし」
「あー、かわいくない」
手の平で水をすくい上げて、岸辺の私にばしゃっとかけてきます。アニメの女子高生ですか、あなたは(笑)。
あー、楽しかった。結局私も童心に返って、たっぷり川遊びをしてしまいました。そろそろキャンプ場のお楽しみ、夕食の準備です。バンガローは単にテントが木造になっただけといった設備で、キッチンも何も付いていません。でも、自然破壊につながる地面での焚き火でさえなければ、屋外でコンロなどを使うことは出来ます。今夜のメニューはもちろんバーベキュー。キャンプ場の規則では、過度の飲酒でなければお酒も可です。
バーベキューコンロに炭を入れて着火。いい感じに火が熾ってきました。焼き、かつ食べます。普段は小食に思えていた母が、この時ばかりは食べる食べる。私はもっぱら焼く係です。
「あんたはこういう時こまめだからいいわよね、次、シシトウ多めに刺して」
「はいはい」
ビールも開けます。母は何かのリミッターが外れたようにグイッとあおって「プハー」。とても楽しそうです。
「今ごろお父さん、イエで猫と寂しく飲んでるかしらね」
「いや、独身時代を思い出して案外楽しくやってるんじゃないの?」
「かもね」
食った食った、焼き係の私も、さすがにお腹が一杯です。このキャンプ場には夜間は静寂を守る規則があるので、とても静かで落ち着いた森の夜が訪れました。そんな雰囲気に誘われてか、母は自分の若いころの話をしはじめました。特にセンセーショナルな恋バナとかではない、ごく普通の日常の思い出です。笑ったり悩んだり、時には張り切ったり時には落ち込んだり。私が高校生だったころと何も変わらない時間。そんな時間が母にもあったんだなぁと、ちょっと不思議な気持ちになりました。
「ねぇ、こんな時、あなたならどうした?」
「うーん、何もできそうにないなぁ、だってさ…」
「やっぱりそうよね」
私もいつの間にか十代のころの気持ちに戻っていたようです。
翌日、キャンプ場をチェックアウト。
「急いで帰る?そのへんを少し走る?」
「もちろん走る!」
「じゃ、行こうか」
「行っけ~!!」
母と息子ではない、友だちのような声の掛け合い。何かの距離がグッと近くなったような気がしました。最初は正直、母親と二人きりでキャンプなんて間が持つかなと少々気が重かったのですが、今はイエに帰って普通の親子に戻ってしまうのが、ちょっと残念なくらいに思えていました。家族全員で乗ることができない二人乗りの軽キャンパーだからこそ得られた、貴重なこの夏の思い出です。
夏の出来事で思い出深いのは、やはり25メートル泳げるようになった小学校三年生の夏。
それまで水が怖くてお風呂でも顔を水につけるのが苦手でしたが、
学校の授業で仕方なくプールに入ることになりました。
しかし、ビート板を使えば何とか進むものの息継ぎが上手くできず、
いつも数メートルで足をついてしまっていました。
泳ぐ時のバタ足と手の水のかきかたのタイミングが合わず、呼吸のリズムが乱れてしまうのです。
一年生の頃は周りには泳げる子も少なかったのですが、二年生になると友達が次々と25メートルプールを
泳ぎきるようになりました。
負けず嫌いの私は、毎年近くの温水プールに行って、一人で練習をしていましたが、その年は
泳ぎの上手い友達と一緒にプールに行き、息継ぎとバタ足のリズム、水のかき方を改めて教えてもらいました。
みんな服の下に水着を着た上に服を着て、ゴムサンダルで通っていましたっけ。
たまに着替えにパンツを入れるのを忘れて青ざめ、水着が乾くまで待って、そ知らぬ顔で上に服を着て帰りました^^
友達と一緒だと楽しく泳ぐことができ、ある日息継ぎがスムーズにできるようになってからは、
驚くように進むようにもなりました。
一メートルでも長く泳げる様になるのを毎日帰宅する度、母に報告していました。
母も、水を怖がっていた私が、泳げるようになったのが余程うれしかったらしく
「もっと泳げるからがんばれ!」と応援してくれました。
それから毎日のように、午前中はたっぷり泳ぎ帰宅して昼食後に母の作った香ばしい麦茶を飲み、
うとうとしていると母がそっとタオルケットをかけてくれて、眠りに落ちるまでうちわで扇いでくれました。
扇風機よりずっと心地よい風でした。
