小田(1999)p.21で紹介されている次のジョン・デューイの記述の出典が知りたいです。


「経験そのものだけでは、生徒が何かを学ぶことは可能ではない。
重要なのは、経験を自分のなかで咀嚼し、振り返ることだ」

【文献】
小田勝己(1999)『総合的な学習に適したポートフォリオ学習と評価』学事出版

 ご教示いただければ、ありがたいです。

 また、上述した記述は、デューイの記述そのものではない可能性もあります。
そこで、上述したデューイの思想の要約(?)の引用元に関する情報も
ご提供いただければありがたいです。

 よろしくお願いいたします。
 

回答の条件
  • 1人2回まで
  • 13歳以上
  • 登録:2010/09/12 20:53:56
  • 終了:2010/09/19 20:55:02

ベストアンサー

id:hathi No.1

hathi回答回数208ベストアンサー獲得回数462010/09/12 22:05:55

ポイント70pt

要約 のようなものが掲載されているもの

 http://cert.shinshu-u.ac.jp/gp/el/e04b1/class08/dewey.htm

 http://cert.shinshu-u.ac.jp/gp/el/e04b1/class08/post-dewey.htm

参考になるかもしれないQ&A

 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1839111.html

id:ooharacho

 いずれのURLも参考になりそうですが、下記の部分は特に参考になります。

   教育の役割というのは、子どもたちに社会をつくり直していく力をつけることだと説くデューイの教育論に従えば、

   「なすことによって学ぶ」という意味を取り違えることなく、知性を高めるような経験を用意し、

   子どもに経験の再構成という学習活動の場を与えていくことが大切である。

   経験から学ぶ反省的思考(reflective thinking)の態度を育成することが大事なのであって、

   行動の意味との文脈的な連関を欠いた知識の注入・技術の訓練は、教育の本来的な役割ではないと言えよう。

     『民主主義と教育』の中で主張しているように、デューイにとって「知性的である」ということは、

   「行動できる」ということである。

   デューイのいう経験主義というのは、

   実際にやってみることを反省的に積み重ねることで目的を実現できる能力が育っていくという立場である。

   練習を積み重ねることによって何かができる能力が積み重なっていく。

   いかに反省しながら行動していくか。さまざまな失敗や成功経験について反省的に振り返ってみる。

   目的は行動によって実現されていく。

   デューイは行動し、反省的に思考し、反省的に行うことによって学ぶということの重要性を主張したのである。

 ただ、私が知りたいのは、下記のフレーズが一体どこから来たのかということです。

   経験そのものだけでは、生徒が何かを学ぶことは可能ではない。

   重要なのは、経験を自分のなかで咀嚼し、振り返ることだ

 デューイの思想そのものにも、もちろん関心はあります。

しかし、私が知りたいことのメインはデューイの思想の要約ではありません。

 とはいえ、ご回答は大変参考になりました。

ありがとうございました。

2010/09/12 22:29:31

その他の回答(1件)

id:hathi No.1

hathi回答回数208ベストアンサー獲得回数462010/09/12 22:05:55ここでベストアンサー

ポイント70pt

要約 のようなものが掲載されているもの

 http://cert.shinshu-u.ac.jp/gp/el/e04b1/class08/dewey.htm

 http://cert.shinshu-u.ac.jp/gp/el/e04b1/class08/post-dewey.htm

参考になるかもしれないQ&A

 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1839111.html

id:ooharacho

 いずれのURLも参考になりそうですが、下記の部分は特に参考になります。

   教育の役割というのは、子どもたちに社会をつくり直していく力をつけることだと説くデューイの教育論に従えば、

   「なすことによって学ぶ」という意味を取り違えることなく、知性を高めるような経験を用意し、

   子どもに経験の再構成という学習活動の場を与えていくことが大切である。

   経験から学ぶ反省的思考(reflective thinking)の態度を育成することが大事なのであって、

   行動の意味との文脈的な連関を欠いた知識の注入・技術の訓練は、教育の本来的な役割ではないと言えよう。

     『民主主義と教育』の中で主張しているように、デューイにとって「知性的である」ということは、

   「行動できる」ということである。

   デューイのいう経験主義というのは、

   実際にやってみることを反省的に積み重ねることで目的を実現できる能力が育っていくという立場である。

   練習を積み重ねることによって何かができる能力が積み重なっていく。

   いかに反省しながら行動していくか。さまざまな失敗や成功経験について反省的に振り返ってみる。

   目的は行動によって実現されていく。

   デューイは行動し、反省的に思考し、反省的に行うことによって学ぶということの重要性を主張したのである。

 ただ、私が知りたいのは、下記のフレーズが一体どこから来たのかということです。

   経験そのものだけでは、生徒が何かを学ぶことは可能ではない。

   重要なのは、経験を自分のなかで咀嚼し、振り返ることだ

 デューイの思想そのものにも、もちろん関心はあります。

しかし、私が知りたいことのメインはデューイの思想の要約ではありません。

 とはいえ、ご回答は大変参考になりました。

ありがとうございました。

2010/09/12 22:29:31
  • id:hathi
    こちらの質問と回答にあるように、もしかすると、孫引きかもしれませんが、
    小田氏の記載に何かの典拠がある可能性は否定しきれません。
     http://q.hatena.ne.jp/1283527608

     次の書籍を ざーっと見たのです が、(かなり飛ばし見だったたため)
     そうした部分が 記載されている箇所を見逃してしまったのか、
     どんぴしゃりの記述を見つけることが私にはできませんでした。
       岩波文庫:民主主義と教育 上下
       岩波文庫:学校と社会
       岩波文庫:哲学の改造
       講談社学術文庫:経験と教育
     
     これらの書籍の中に、単純な経験だけでは不十分であるとして、活動すること、
     多面的に思考することの 重要性をデューイが説いている箇所は あちこちに
     沢山出てくるのですが、熟慮、沈思黙考、三省する的にも読める箇所(文章)を
     私が見落としてしまった可能性は高いです。
     
