実際に、高年齢の方が「お迎えを待っている」と話される姿を見ます。尊厳死についてご意見を下さい

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  • 登録:2010/08/24 22:35:32
  • 終了:2010/08/31 01:34:04

回答(4件)

id:TREEG No.1

TREEG回答回数255ベストアンサー獲得回数342010/08/24 23:09:47

ポイント23pt

最近、長生きは良い事じゃないと、高齢者本人からよく聞きますね。

元気な老夫婦ではあまりありませんが、老老介護になっているところは切実なようです。

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現在の医療は、寝たきりでも良い。兎に角、生きてさえすれば良いという方向で、寝たきりにならない為の予防医療には予算があまり注がれていないように思います。

また、少し前であれば亡くなっていた事例も非健康寿命だけが非常に長くなり辛い日々を過ごしている人も多いように思います。

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本人の意志が間違い無く反映される必要はありますが、人権として、生きる権利があるのと同様、死ぬ権利も必要だと思います。

id:suppadv No.2

suppadv回答回数3552ベストアンサー獲得回数2682010/08/24 23:12:53

ポイント23pt

高年齢の方が「お迎えを待っている」状態に入っているなら、尊重すべきだと思いますし、無意味な延命行為はするべきではないと思います。

自分がそのような状態になったら、是非そうして欲しいと思います。


しかし、難しいのは、自分ではなく家族の場合です。無意味とはっきり判ればよいのですが、無意味かもしれないが少しは上手く可能性があるというような場合、どうしても治療をして欲しくなるのが人情だと思います。

本人としては、無意味な可能性が高ければ、「お迎えを待ちたい」と考えると思いますが、そのあたりで本人と家族で意見が異なることが多く難しい問題となっていると思います。

id:hathi No.3

hathi回答回数205ベストアンサー獲得回数462010/08/25 00:39:10

ポイント22pt

『実際に、高年齢の方が「お迎えを待っている」と話される姿を』ご覧になったのは、どのような場面で、(あなたはどういう立場にいるときに)高齢者の方は、どなたに「お迎えを待っている」と話されていたのでしょうか?

 

多くのケースがあるでしょうけれど、ほとんどの場合、その高齢者は”尊厳死”について何かをお考えであったと言うことはないと思います。

 

インドで死を迎えるためにガンジス河岸に来られている方をお見かけしましたが、死期が近いので来たという自然なことのように私には見えました。

 

死期をどこまで本人が理解あるいは察知することができるのか知りませんが、もうそろそろかなとか、あるいは これで死にそうだなと思ったときには、かなり淡泊な状態でいられることが多いと想像します。

私も、山での遭難、交通事故など何度か死にそうになりましたが(でも生きています)、そのときにはこれで終わるかなと結構あっさりした感じでした。もしも、尋ねられたら、「もうこの世とはお別れですから」とか「お迎えも来そうなので」と答えたかもしれません。

小説でも死にそうなときのその人の心情を記述しているときには、その人はもうすぐ死ぬんだと思いつつ結構あわてず・騒がずという状況を書いているケースが多いです。それも、お迎えを待っている一つの姿だと思います。

高齢あるいは、病気等で衰弱してきた場合、(今特に急激な痛みを持っていなければ)and(生きていくことに今特に強く執着がなければ)、気分的に、静かにお迎えを待っている状態になることは多いと思います。

このことは、尊厳死という言葉や概念とは関係ないことだと、私は思います。

 

尊厳死について意見を求められる質問者さんの理由が何なのかを知りたくて、質問歴を見ましたがわかりませんでした。

[尊厳死を認めることは生存権を脅かす]という立場がどこまでのことを考えてのことかわかりませんが、「お迎えを私は待っているということは生存権を放棄している」と見る立場もあるのでしょうか。

【安楽死・尊厳死法制化を阻止する会】は[命ある限り精一杯生きぬくことが人間の本質であるという立場]だそうです。この【精一杯生きぬく】とは何でしょうか。生ある限り生きていて、死ねば生はなくなるのですから、ポイントは【精一杯生きぬく】とは何かだと思います。