夏休みの終わりに、ついに母にプールへ泳ぐところを見に来てと頼みました。
翌日、観覧席の母にそっと目で合図をして「えい」っと泳ぎだし、母や友達の見守る中、
なんとか25メートル泳ぎきりました。
一緒に家に帰る途中で、頑張ったねと誉められた事、二十年以上たった今でも覚えています。
ご褒美にと、その日の夕食は私の好物を沢山作ってくれて、これもまた嬉しかったなぁ。
できない事も頑張ればできる様になる事。
自分を見守っていてくれる家族や友達を感じたこの夏は、私にとって努力と忍耐そして、
自信がいっぱいついた最高の夏になりました。
音楽好きの夏といえば夏フェスです。巨大な野外ライブですね。その夏フェスに一緒に行くはずだったうちの一人が、突然の腹痛で倒れてしまったのです。本人は無理してでも行きたい様子でしたが、真夏の炎天下であることを考慮してリタイア。さぁ、彼の分のチケットをどうしようかということになり、一緒に行きたい人を探したのですが、泊まりがけになりますので、なかなか急には決まりません。
するとメンバーの一人が、
「お前のお父さん、買い受けてくれないかな」
と言い出したのです。
「うちの親父?」
「前にライブハウスで一緒になって、その後飲みに連れてってもらったことがあるんだ、あれほど音楽をわかっている大人は珍しい、こういうイベントならきっと乗ってくれるよ」
「でも一人で行くかなぁ」
「何いってるんだ、俺たちと一緒に行くんだよ」
「え、ええ~!!」
チケットを無駄にするのはもったいないですから、一応声をかけてみることにしました。すると二つ返事で行くとの答え。もちろんチケット代は即金で払ってくれると太っ腹です。かくして、急に平均年齢が高くなったパーティーで、一路会場を目指すことになりました。
会場に到着すると、父は一言、「昔も今も変わってねぇなぁ」。
「昔もこういうの、あったんすか?」
「あったよ、フォーク時代の中津川から始まって、ロックが盛んになってくると郡山のワンステップフェス、軽井沢のアートフェス、次々色んなのが開かれた」
「やっぱりこんな感じ?」
「そうそう、親が見たら泣きそうなカッコしたやつらも一杯いてさ」
「あはは、俺たちも見たら親が泣く?」
「泣く泣く」
自分も親なのを棚に上げてなんということを(笑)。キャンプサイトにテントを設営、あちこち回って会場内を確認したら、あとはそれぞれお目当てのアーティストのステージを追いかけながら個別行動です。時々携帯で連絡を取り合いますが、だんだん父と一緒に回るメンバーが増えていました。父のお勧めステージがマニアックで面白いと評判のようです。私は親子で行動しても新鮮さがないと思いちょっと距離を置いていましたが、父は全く世代の壁を感じさせていないようでした。それは純粋に音楽でつながっていられるからに他なりません。そんな父を、ちょっと誇りに感じました。
夜はテントの周りで、直前までの興奮冷めやらぬキャンプです。食事は父お勧めのカ○リーメ○ト。
「音楽は体力だからな、ビタミンミネラルのバランスも欠かせない、俺もツアーの時はよくこいつのお世話になったもんさ」
「ええー、オヤジさんの若いころからこれ、あったんすか?」
「ったりめぇよ、山下達郎が高気圧ガ~ルとか歌ってたころからあるんだぞ」
「おお~」
話がだんだんウッドストックから始まる大規模野外ライブの歴史になっていき、第二のウッドストックと呼ばれたロンドン郊外ウェンブリー・スタジアムで開かれたライブエイドに話が及んだ時、
「あれがクイーンの解散を押しとどめたんだよね」
と声が入りました。
「そうさ、だからフレディは『メイド・イン・ヘヴン』でもクイーンのボーカリストであり続けたんだ」
フレディ・マーキュリーが死去したのは1991年。アルバム「メイド・イン・ヘヴン」のリリースは1995年です。過去の音源やデモテープなどを元に、あたかもフレディが一緒にレコーディングしたかの如くにオーバーダビングして作られたのが、このアルバムでした。
「そしてクイーンは今も存在し続けている」
父の言葉を受けて、一人がアイスボックスを蹴り、手拍子を入れて、ドンドンチャッ、ドンドンチャッとリズムを刻み始めました。それに続いて、一緒にいた全員で、音の出る物をかき集めて即興パーカッションです。父が立ち上がって、