     この【経験そのものだけでは、生徒が何かを学ぶことは可能ではない。重要なのは、
     経験を自分のなかで咀嚼し、振り返ることだ】という連続した表現を初出させているのは
     小田勝己氏らしいので、その典拠を確認したいということが真の目的であれば、
     小田勝己氏に直接手紙等で質問された方が良いと思います。
     
    googleで探したり、翻訳書籍を探すことも大切ですが、それ以外にもデューイの著作は
    あるはずですし、そこをどう翻訳するのか、あるいは意訳、要約されているのかも
    わからないので、小田勝己氏がどこを典拠にされたかを確認するには、ご本人に確認する
    のが一番良いと思います。
     
    http://books.google.co.jp/books?id=wPkJs-HxwbAC&printsec=frontcover&dq=the+school+and+society+%26+the+child+and+the+curriculum+by+john+dewey&source=bl&ots=K_e9RYXtpI&sig=XklAFBVGWeaaKRquXMlprnuBna0&hl=en&ei=vKWOTJ28D4i0vgOZ0fTnBg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=8&ved=0CCsQ6AEwBw#v=onepage&q&f=false
     
    The Child and the Curriculum Including, the School and Society   By John Dewey
     
    http://books.google.co.jp/books?id=aAbqAGo5MwwC&dq=Art+as+Experience%E3%80%80by+john+dewey&printsec=frontcover&source=bn&hl=en&ei=9KiOTNWvPIPIvQPP3MnnBg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CB8Q6AEwAw#v=onepage&q&f=false
     
    Art as experience   By John Dewey
     
    http://books.google.co.jp/books?id=UE2EusaU53IC&dq=%EF%BC%A5%EF%BD%98%EF%BD%90%EF%BD%85%EF%BD%92%EF%BD%89%EF%BD%85%EF%BD%8E%EF%BD%83%EF%BD%85%E3%80%80%EF%BD%81%EF%BD%8E%EF%BD%84%E3%80%80%EF%BD%85%EF%BD%84%EF%BD%95%EF%BD%83%EF%BD%81%EF%BD%94%EF%BD%89%EF%BD%8F%EF%BD%8E+by+john+dewey&printsec=frontcover&source=bn&hl=en&ei=1LKOTMSBPJKiuQPxhKjoBg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CCYQ6AEwAw#v=onepage&q&f=false
     
    Experience and education by john dewey
     
    http://books.google.co.jp/books?id=UkxjpfiY4nIC&printsec=frontcover&dq=Democracy+and+education+by+john+dewey&source=bl&ots=0C4icBtzWo&sig=fWEYTTBlkMlrqlvSgxrIIE15Ar8&hl=en&ei=FraOTPTBFov-vQPelt3nBg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=7&ved=0CCwQ6AEwBg#v=onepage&q=something%20only%20by%20the%20experience&f=false
     
    Democracy and education by john dewey
     
    小田勝己(1999)の『総合的な学習に適したポートフォリオ学習と評価』は学事出版の出版物です。学事出版は『学校教育現場関係者向けジャーナリズムを標榜している。実用書、アドバイス、マニュアル、ハンドブックなど参考書)教育現場向け雑誌を各種出版している。現場の日常実務ための話題や情報の提供は学事出版の事業の中で大きなウエートを占めているらしい。教育学とか教育法の学習法のなどの研究書や研究論文発表の場が主ではない。編集者・出版社が出版前にどこまで内容そのものの妥当性・正確性をチェックしているのかは不明』だという感じがします。
    査読される論文を書くような場合には、引用にも正確性を期さざるを得ませんが、一般的に、何かを述べたい場合に、「デューイの提唱する経験主義に基づく考え方をベースにして」という様な言い方、あるいは「ジャン・ピアジェの前操作期の自己中心性で、、、」というような言い方をする場合に、その発話者が、具体的に著名人の思想等を熟知しているのではなくて、そういう表現方法をとることで、自分の主張がしかりとしたものであるという印象を強め、意見が通りやすいようにしているという場合もあります。
     
    今回質問されているフレーズが出ている書籍名を見ただけの印象ですが、デューイの論についての研究や批判を目的にしているのでも、【経験そのものだけでは、生徒が何かを学ぶことは可能ではない。重要なのは、経験を自分のなかで咀嚼し、振り返ることだ】という見解の妥当性を強く論じようとすることが目的のものでもないような感じがします。そうすると、筆者としては、これらの部分の表現の正確性や論拠を強く求められることは、若干心外というか、重箱の角をつつく質問に感じるかもしれません。
     
    【経験そのものだけでは、生徒が何かを学ぶことは可能ではない。重要なのは、経験を自分のなかで咀嚼し、振り返ることだ】という命題の妥当性を確認したいとかであれば、デューイが言っているか、だれが言っているか、どこで言っているかということも大事でしょうが、【経験そのものだけでは、生徒が何かを学ぶことは可能ではない。重要なのは、経験を自分のなかで咀嚼し、振り返ることだ】という命題そのものを、一般的に妥当性があるか、似た様な主張をする方はなぜそう主張しているのか、異なる主張をする方はどうか、を調べるのも方法ではないかと思います。
     
    今回、文庫で数冊非常にざーっと目を通したのですが、とてもおもしろい、興味深いことが沢山ありました。 きっと教育学の専門書を探すと、デューイの説に対する反論を含めて、さらにおもしろく興味深い研究や論説が沢山出てくるのだと思います。 小田氏はいわゆる教育学の研究者ではなくて、一種の教導者の様なスタンスで、総合学習とかポートフォリオをPRしているのだと思います。その活動や発言の中で述べられることは、いわゆる筆が滑る、口が滑ることもあるでしょうし、言い間違い、勘違いも皆無とはならないでしょう。論文の査読とは違うので、主張の本体を読み取るとか、自分で強く惹かれた部分があれば、あくまで自分流の理解と自分流の追求をされてはいかがでしょうか。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    全く別件です。 (閑話)
     
    「エネルギーの発見(キース・レイドラー)」の中(p116)に、電磁気学の最も偉大な学者の一人とされるマクスウエルについて次の記載があります。
     
    『彼にはまた生涯を通じて数学的な間違いをする残念な傾向があり、とくにプラスとマイナスの記号をよく間違えた(ある伝記作家は「無頓着」と書いている)。彼には自分の考えを混乱した形で表現するきらいさえあった。あれほど明瞭にものを書く人間としては、これは非常な驚きであえる。たとえば良心的に講義を準備したときでさえも、彼は話し始めるといつも混乱したのである』
     