極楽往生とか天寿を全うするとかの一般的なイメージは、戦闘行為の中で死ぬことではなくて、平静な環境で騒ぎ立てないで死ぬイメージだと、私は思います。この死の前、数時間あるいは数日間も平静な状態でも、極楽往生とか天寿を全うすると言うでしょう。多くの人の【精一杯生きるというイメージ】は【死を前に生に執着すること】とは違うのだと思います。【やがて死ぬことは決まっていることで、それを強く拒絶したいとは思わない】方が普通ではないかと思います。

もちろん死亡する前に、あるいは死亡するのが近くなった危険を感じたときに、『誰か助けて!』『死にたくないよ!』と思う人も多いと思いますが、誰かに害意で迫られている、大きな事故に直面しているというような特殊な事態とかを除いてしまうと、[助けて][死にたくない]と執着はしないのが半数あるいは半数以上の方ではないかと思います。

 

お迎えが来るのを待っています。早くお迎えに来て欲しいという人でも、自殺したり、事故が起きそうなことをわざわざする人は滅多にいません。早くお迎えに来て欲しいという人でも、急迫する危険からは身を守ろうとするし、場合によっては助けを求めます。

 

[お迎えを待つor死期が近づきつつあるのを静かに甘受する]ということと[事故や肉体的損傷は回避しようとする]ということは、同時に思うことで矛盾ではないです。

 

尊厳死というのは、おかしなことだと思っています。

「尊厳を保ちつつ最期の時を過ごす」とは何を言っているのか、よくわかりません。

気絶し、失禁しているのや、手足がちぎれている、自力で食事排泄ができず介助されているということも、尊厳を保つということとどう理解して良いのかわかりません。プロとして注目を浴びていたが、落ち目になってしまった、プライドだけが高いのは尊厳を保つことでしょうか。マナーの見本のような人だったが、見当識がおかしくなってしまった場合はどうでしょうか。働き者で矍鑠(かくしゃく)としていたけど、体が弱くなって日常生活をするのもやっとになったときは何でしょうか。

 

尊厳=[名・形動]とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。「人間の―を守る」という用語からすると、多くの場合、多くの人にとって、尊厳など自分には関係がないことです。尊厳を守って生きてきた経験も多くの場合ないです。まして、病気や障害を抱えれば、尊厳どころではないです。周りから助けてもらってようやく生活できるのであって、生産やサービス提供などの行為はできなくているのです。周りにすがらないと生きていけない、とても弱い状態です。尊厳を守る元がない状態だと思います。若くて健康なときでも尊厳などに関係のない生き方をしているのに、高齢、障害、疾病でもっと弱くなった人に尊厳の保った生き方を要求するのは、無茶です。

 

なお、医療がどんどん進んだときに、身体の一部あるいは多くを他の人工物やバイオ技術で作ったもの等に置き換えたりして衰弱が顕著にならないことができるようになったときに、世界の数十億人にそうした方法で"健康"を超長期に確保するのが良いことでしょうか。

身体がダメなら身体は冷凍保存して、アバター(自分の分身となるキャラクター/その分身サービス)で活躍すると言うのも、おかしいと思います。

その時代になると、感じ方や考え方が変わる可能性は高いです。しかし、[個体の生命はそう伸びなくてもいい][10の個体があれば、10の生命で、すぐに死ぬのも、長生きするのも、丈夫なのも、弱いのも、組み合わせでいろいろある。決して平均や標準に一本化されないのでいい]ように私は思います。

病弱な子でも長生きして欲しいと思っても、確率的には短命に終わるというのが摂理だし、健康で聡明でという子でも事故などでの突然の死は避けきれないのが摂理だと思います。

 

そう思うので、身体あちらこちらにチューブを付けたまま、それを外せる可能性は非常に低いママで、何ヶ月、何年も生きている状態を作り出すようなことは、良くない、摂理に反するように思います。

 

それは人間の尊厳のある生き方がどうこうという視点ではないのです。

惨めったらしく生きても、卑屈で、あるいはスケベ根性でも、風見鶏でも、唯我独尊で頑なな生き方を貫き通しても、奉仕や宗教人に生きても、勝負師や政治家、事業家で生きても、心に反して失意に暮らすことになっても、それはその人の生き方なので、好き嫌いはあっても、その生き方は許されないと言うようなものではないです。病気や怪我だって、自業自得のこともありますが、大半は偶然とか運命とかです。障害を抱えるのも、運が付続くのも同じです。