「Buddy you're a boy make a big noise…」
と歌い出しました。クイーン名曲の一つ、「We Will Rock You」(※)です。もちろん「We will we will rock you」のコーラスパート(斉唱ですが)は全員で。騒ぎに気付いた周囲からも「We will we will rock you」の歌声が上がりました。この間およそ2分弱。しかしキャンプサイトの一角はその瞬間、すごい熱気に包まれていました。それはさっきまでのライブに勝るとも劣らない興奮の一瞬でした。クイーンが凄いのか、フレディの遺したものが凄いのか、うちの父が凄いのか。おそらくその全てでしょう。往年のロッカーの熱い魂を見せた瞬間でした。
もちろんあまり騒いでは係員につまみ出されますから、歌い終わるやいなや、サッと座って何ごともないように装うのがまた大人。私たちも何ごともなかったかのような素振りをしましたが、心は熱く燃えていました。
「音楽って凄いよな」
「うん、音楽の力を改めて感じた」
「俺、ここに来てほんと良かったよ」
みんな口々にそんなことを言い合っていました。私も改めて、音楽のすばらしさ、そしてわが父を誇りに思えることの興奮を噛みしめました。若い世代に迎合するのでも壁を作るのでもない、自分の持つ高みに若い世代を引き上げていける本当の意味での大人。かっこいいと思いました。全てが終わって帰宅後の父は、はしゃぎすぎて腰いてー、頭振りすぎて首いてー、俺ももう年だなぁと嘆いていましたが、それも含めて、成熟したロック野郎の父が輝いて見えた夏でした。
※文中歌詞引用元
「We Will Rock You」 作詞・作曲:Brian May
小学校二年生の夏休み。なぜか突然、従兄の「おにいちゃん」がわが家にやってきました。「おにいちゃん」は高校生。後で分かることなのですが、「おにいちゃん」は親と大喧嘩をして、家族と口をきかなくなってしまったのだそうです。それを聞きつけた父が、せっかくの夏休みだからうちに来ないかと誘ったのでした。
私はそんなこと知りませんから、「わぁい、『おにいちゃん』がお泊まりにきた」と大喜びです。この「おにいちゃん」はとても優しくて、小さな子の面倒見も良く、親戚のおチビちゃんたちに大人気だったのでした。私は到着早々から「おにいちゃん」に引っ付きっぱなしです。真夏だというのにお膝に抱っこ。母に、何ですか二年生にもなって、と言われてしまいましたが、まだ二年生なんですからいいですよね?
「おにいちゃん」とラジオ体操したり、お絵かきやゲームの相手をしてもらったり、宿題を見てもらったり、公園に遊びに連れて行ってもらったり。夜も「おにいちゃん」と一緒に寝るんだと駄々をこねて、「おにいちゃん」が開放されるのは、それこそお風呂の時間くらいという有様でした。それでも「おにいちゃん」は嫌な顔一つせずに、小さな私のわがままに笑顔で応えていてくれました。
「おにいちゃん」は約一週間後にイエに帰っていきました。何も事情を知らない私は「帰っちゃやだ」とまた駄々をこねていましたが、「君のお陰で家族っていいもんだなって気が付いたから帰るんだよ、またすぐ遊びに来るよ」といったような言葉をかけてくれました。
それから数日後です。母が少し目を赤くして「出かけるからすぐ支度をしなさい」と言いに来ました。どこに行くのと聞くと、病院、だそうです。どうしたの?誰か入院したの?私も知ってる人?何を聞いても、タクシー呼んだからその中で話すの一点張り。タクシーの中でも、親戚の人が入院したからとしか話してくれませんでした。
病院に着くと、伯父さんと伯母さん、つまり「おにいちゃん」のお父さんとお母さんが来ていました。子供にも事情が飲み込めました。
「『おにいちゃん』に何かあったの?」
私は答えを聞く余裕もなく、泣きじゃくってしまいました。声を上げて泣いてしまったので、母に手を引かれていったん外へ。結局その日は「おにいちゃん」には会えずじまいでした。帰り道で交通事故だったことを知らされて、また泣きそうになってしまいましたが、命には別状無いから安心して、明日は会えるからまたお見舞いに行こうねと言われて、少し安心しました。