    これが事実かどうかを私は全然確認していません。マクスウエルについての他の解説や伝記などで、同様の記述が多数あるかどうかも確認していません。従って、推定はかなり根拠薄弱になりますが、「エネルギーの発見(キース・レイドラー)」の本の他の部分の記載等からかなり信頼度の高いものだと勝手に判断し、『あのように著名な理論物理学者であっても、その人が書いた論文の数式だけをみると間違いが多発している、論理が混乱してることもあるんだ。些末な書き間違いや、筆の間違い、論理の混乱は自分では避けるようにしないといけないけれども、他人の書いたものを読むときには、そうした部分だけで判断せずに、大事な部分を読み取って、その大事な部分について自分の見解をもつようにしないといけないんだな』と思った次第です。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     閑話休題
     ==================================
    似た表現が、【ことばと文化を結ぶ日本語教育】の【第11章 学習者参加型評価と日本語教育/横溝紳一郎】の中にあるらしい。(内容未確認)
    http://www.gsjal.jp/hosokawa/dat/gbkk05ohnishi.pdf
    横溝紳一郎(2002).学習者参加型評価と日本語教育『ことばと文化をむすぶ日本語教育』pp 172 -187
    「自分の学習の評価への学習者の積極的な参加の目指すものは,究極的には,「学び方を学ぶ(learn how to learn)」ことにある。自分自身の「学び」を(見つけ続け深く内省し続けることによって)しっかりと把握し,自律的な学習が出来る能力を身に付けていくことが,学習者には期待されているのです(p174 ,15-19)。」
     ==================================
    岐阜市教育委員会の何かの資料(もしかすると鈴木 敏恵(相当に多方面で活躍している方らしい)が作成された?)の中にも、似た表現があります。
    望ましい「総合的名学習」の時間の在り方
    岐阜市教育委員会として 参加型学習の手法とポートフォリオ評価を組み合わせた一つの学習手法:プロジェクト学習を推奨します
    http://www.gifu-gif.ed.jp/city/project/pdf/002-1.pdf
    3/9
    Ⅳ 参加型学習の理論的源流
    参加型学習が「学習への主体的な参加と社会への積極的な参加を求める学習活動」であることを考える時,その理論的源流が今世紀初頭のJ.デューイ(John Dewey)らによる進歩主義教育運動にあることは想像に難くない。方法論としてみた場合,進歩主義教育運動をはじめとする新
    教育運動全般に共通してみられる「経験型」あるいは「問題解決型」の教育活動は,学習者の参加と実際の体験を前提としている点において,参加型学習の草分け的存在といえる。
    ①構成主義の知識観・学力観から
    デューイは,知識は外から与えられるものではなく,また知識の体系が外在するのでもなく,学習者に内在し,生活と結びついた問題を解決する過程(連続的な経験・活動)において再構成されるものであると捉えている。こうした構成主義の知識観は,学習過程において学習者と教師
    間で,また学習者相互の対話によって,気づきや変容を図っていくという参加型学習の理論的根拠ということができる。
    ②参加型民主主義の立場から
    参加型学習は,人の意見に耳を傾け,自分の意見を主張し,情報を集めて判断しながら話し合いによって合意を形成するという民主主義のプロセスを学ぶ方法でもある。それによって「社会参加」力が育まれるとともに,参加型の組織や社会の形成をめざすものでもある。
    8/9
    ポートフォリオと参加型学習が同じ思想的源流をもつことは,構成主義の知識観やプロセスの重視といった同じ学習理念がみられることからも明らかである。「デューイは,その著作のなかで『経験そのものだけでは,生徒が何かを学ぶことは可能ではない。重要なのは,経験を自分のなかで咀嚼し,振り返ることだ』と書いている。ここではすでに,現在のポートフォリオ学習の根幹である学習における『振り返りの重要さ』『学びのプロセスの重視』が打ち立てられている。
    しかし,ポートフォリオと参加型学習との理念的共通性はそれだけではない。ポートフォリオには,参加の本質である「対話」と「意識化」の思想も見られるのである。
     ===================================
    山田ゼミというところの発表ファイルらしいところにも、似た表現がありました。
    山田ゼミのサイトにメール受付のところがあったのですが、既にこのサイトのメール受付は閉鎖されているようで、メールははねられてしまい、質問はできませんでした。
    http://www.geocities.jp/yamada_zemi/5.11_2.html 2004/04/27 発表者 上山 直樹 (小田さんの著書から孫引きか?)
    2.教師主導の評価から学習者参加型評価へ
    「経験そのものだけでは、生徒が何かを学ぶことは可能ではない。重要なのは、経験を自分のなかで咀嚼し、振り返ることだ。」(デューイ)


  • id:hathi
    なかなか 出典は、見つかりません。

    経験と自然 
    http://books.google.com/books?id=P6a_Jd2OxpsC&pg=PP1&dq=experience+and+nature&sig=N0PWh4mPRvPnedmyxkKWf9caCTw#v=onepage&q&f=false
     
    「総合的な学種に適した ポートフォリオ 学習と評価」が入手できたので、目を通しました。事前に予想していたのよりも、真剣に取り組まれて書かれた著作という感じがしました。
     P22ではワシリーダヴィドフ氏の言葉の出典を明記しているのことから考えると、P21のデューイの著作からの引用文の出典を書き落としただけという可能性も考えられます。
     小田氏が英会話(英語スピーチ)の先生であることから推定すると、デューイの原著を小田氏が訳出した可能性もあると思われます。出版されているデューイの邦訳とは違っている可能性もあります。また、デューイの著作の邦訳出版物とは別に、デューイの研究書などの中で「メジャーではないデューイの著作の一部」が邦訳、紹介されている可能性もあります。
     小田氏のこのP21のデューイの引用は全くの誤りという可能性も否定しきれませんが、この本を読んだ感じでは、何かの根拠があって引用をした形になっていると推定した方がいいような気もします。
     ただし、このP21の部分は、ポートフォリオ学習を推している小田氏が、その論を説き勧めるにあたって、口切り・前振りのような側面も持たせつつ、ポートフォリオの思想や考え方が昔からある教育論とも親和性があるというために、デューイにちょこっと触れて、『ここではすでに、現在のポートフォリオ学習の根幹である、、、、が打ち立てられている』とつなげる役目しかしていないように思います。
    またP21では『デューイは「学びは本来、主観的なものである」と述べている。そもそもデューイの考えた「学び」と「客観テスト」はそぐわない。、、、、。デューイが考案したといわれるプロジェクト学習や、その流れをくむポートフォリオ学習を指示する人たちが、学びの評価方法にもこだわる理由は、ここにある』とも書かれています。
    小田氏は、P21でポートフォリオがデューイに起源をもつものであると強調し、権威づけたいという気持ちを強く持っていたことは確かだと思います。このP21は事実かも知れませんが、事実かどうかを論証証明することが重要な部分ではなくて、単に自分の勧めているポートフォリオ学習に権威付けしたかっただけだと思います。仮にその部分が出典面でやや根拠薄弱だったとしても、小田氏がその後で展開する主張の根拠や論述にほとんど揺らぎは生じないように思います。
     