それらは、許される/許されないという種類のことではないです。

人間でも、人間以外の生物でも、生も 死も 偶然と必然がこんがらかったことで起きるのが摂理だと私は思います。

無理矢理(科学技術を駆使して)生命を生み出させたり、死なないようにしたりすることは、好ましくないように私には感じられます。

 

怖いこと、痛いこと、つらいことはイヤです。できれば避けたいですが、避けがたいことは避けらないで、怪我や病気、障害を抱えたり、死んだりするのは、それでしょうがない。そんなものだと受け止めて、その人の天寿(0才~120才)どこかでこの世からお別れするのが、当然だと思います。

 

[尊厳死]という言葉には、非常に違和感を感じます。

尊厳のある生き方もしてないのに、死を考えるときにだけ尊厳を問題にするのは、おかしいです。

 

自然という日本語も不適当だと思いますが、[死ぬときには死ぬ](言語的には何を言っているのかわからないです)[不自然に死なない状態をつくるな]とは思います。

id:kyokusen No.4

きょくせん回答回数824ベストアンサー獲得回数862010/08/25 01:10:15

ポイント22pt

 自分としては『尊厳死』を望みます。

 無用な延命治療で家族なり、保険財政を圧迫したいとは思わないからです。もちろんペインコントロールだけはお願いしたい。

 ただ、親族や友人が『尊厳死』を求めるのを受け入れられるか?と問われればやっぱり悩む所ではあります。仮に1%だけでも生きていてくれる可能性があるのならば、それに縋りたいという気持ちもあるのです。

 矛盾してますよね。


 世間一般で討議されている『尊厳死』の『生産性のない人間を生かしておく必要はあるのか?』という議論についても理解できます。『脳死』も関連してよく議論されますが、はて?生産性というのはどこに生じるのか、というのが在るからなのです。例えばその人が生きているだけで周囲の生産性を上げる可能性がある、というのはある訳で、まぁ、今回のご質問にはこの辺は関係ないですね。

 『お迎えを待つ』という心境は、どうなんでしょう?

 死期を間近に向かえ、やり遂げた心境なのか、死への恐怖を乗り越えたものなのか?正直な所よくわからない所はありますが、やはり難しい所ですよね。あと、例えば『殉死』に類するような自殺……愛するパートナーの死に共に逝くという心境などは、理解も出来ますし、ある意味ロマンや羨望も感じる訳なのですが、やっぱ難しいわなぁ、と。で、それは尊厳死ではないわなぁ、と思う所でもあるのです。

 どうも『尊厳死』というものの定義が混乱しているような気がしないでもないのです。例えば、今私が脳梗塞を起こして倒れ、救命に運ばれ、そこで宣誓書が出てきて『尊厳死』を迎える。(多分この時は脳死判定を受けて臓器提供という事になるんでしょうが)もしくは部屋を出た所で階段を転げ落ち脊髄損傷を損傷し、半身不随となり『尊厳死』を望む。あとはガンの発見が遅れ、全身に転移していた。望みが薄いと言われる化学療法を拒否して終末医療に進む。ここには大きな落差がありますが、どうもすべてが『尊厳死』と括られている様な気がします。

 小児ガンの末期患者さんなど、抗がん剤治療の苦痛に喘ぎ、もがき苦しむ子どもを見ていられず終末医療への移行を望み、医療スタッフから蔑視された・批判に晒されたという話も聞きます。それはものすごく切ない話だと思うのです。医療スタッフは『皆頑張ってるのにあなただけ諦めるのか?』などというそうです。頑張れって何をや?と。その子は苦しみもがきながら最期の時を迎えろと?これはこれで残酷この上ないと思えるのです。ならば『尊厳死』という選択肢があってもいいのではないか?痛みを取り去り、最期の瞬間を安らかに送るという選択肢も許されるべきではないのか?


 と、考えれば考えるほど難しいものだと思います。

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