翌日からは、毎日のようにお見舞いに行きました。「おにいちゃん」はあちこちに怪我をしていて、包帯が痛々しく巻かれています。でも私に「また遊びに行くって約束、守れなくなっちゃったね」なんて優しい言葉をかけてくれます。大丈夫、かわりに私が毎日来るから。時々「おにいちゃん」のお友達もお見舞いに来てくれました。そのうち、お見舞いの花を花瓶に生けるのは私の役目になりました。
夏休みが終わりに近付いたころ、「おにいちゃん」は話してくれました。イエで喧嘩をして、家出のような気持ちでうちに泊まりに来たことを。そして私や私の家族の様子を見ていて、イエっていいもんだな、もっと大切にしなけりゃいけないなって気付いたんだと。
「ごめんよ、せっかくの夏休みをみんな僕のために使わせてしまって」
「ううん、今までで最高の夏休みだったよ」
まだ二回目の夏休みなのに、おませな言い方をするチビっ子です。病室の窓から見える夕日が綺麗でした。夏休みの始めに比べると、ずいぶん夕方が早くなってきたようです。こうして最初は「おにいちゃん」がうちにやってきて、後半は私が「おにいちゃん」の所に通い詰めた夏休みが終わりました。宿題の絵日記は、ほとんどのページが「おにいちゃん」のことで埋め尽くされていました。まだ小さすぎて初恋とは呼べなかったと思いますが、ちょっと甘酸っぱい夏の思い出です。
最近は核家族化が進み、子供が少なく、子供が巣立っていくと寂しくなる。
子供の代わりにペットを飼育する事になる。
ペットといえども家族同様。
子供と全く変わらない待遇。
そのペットの種類は千差万別。
ペットといっても自分の家族ですものね。
行き先を決めてない旅。
鉄道旅行で行き先が知らされない旅がありますね。
何処に行くか判らない旅は不安と期待の入り混じり。
特に夜行列車の旅は”幽霊列車”になる。
恐山の様な特殊場に行くとなると余計に不安。
時にはこんな旅も満喫したいですね。
兄弟は良いものですね。
家族のぬくもりが兄弟のぬくもり。
それがやがては異性のぬくもり。
そして、夫婦のぬくもりに変わる。
人のぬくもりは人生のぬくもりを感じます。
このぬくもりがない人生が事件犯を生むのですね。
健常者は身体障害者の心を理解出来ません。
時にはブラインド経験も良いですね。
心の存在を確認するには最良ですね。
蚊帳なんて今でもあるのですね。
今は殆どというか全く見ないのですが、昔は必須品でしたね。
今は蚊取り線香が蚊帳の役目をしています。
海の遊びとしてはすいか割りが定番。
冷たく冷やしたすいかでないと折角割っても美味しくないですね。
やはり冷たいが条件ですね。
そうめん流しは風流ですね。
同じ食すのでも風流食は良いですね。
でも水の多量は無駄の様。
夕立は何といっても夏の風物詩。
でも今年はその夕立がない。
雨が降ればずーと雨降りが続き、晴れればずーと晴れが続く。
一遍道の天候が続く。
異常気象ですね。
星空は何といっても満天。
感慨深いですね。
人工的な星空よりも自然天体の星空は何ともいえないですね。
地域の祭りは地元の祭り。
何といっても自分らの祭りとして誇りと自信を持ちますね。
それと同時に責任の重圧もありますね。
でも祭りは楽しいものですね。
夏休みで行った家族旅行。行った先は伊豆の海です。私は関東ですから、そんなに遠出ではありません。しかし子供の私には、とてつもなく遠くまで来たように思われました。
交通手段はバスと電車です。父の車でという案もありましたが、どうせなら列車の旅も楽しもうということになったのです。特急で修善寺まで。おそらく踊り子号だったのだろうと思います。修善寺で降りると、次はバスです。バス停には何々汽船と、船会社の名前が書いてあります。さすが海の町、路線バスまで船の会社がやってるんだと、まずそのことに驚いたのを覚えています。
ここからバスに揺られること約1時間。これは特急に乗っているより長く感じました。着いたのは西伊豆の土肥温泉です。さっそく旅館に行き、私はもう海に行きたくてたまりませんでしたが、母はあまり体が強い方ではなかったので、初日は無理せず旅館でゆっくりくつろぐことにしました。