    どうしても出典が知りたければ、ご本人に尋ねるのが一番確かだと思いますが、このP21の記載の出典や正確性にそれほどこだわることよう特別の事情でもあるのでしょうか。
     
     http://www.pat.hi-ho.ne.jp/soyama/gakusyuukai/siryou/kazu-puraguma.pdf
     
     
    なお、教育界の現場の事情を全く知りませんが、P59~P61に記載されていることが現在も実態に近いなら、ポートフォリオ学習は、誰にでも適用できるいい方法ではなかったことが立証できていると思います。
      ~~~~~~~~~~~ 別件になりますけれども ~~~~~~~~~~
    高等教育を受けるのは何のためか、受けている人や高等教育機関を卒業した資格を欲している人が、「学習」や「学ぶ習慣、学ぶ方法を身につけること」を求めているのか。そこを考える必要があると思います。多くの人はそうした学習を好みません。学校生活を無味乾燥にするよりは興味がより高く持てるようにした方が、多くの人にとってより好ましい学校生活になるでしょうが、そうしたところで、何かがよくなる可能性は少ないと思います。「生徒に知識や判断力をつけさせるために、教育関係者は何をすべきか」という視点で考えることが正しいとは限らないとも私は思っています。教育とはなんなのか、社会的にみればどういう機能を教育は果たし、どんな結果や副作用をもたらしているのかも、考えてみる必要があると思います。
    また一部の人は元々学習すること、研究すること、探求することそれ自体を強く希求する傾向を持ち、その学習したこと探求したことが実社会で有用かどうかは二の次になります。その人々にとってはAP重視の評価や教育方法は甘受していられるが、総合的学習とか社会的に役立つようにバランスをとること、アメリカ的な社会的説得力を強化するための訓練は余計な努力に時間をとられることと映る可能性もあります。
    21世紀の日本や」欧米先進国といわれているところで、本当に必要な教育というのは何か、誰にどんな教育が必要なのかも、どんな教育は誰の人生にどいういう苦痛を与えてしまうのかを在学中のことだけでなく卒業後の人生についても考えるようなことを、一応視野にいれろと、おもしろいと私は思います。
     
     
  • id:ooharacho
    hathi様

     非常に懇切、丁寧にご回答くださり、痛み入ります。
    また、『総合的な学習に適したポートフォリオ学習と評価』を
    わざわざ入手され、目を通してくださったとのこと、感謝のことばもありません。
    感激しました。

    > どうしても出典が知りたければ、ご本人に尋ねるのが一番確かだと思いますが、
    > このP21の記載の出典や正確性にそれほどこだわることよう特別の事情でもあるのでしょうか。
      ↑
     私は現在、教育実践における「振り返り(reflection)」に関心を持っています。
    教育実践における「振り返り(reflection)」の源流はどこにあるかを調べる過程で
    横溝(2002)、小田(1999)で引用されているデューイのことばに出会いました。

     横溝(2002)、小田(1999)における引用のされ方から、
    教育実践における「振り返り(reflection)」の源流は、
    デューイの教育思想にあると理解しました。
    そこで、「これはデューイの原典にあたらねば」と思いました。
    ところが、肝心の出典が書かれていなかったため、
    こちらでご質問した次第です。

     教育実践における「振り返り(reflection)」の源流に関しては、
    その後下記の文献を参照することにより、少し見えてきました。

    柳沼良太(2002)『プラグマティズムと教育―デューイからローティへ―』八千代出版

     柳沼(2002)には、次のような記述があります。

       まずデューイは自然主義の立場に立ち、単純な経験から複合的な経験が生じてくる過程を考察する。
       後期デューイは経験のレベルを、
       「第一次的経験(primary experience)」と「第二次的経験(secondary experience)」に分けている。
       「第一次的経験」とは、個々人が日常生活で感じたり感覚されたりするものであり、
       理論化されない素朴な相互作用である。
       それに対して、「第二次的経験」とは、個人が第一次的経験を反省したり抽象化したりして生じるものである。
       デューイによると、第一次的経験と第二次的経験の区別は、
       「付随する反省を最小限にした結果として経験されたものと、
       継続され規制された反省的探求の結果において経験されたものとの間の区別」に対応する。
                                            (柳沼、2002、pp.119-120)
       ※引用部分:John Dewey,Experience and Nature,1925,LW1,p.15
             (河村望訳『経験と自然』人間の科学社、1997、p.23)

     上述した引用部分から、
    次のようなデューイの経験に関する捉え方がわかります。

    個々人が日常生活で感じたり感覚したりした結果として生じた「第一次的経験」は、
    反省的探求(refrective inquiry)を経ることにより、再構成された「第二次的経験」となる。
    (つまり、反省的探求を経ることにより、経験の質が変化する。)

     反省的探求(refrective inquiry)は、
    「(経験を)自分のなかで咀嚼し、振り返ること」とほぼ同義のように思います。
    そうだとすれば、「振り返り(reflection)」の源流がデューイの思想にある
    と理解して間違いなさそうです。

     しかしながら、デューイの経験に対する捉え方が
    デューイの教育思想、あるいは教育理論、教育実践において
    どのように位置づけられていたのかに関しては、まだよくわかりません。
    更なる調査が必要です。

     以上、私が「P21の記載の出典」にこだわった経緯と
    現在までに調べた結果をご説明しました。
    ほかにもご回答に対し、コメントをしたい点がありますが、
    今回はとりあえずここまでにします。

     詳細なご回答に深く感謝しております。
    本当にありがとうございました。
  • id:hathi
    ooharacho 様

    以下は 回答のコメントというよりは、私の時間つぶしに勝手をほざいていると思っていただいて結構です。

    もしも、興味がおありでしたら、お読み下さい。
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ooharacho 様が、教育実践における「振り返り(reflection)」に関心を持って(reflection)の源流を探している中で、今回質問されたというご事情はわかりました。

    reflectionという言葉に関して、ちょっと調べました。

    http://www.ne.jp/asahi/onuki/hiroba/etc/07sankagata.html
    こうしたデューイの教育論は、問題解決学習に関して20世紀における到達点を形成している。注目すべきは、次のようなプロセスをもつ「熟慮的経験」である。
    (1) 不完全な状況の中での「困惑」
    (2) いろいろな要素に対する「推測的予想」
    (3) 注意深い「調査と分析」
    (4) 結果としての「仮説の精密化」
    (5) 行動による「仮説の検証」
     この探求のプロセスは、問題解決に際して「困惑~知的整理~仮説~吟味~検証」という5段階の「反省的思考」の系列として示される。学習対象の中に自分との関係性を見いだすことで、それは自分にとって意味あるものとなり、興味ある課題として成立する。探求するプロセスは単なる衝動的な取り組みではなく、対象を緻密に検討し、解決への見通しを熟慮して活動する知的プロセスである。そして、教科と経験の相互作用が「経験の再構成」となる。デューイは、教材を子どもの経験に取り込む工夫の必要性を繰り返し強調していた。
     
     
    私個人としては、education reflection よりも、ジョン・デューイの教育における「性向(disposition)」概念に目が向いてしまいます。
     
    http://www.sed.tohoku.ac.jp/library/nenpo/contents/54-2/54-2-03.pdf
    教育における「性向(disposition)」概念の考察 -ジョン・デューイの「性向」概念に注目してー渡部芳樹
    このpdfの9/12(p43)の下に次の様な補足があります。
    『(30) デューイは、リフレクション(reflection)を、思考(thinking, thought)とも探究(inquiry)とも言い換えて いるが、それは、「われわれがしようと試みることと、結果として起こることとの関係の認識」「ibid., p. 151)であり、「不確定な状況を確定した状況に、すなわち、当初の状況の諸要素を一つの統合された全体へと変化させようと、状況を構成する区別や関係を、確定した状況に、コントロールされ方向づけられた仕方で転化させること」("Logic: The Theory of Inquiry", p.108)を意味する。その諸特徴および諸段階についてはいくつかの著作で叙述されているが、「民主主義と教育」では次の通りである。
     (一) 完全な性格がまだ決定されていない、ある未確定な状況に巻き込まれたという事実から起こる、困惑、混乱、疑惑。
     (二) 推測的予測一与えられた諸要素についての試験的解釈。それは、それらの諸要素に一定の結果をもたらす傾向があることを告げる。
     (三) 考慮中の問題を限定し明確にする、考え得るすべての点についての注意深い調査(試験、検査、探索、分析。
     (四) より広範な事実と一致させるために、より正確でより一貰性のあるものにした、その結果の試験的仮説の精密化。
     (五) 考案された仮説を、現在の状態に適用される行動の計画として一度立脚してみること。すなわち、予期した結果をもたらすために、何かを実際におこない、それによって、仮説を検証すること。
      Democracy and Education, p. 157. 
     http://books.google.co.jp/books?id=UkxjpfiY4nIC&printsec=frontcover&dq=Democracy+and+education+by+john+dewey&hl=en&ei=bWSVTKHQAY_-vQPdhcyuBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCsQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false
    のP224
    So much for the general features of a reflective experience.
    They are (i) perplexity, confusion, doubt, due to the fact that one is implicated in an incomplete situation whose full character is not yet determined;(ii) a conjectural anticipation -- a tentative interpretation of the given elements. attributing to them a tendency to effect certain consequences;(iii) a careful survey (examination, inspection,exploration,analysis) of all attainable consideration which will define and clarify the problem in hand;(iv) a consequent elaboration of the tentative hypothesis to make it more precise and more consistent, because squaring with a wider range of facts;(v) taking one stand upon the projected hypothesis as a plan of action which is applied to the existing state of affairs: doing something overtly to bring about die anticipated result, and thereby testing the hypothesis. It is the extent and accuracy of steps three and four which mark off a distinctive reflective experience from one on the trial and error plane. They make thinking itself into an experience. Nevertheless,we never get wholly beyond the trial and error situation. Our most elaborate and rationally consistent thought has to be tried in the world and thereby tried out. And since it can never take into account all the connections, it can never cover with perfect accuracy all the consequences. Yet a thoughtful survey of conditions is so careful. and Ihe guessing at results so controlled. that we have a right to mark off the reflective experience from the grosser trial and error forms of action.
     
     :民主主義と教育:第11章二経験における熟慮reflection :岩波文庫/上 p239~240
     
    http://home.iprimus.com.au/junyah1973/papersu.pdf
    第2章 欧米におけるリフレクティブ・アプローチ(Reflective Approach))
    「反省的実践家」の思考のもととなるのは「反省的思考(The Reflective Thinking)」ということになる。この「反省的思考」という言葉自体は、教育課程の本質的な目的を特徴づける概念として、20世紀アメリカにおいて用いられた。この反省的思考の概念を指摘した先駆者は、かのデューイ(Dewey,J.)である。ここでデューイの「反省的思考」について少し触れておくことにする。デューイの哲学的課題は、17世紀以降自然科学の領域で広く受容されるようになった科学的探求の方法を社会現象に適用して、社会・政治的問題を理性的に解決し得る知性の方法、つまり反省的思考の本質を示すことであったと論じる。デューイは、『思考の方法』、『論理学―探求の理論』などの著作で問題解決のために思考がたどる過程を論じた。彼が目指したのは推論の妥当性を判断する規則の集成にすぎない伝統的な論理学の観念を拡張して、現実に対してより有効な思考の方法―真理の探求の方法を提示することであった。『思考の方法』において、デューイは、反省的に思考する態度を陶冶することこそが教育の目的であることを明確に指摘した。
    そして反省的思考を「信念、あるいは思いつかれた知識をそれらを支える根拠とそれらが志向する結論に照らして、積極的に、ねばり強く、そして注意深く考察すること」と定義する。
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    reflectionについて、[振り返り][内省][熟慮][経験を元に仮説検証を含めた思考性向を持つこと]という訳語も使えそうですが、訳語を当てずに、リフレクションというカタカナで済ませる方が良いと思う方もいるようです。
    http://www.nakahara-lab.net/blog/2010/04/post_1679.html
     リフレクションを促す手法については、これらの他にも様々なものが提案されていますよ。ツールを使ったリフレクションの促進手段なら、無限に近いほど論文数があるのではないでしょうか。
     リフレクション研究会とか、やるといいかもね、、
     