父と母にとってはここが思い出の地らしく、二人で窓から外を眺めて子供なんかそっちのけ。二人の世界に行ってしまっています。その間に私は旅館の中を探検です。あ、ゲームコーナーがありました。あとでお金もらってゲームしよう。おみやげコーナーもあります。大人になると観光みやげなんてどこも同じと見向きもしない人が多いですが、子供にとっては興味深い物ばかりでした。そして発見、露天風呂。これはもう入らずにはいられません。急いで部屋に戻って、露天風呂に行こう行こうと父を誘いました。こればかりは母と別行動になってしまいます。今考えると、私はせっかく二人の世界に浸っていたご両人を引き離してしまったのですね。時間はちょうど夕暮れ時。雄大な海の夕焼けを眺めながらの露天風呂は素晴らしい物でした。
翌日は一日海で遊びました。遊んで遊んで遊びまくって、もうくたくたです。旅館に帰ると、すぐに眠気が差してきました。私はそのまま眠ってしまったようでした。ハッと目が覚めると、もう窓の外は真っ暗。というより、父も母もとっくに夕食を済ませてしまっていました。
あんまりよく寝てたから起こしちゃ悪いと思ってと母。
晩飯にするか?それとも眠気覚ましに一風呂浴びるか?と父。
お風呂だ、昨日の露天風呂!
よし決まりだと、みんなで露天風呂に行くことにしました。母は女湯の入り口で、お達者で~などと手を振っています。物静かな母のこんなお茶目な様子を見るのは久し振りでした。父はそれを嬉しそうな目で見守っていたようでした。
お湯に浸かってしばらく。父が、空を見てごらん、と言いました。見上げると満天の星です。手足を伸ばしてお湯の浮力に体を委ねると、まるで宇宙空間に浮かんでいるようでした。
「この空をお前に見せたかったんだよ」。父はそう言いました。
そして、結婚を約束していながら一度は別れ、それでもお互いに好きな気持ちが変わらずに再び付き合い始めたこと、二度目に来たこの海で二人はもう一度結婚の約束をしたことなどを話して聞かせてくれました。
「この海の、この星の下で約束したんだ。お父さん達はもう何があっても別れない、子供が出来たら、必ずこの海と星を見せに連れてこよう、その時もう一度、今度は家族全員で、何があっても別れないと誓い合うんだ、ってね」。
私はジャブジャブっと顔を洗いました。それはちょっと涙が出てしまったからでしょう。もう一度星空を見上げました。これが誓いの星空かと思うと、また瞼が熱くなってくる気がしました。
風呂から上がると、母が「遅~い」と痺れを切らせて待っていました。「お父さんから聞いたよ、僕たち家族は何があっても別れない。じゃ先に部屋に行ってるからごゆっくり!」。
それから二人が部屋に戻ってきたのが、今度は私が「遅~い」と痺れを切らすくらい後だったことは言うまでもありませんでした。
地元の商店会が主催する地域まつりイベントが、ついに終了することになってしまいました。個人商店の数が減り、続けられなくなってしまったのです。自治会が引き継いで継続開催をという声もあったようですが、自治会では毎年盆踊りを開催していますので、重複して二つの行事を行っても無駄だという声が大勢を占めていたようでした。
しかし私達子供は、それをとても残念がりました。お店の数が減って商店会の力が弱くなった分を、毎年地域の子供会が支えて、協力してきたからです。僕たちのまつりが無くなる。それは小学校の6年間を毎年「今年も頑張ろう、来年も頑張ろう」と言い合って過ごしてきた子供たちにとっては、とても残念なことでした。
当時私たちは6年生。子供会では最上級生です。緊急会議だ、放課後集合!みんなで話し合った結果、商店会で開けなくなったなら今度は子供会が主催すればいい、ということになりました。
「子供だけでできるのか?」
「違うよ、主催と協力を入れ換えるんだよ。」
「どういうこと?」
「商店会主催、子供会協力を、子供会主催、商店会協力に入れ換える。」
「そんなこと出来るのか?」
「はいはいはい、俺のおじさん○○商店だから聞いてみる。」
「よーし、決まった。お前んとこのお父さん、自治会の子供会担当だよな。」
「うん。お父さんとも相談してみるよ。」
最後の「お父さんとも相談してみるよ」が私です。その日の夜、早速父に意見を聞いてみました。