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    リフレクションなどを重視するのはデューイが起源だとする人が多いようですが、デューイが教育場面の「経験から学ぶ」方法論の源流かどうかについて、異論を出す方もいるようです。
     
    http://servicelearning.blog79.fc2.com/blog-entry-5.html
    リフレクションは、SL研究に限らず、教育学研究全般にわたって度々議論されてきた主題である。その源流は、デューイ(John Dewey)の「反省的思考(reflective thinking)」まで遡る。デューイはまず「『経験から学ぶ』ということは、われわれが事物に対してなしたことと、結果としてわれわれが事物から受けて楽しんだり苦しんだりしたこととの間の前後の関連をつけることである」と述べ、その上で、この「前後の関連をつける」のに必要な思考方法を反省的思考と呼んだ。
     このデューイの理論に基づけば、人間はリフレクションを通して「経験から学ぶ」ということになる。しかし、デューイはリフレクションの重要性とその性格を述べたに過ぎない。実際、彼の理論を授業場面に応用するのには相当な飛躍が必要である。一方で、リフレクションを具体的な学習理論あるいは授業理論として役立てていくためには、コルブ(David Kolb)の研究が示唆に富んでいる。
     デューイの経験主義思想を引き継ぎ、より構造的に「経験学習(experiential learning)」のあり方を研究したのがコルブである。彼は「経験学習のサイクル(experiential learning cycle)」を示し、「リフレクション」にそのサイクルをまわし続ける原動力という役割を与えた。
     コルブの学習論の特徴は、学習を一つの連続体と捉え、そのプロセスを4つの学習モード(learning modes)から説明した点にある。その4つとは、「①具体的経験(concrete experience)」「②反省的観察(reflective observation)」「③抽象的概念化(abstract conceptualization)」「④活動的実験(active experimentation)」である。
     コルブはこの①~④がサイクルすることが(つまり、「①→②→③→④→①…」と連続することが)、経験学習に他ならないと述べた。さらにコルブは、「①具体的経験」では「感ずること(feeling)」が、「②反省的観察」では「観察すること(observing)」が、「③抽象的概念化」では「考えること(thinking)」が、「④活動的実験」では「行動すること(doing)」がそれぞれ基本的な学習活動として機能した時に、それぞれの学習モードが深化すると述べた。
     この「経験学習のサイクル」を、アイラーらは“Action-Reflection-Action”のプロセスと捉える。つまり、アイラーらにとって学習とは、アクションとリフレクションの往復運動を意味する。

     http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/518/1/uas01_10_nakamura.pdf
     体験学習理論(Theory of Experiential Learning)を構築した心理学者のゴルフ(David A. Kolb)によれば、体験学習は経験(Concrete Experience)、省察(Reflective Observation)、概念化(Abstract Conceptualization)、実践(Active Experimentation)の4つの過程から構成されると整理しており、この過程を繰り返すなかで人は成長するとしている。

    http://www.fxli.co.jp/co_creation/forum/consider/000235.html
    経験から学ぶ方法については、コルブ(David A. Kolb)に代表される経験学習理論が貢献しうると考えられます。
     
    http://pach.psrgy.com/pach.psrgy/jiinsttex.pdf
    (ゴルフの学習スタイル)
    MIT(マサチューセッツ工科犬学)の(David A Kolb)は、学習する人には右のような「四つのスタイル」とし、ノぞれにつぎのように命名している。
     ①CEスタイル応から学ぶ)
      このスタイル')人は(なZ)中の現実は複雑で、理論どおりにはいかない。原理や法則よりも 世間の実際例を聞いたほうが納得がいく」と考える。
     ② ACスタイル(理論から学ぶ)このスタイルの人は、論理的、合理的に考え、分析や概念を好む。事実や数字を使って頭で学ぶ。実習や経験から”偶然に”何かを得ることには抵抗を感じる。
     ③ AEスタイル(経験から学ぶ)
      このスタイルの人は、実習など自分で経験しながら学ぶ。講義を聞くといった受け身の学習よりも、「話し合い」「実験」のような。参加型の学習を好む。
     ④ ROスタイル(講義から学ぶ)
      このスタイルの人は、思慮深く慎重で、公正かつ客観的に観察できる学習、たとえば専門家の講義を聞くことを好む。
     統計的には圧倒的にAEスタイルの「経験派」が多く、参加型の学習を求めている。「成人は自分白身で体験しながら勉強したいと欲している」のである。


    デューイがリフレクションを重視し強調したという事実に異論は述べていないものの、リフレクション=「経験をし,分析する思考態度の育成」というとらえ方でいる人もいるようで、その中には、[デューイが20世紀初頭に言い出したことが源流にはなっていない][20世紀後半にショーンが述べたことが実質の起源になっている]と言っているように見えるものもあります。
    http://www.hbg.ac.jp/univ/nurse/3kenkyukatudou/tougoukenkyu5-2-2003/v05-02-03.pdf
    ここでも、『反省的思考に関わる先行研究の分析 デューイは反省的思考を以下のように定義している。「物自体(thinkingthemselves)のなかに含まれる真の関係にもとづき被暗示事項に対する信念を誘導するという方法において現前の事実が他の事実即ち真理を暗示する精神活動(旧仮名遣いは筆者が現代仮名遣いに改めた)」4)である。反省的思考は1930年代のデューイに始まり,1980年代にはデューイの教育学から影響を受けたショーン(Donald A.Schon以下ショーンとする)5)が反省的実践家(reflectivepractitioner)の専門家教育を唱えている。そこに共通するのは,リフレクション(reflection 振り返り 以下リフレクションとする)という概念である。教育心理学辞典によるとリフレクションとは「さまざまな経験を繰り返す過程で,自分の活動を振り返ることによって,その活動の論理を引き出す思考」6)とある』
     
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    なお、デューイの前に似た様なことを主張し、展開していた人もいると思います。
     
    ジョン・ロック John Locke, 1632 - 1704年
    http://homepage.mac.com/berdyaev/mm/prmnd/utyu/prmnd36.html
    人間はどのようにして世界を認識できるのか、物事がわかると言うことはどういうことなのかという認識論(人間悟性論-Human Understanding)から出発しました。
    彼は、人間の認識はその「経験」に由来する、と考えました。人間の精神は白紙のようなもので、ある経験はその白紙の上にその図形を描くことであり、この経験が描いた図形に基づいて同じ図形を認識することができる、と考えたのです。
    これは、厳密に、「人は経験したことを知っている」というのではなく、「経験したことだけを知っている」ということであり、経験は常に後天的なものですから、認識においても人間は本来「白紙」という平等なものである、ということでもあります。
    単純な人たちは、ここで、「だから、いろいろな経験をたくさんすることはいいことだ」という結論を導き出し、いろいろな経験をすることを勧めたりしますが、ロックが主張した「経験」はもう少しきちんと理解されなければならないものなのです。
    ロックは、「経験」は「外的感覚」と「内的内省」から成り立っていると指摘しました。内的内省のない外的感覚だけのものは「経験」とは言わないのです。
    目で見、耳で聞き、手で触ったとしても、それを内的に内省(考えて、自分の中に納めてみる)することのないものは、ただそうしたというだけで、経験とはなり得ないのです。
    ともあれ、人間の認識は経験に由来するのですから、ロックにとっての世界とは「自分が経験することができる世界」に他なりませんでした。人間が考えることができるものは、それを経験したからであり、経験できるのはそれが「ある」からに他なりません。
     
    http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_03.pdf
    (1)ロックは、『人間悟性論』(An Essay concerning Human Understanding、1690)の第2巻「観念について」の第2章から、第11章にかけで、単純観念(simple ideas)について述べている。この観念には4種類ある。第1に、ただ一つの感覚機能(sense)によってわれわれの心(mind)にやってくる観念。五感を通じて来るものである。たとえば、視覚では、光や、白、赤、黄色、青等々の色、およびこれらの混合色としての、緑、深紅、紫、海緑色等々であり、聴覚では、あらゆる種類の音(noises)、響き、音調であり、味覚では、味、嗅覚では、香り、触覚では、熱さ、冷たさ、固さ(solidity)等々である。第2に、一つ以上の感覚機能によって、心に運び込まれるものである。視覚と触覚から来るもの。空間または延長(space or extension)、形状、静止および運動である。これら第1と第2は、感覚(sensation)と呼ばれる「経験」(experience)に属する。第3に、心が、自らの眼差しを心自身の内部に移し、第1や第2のごとき外部から受け取られ、心が有している観念、これら観念に関する心自身の活動を観察することによって新たに獲得される(これが反省reflexionと呼ばれる経験である)別種の観念である。2種類ある。知覚または思惟(この能力は悟性(知性)understanding)の観念と、意志作用(volition)または意志力(willing)(この能力は意志will)の観念である。前者の例としては、単純観念の様態(modes)たる想起、識別(disceming)、推理、判断、知識、信仰等々である。第4に、感覚と反省のすべての仕方で、心に思い浮かばせる(suggest)観念である。快(pleasure)、歓喜(delight)およびその反対の苦(pain)、不安、力(power)、存在(existence)、統一(unity)、継続(succession)等々である。
    尚、ロックは、これら単純観念が、実際に知識を形成していく仕組みについて、「もしわれわれが、24文字[アルファベットのこと]のさまざまな組合せによっていかに多くの語が作り出されるか」(1)を考え、そこから類推すれば分かろうといっている。
    ロックは、このように、あくまで彼のいう「経験」の地平に立脚しながら、一方、心のなかの知覚、思考を語る、または、悟性の直接の対象であるところの観念を語ると同時に、他方、これら観念を産み出す物体そのものの力(power)としての物体の性質(qualities)をも語る。
     
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
    目を転じて、一般的な言い回しを考えてみます。
     
    下は山本五十六の言葉です。 reflectionや体験学習と部分的に重なりませんか。
     やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。
     話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
     やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
      (山本五十六の発案でなくて、武田信玄、上杉鷹山に源流があるとの解説があります)
      http://kasaburanka.siromuku.com/meigen_iy.htm
     
    『職人さん芸人さんの世界では「見て盗め」』という言葉があるようです。向上心というかレベルアップを強く望んでいるという前提付かもしれませんが、弟子入りし見てマネして違いを実感し工夫に余念なく辛抱することが大事であるということだと思います。教わったり指導されただけでは成長できない、自分で体と五感と頭脳を使って多数の工夫と努力、失敗経験を重ねかつ辛抱しないと成長はできないことを言っているのだと思います。
    これは、事実がそうだったからと言うことと、言葉や手取足取りの指導でうまくは人を成長させられない失敗が非常に多かったからそう言われただけでしょう。理屈を言えば、論語に言及するする人も多数いたと思いますが、論語を学んだ結果で、「見て盗め」という方法論を編み出したのではないと思います。
     
     学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし。
      (見聞きするだけで熟慮内省仮説検証しなければ馬鹿。マスタベーションだけでは見当違いをおこす))
     先ず其の言を行い、而して後(のち)にこれに従う。
      (ろくに経験もしてない、良いところまずいところがわからないうちに、みだりに主張しない)
     学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや。
      (見聞きしたことは自分で試すことで喜びになる。同朋、ライバルとちょっとコンタクトできるだけでも楽しい)
     三たび思いて後これを行う  
      (よくよく熟慮せよ。短慮で決行すれば成功しない)
     
    子供や未熟者を育てるときには、①『それなりの技能などを持つ者の実際の活動場面を見る機会を与える』②『できるようになりたいという気持ちを子供や未熟者が持っていることを見分ける』③『子供や未熟者の失敗や工夫、努力を見る』④『ここというポイントのときに少しヒントを子供や未熟者に与える』という手法が、非常に大昔から、世界中で行われていたと思います。誰か一人の言説に源を発しているようなこととは違うのではないかと思います。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    プラトンにしても、国家の指導者はエリートでなければならないし、そのためには体が壮健なだけでなく、修辞学も必要だとしているが、人間の感覚や経験を基盤に据えた思想を否定(感覚は不完全であるため、正しい認識に至ることができない)と考え、対話による仮説検証や客観性・論理性の強化を述べていたとするならば、同じような考えだとも言えるかもしれません。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    キリスト教でも仏教でも、途中で別の思想が乗っ取って発展したような歴史があると思います。今に繋がって大きな影響力を示すような方向付けをしてかつそれに大きく成功したのはいつのころか、どのことが契機になったのかどういうことなのかは、それなりに大事なことかもしれません。
     