「問題は開催場所だな。実は毎年会場になっていた場所が、今度から使えなくなったんだよ。」
「なんで?」
「区画整理事業っていうのが始まるんだ。それで、これを機会に商店会の夏祭りも幕を下ろそうってことになったんだよ。」
「そうなんだ。盆踊りは?」
「それは会場が変わるかもしれないけど必ずやると思うよ。」
「それならば!盆踊りって夜じゃない。昼間そこで子供のまつりをやろうよ!」
「それなら可能性は高いな。」
翌日学校でみんなに報告。父も自治会の話し合いにこの件を出してくれて、話はトントン拍子に決まっていきました。そして迎えた夏。私達はまつりの開催に向けて活動を開始しました。
6年生は大人との折衝が任務です。商店会や自治会などの大人の人とのやりとりを担当します。商店会は、色んな食べ物のお店を出してくれることになりました。
場内警備をしてくれる消防の人達との打ち合わせも6年生が行います。さらに、まつりに付き物の協賛品や協賛金集めにも回りました。もちろん物やお金のやり取りは大人の間で行ってもらいますが、お願いしますと頭を下げに行くのは子供の役目です。
「○○工務店協賛ゲット!スーパーボールすくいセット一式~。」
「すげーじゃん、大工さんて商店会には入ってないんだろう?」
「うちの父ちゃんの釣り仲間なんだよ」
「去年より豪華になりそうだな」
5年生や4年生は、くじ引きや輪投げなどの出し物作りです。等身大の鬼にボールを投げて、的に当たったら目が光ってガオーと叫ぶ「的当て」も作りたいという意見が出て、ベニヤ板製の立派な赤鬼も登場しました。しかしボールが当たった時の動作装置が開発できず、結局、的に当たったことを判定する係、懐中電灯で後ろから目を光らせる係、鬼の腕を動かしながらガオーと叫ぶ係の3人がかりで動かす「人力的当て」になりました。
3年生以下はポスターと招待状作りです。招待状は、地域の色々な会の人達や、違う町内の子供たちに向けたもの。ポスターを貼らせてもらったり、招待状をお届けするのも、みんな子供が行いました。もちろん大人が付き添いますが、これには子供会担当のうちの両親が大活躍してくれました。
盆踊りは日曜日なので、前日の会場設営には、土曜日でお休みのお父さん達がたくさん手伝ってくれました。こうして迎えた第一回こども夏まつり。心配ごとは二つだけ。一つはお天気でしたが、こちらは天気予報が晴れマークで完璧でした。
もう一つの心配は、来場者数でした。地域の子供たちはみんなスタッフ側ですから、お客さんではありません。よその町内の子供たちが頼りです。でもこれも蓋を開けてみたら大盛況。夏休み初日からお盆まで、毎日のように準備に頑張ってきた私達は、お母さん達の会が作ってくれた子供会の腕章を付けて、ちょっと誇らしげでした。
この夏は子供たちみんな、今までしたことのない努力をし、みんなで一つの目標に向かって力を合わせるという経験をし、そして今まで味わったことのない感激を得ることが出来ました。学年を越え、男子と女子との違いも越えて、手を取り合って喜びました。地域の大人と子供、イエの中での親と子、みんなで手をつなぎ合って一つの行事が開催できたことは、きっと地域もイエも変えていく大きな力になったと思います。
海岸の星空の下で結婚を誓い合った恋人たち。そして時が経ち、もうひとつの誓いを同じ星空の下で・・・・。まるでドラマのような素晴らしい思い出ですね。
時には壊れることもある不安定な恋愛からスタートして、それがもう決して離れることはないという強固な家族愛に高まっていく。その上に家庭という存在が築かれていく。
イエ、家族の成り立ちは様々ですが、そのひとつの理想の形を見る思いがしました。
この世に不変な物はありません。宇宙も常に変化を続けています。でも、今の星座の形の基礎が作られたのは、紀元前3000年の古代オリエントのころ。遊牧民達が、季節の変化を星の動きで知るために考え出したのが星座だと言われています。ということは、その頃から人々はずっと、ほぼ同じ形に並んだ星空を見てきたわけですよね。
ですから、星空に誓う愛は、少なくとも5000年は有効です。私も降るような星空の下で、そんな愛を誓ってみたいものです。