    社会的影響力の視点とは別で、単語やフレーズの使用記録を探索して、ある思想の源流/起源を求める行為はが意味を持つ場合もあると思いますが、そうして発見できた起源が連綿と途切れることなく社会的に影響を広げながら、現代に通じていくことは少ないと思います。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    今の日本の教育界で、総合教育、ポートフォリオ、体験学習、学びの姿勢、学力、こころ、落ちこぼれ、、何が問題なのか、教育改革、色々と話題があるのかもしれませんが、おそらくそのテーマや問題認識、対策手法は、半年前~数年前に提示され始めたことではないでしょうか。10年以上前に似た様な言説を述べている文献があったとしても、それが現在の流れや運動を引き起こしていることはないのではないかと思います。
    現在の流れや運動を引き起こしていることが、どうした事情、どこで始まったのか、なぜそれが流行っているのかを見る方が興味深い感じがします。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    10年前の2001年出版なので、現在の教育界の話題とは異なると思いますが、『 階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ [苅谷剛彦]』は、おもしろい本だと思います。
    個人的に興味深く読めたところはp75~p96の教研資料の引用文ですが、【リフレクションとの関係でこの本を読んで気づく大事なポイント】は、『教育理論や方法論の検討が重ねられ、文科省も方針変更をしながら良い教育・時代にあった教育を追求し、現場の教育関係者が絶え間もないほどに努力もしてきた、学童生徒が教育を受けたり学習する時間を制約する経済的要素・障害も減り、学校施設の充実、教材やインターネットの利用などあらゆる環境が良くなったのに、その結果、高等教育機関への進学率は高まったものの、実質勉強しない人、学習意欲のない人、基礎学力がついていない人が増えている』ということだと思います。
     
    生きる力、総合学習、ポートフォリオ学習、落伍者を作らないように範囲を絞り経験時間を増やす施策などを低学年で実施しても、専門大学院を22歳以降のために作る施策も、高等教育の私費負担を軽減し生活費も面倒をみていく施策も、保育や幼稚園の位置づけの見直し、中高一貫教育の取り入れ等も、社内全体で見れば期待するような成果はもたらさないと私は推測します。
     
    2004年出版の本ですが『希望格差社会[山田昌弘]』にはパイプラインとしての学校教育制度という説明が出てきます。教育の位置づけとか目的は、中央教育審議会ではキャリア教育・職業教育特別部会で審議しています。
    http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2010/05/25/1293956_9_2.pdf
    http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2010/05/25/1293956_8_1.pdf
     
    これらの視点は重要だと思いますが、『 階層化日本と教育危機』や『希望格差社会』にも、中央審議会の審議にも、次の面を考えることが少ないと私には思えます。
     
    ①産業と科学技術が発展して、技術進歩や産業の担い手は現在それほどの人数が必要ではなくなっている。
    ②学齢期の子供の親の多くは、自分が学んできたことが自分の職務上重要なものではないことを知っていて、子供がそうした勉強をしてもそれを活かせる職業に就く可能性が高くないことを知っている。
    ③子供は、自分の親だけでなく、多くの親世代が技能・知識・判断力などを必要としていない生活をしていることを知っている。
    ④子供は、世の中でリーダやトップになれるのは少数であり、自分にはそうした可能性が少ないと先を見ている。
    ⑤世の中は、知識や技能がなくとも暮らせるように製品やサービスを充実させていて、それらを享受するにはほとんど学習をする必要がないという実経験を誰もが日常積み重ねている。
    ⑥努力や辛抱、克己心などを強調し要求される経験は少なく、自分が快くないと思うことは不満として改善を要求して良いという風潮を感じている。自己肯定の考え( 私は私のままでいい…… 相手に合わせてもいいことない。相手のために無理をせず、そのままの自分でつきあう。弱さも受け入れて、自分を肯定していく。自尊心の欠如は、時にセルフ・コントロールを失い、依存症や摂食障害などの精神障害を引き起こすことがある。自尊心の回復も重要である。「過度の励まし」「自助努力の強要」は単なるプレッシャーを与えるだけ。 "ありのままの自分を尊重し受け入れる"ということは大事なことである)を正しいと思っている人は珍しくない。("ありのままの自分を尊重し受け入れる"ようなことは良くないと声高に主張する人が少ない)
     
    上記6項目は、【社会が生産側として必要とする人の数は現状でも少なく、今後さらに少なくなっていくという事情から発していて】、【同年代の多くの人は消費者・サービスを受ける者という位置づけで生きるしかないように見えていることに起因して】います。
    消費者・サービスを受けるという観点で見れば、技能や知識経験、鍛錬もあまり必要ではない。自分が自足できる範囲で好きなことにのめり込めればそれで良いと思う人が多数を占めることは避けがたいと思います。
     
    こうした消費専門者が人口の多数になっていくとき、産業や科学技術などをリードしていくのに必要な人数、政治家、医療関係者、弁護士などの専門の技能や知識を持つ人数はどの程度必要なのか、その育成はどうするのか、そうした仕事に就く必要のない多くの人はどのくらいの人数になるのか、その人たちにはどういう社会的な役割を期待し、その育成はどうするのかを考えないといけないように思います。
    社会の構造・経済や産業・技術等が、30年以上前の日本とは全然違っています。比較的単純な労働でさえも、ノウハウや熟練、経験の必要性が薄れています。多くの家庭で製作や修理の作業がなくなりました。ミシンもないです。家庭生活でも、スイッチポンの時代で、生活の知恵さえも重要性を失っています。会社でも経理の知識やソロバンの技術も不要です。漢字が書けなくても困りません。パソコンもどんどんと使い易くなっていて、次々現れる画面で選択していけば、何でもできる時代です。製造加工などの分野でも経験や知識技能を要求するポジションはどんどんと少なくなっています。販売店でもマニュアルに従って接客対応すれば十分で、商品知識も、金額計算も、財務経理の知識技能もいらないポジションが多いのです。それを考慮しないで、子供や青年期の学習や教育、学習意欲を高めることだけを考えても、成果は得られないと思います。
    高齢者の学習意欲を高めさせ教育研修の効果を高めようとしても、多くの場合成果は得られません。脳が柔軟性を欠くからと言うだけでなくて、それを使う場面を想定しにくい状況で、学習に努力する人は多くないからです。
     
    「理解」「納得」「活用・応用・発展をさせる力」の習得や「性向(disposition)」の形成にreflectionは重要だと思いますけれども、どの子供にもreflectionを考え、生きる力を強めようとしても、それを受け止める人が生徒の大部分になる可能性は少ないと思います。

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