私は、
音楽高校→音楽大学の演奏科→音楽美学科へ転科→卒→普通の大学の哲学科編入→卒→社会人
と、たどってきました。
それで思ったことは、「哲学と百科事典とをあわせると、最高の知性になる」ということです。
帰納的な(具体から根本へさかのぼる)、または、演繹的な(根本から具体へ敷衍する)、正確な思考ができます。
しかし、最近、「アジア人に、西洋哲学で物事を説明する」ということの、
特に言語的な、むずかしさを、ひしひしと感じるようになりました。
私としては、西洋哲学がいかによく、有益なものか、日々の議論の中でわかって頂きたいのです。
そこで、その「解って頂く」力を鍛えるために、私に、なにか質問をしてみてください。
そして、私の返答をご覧になり、それに対するご批判を、コメントで頂戴したいと思います。
なお、自由に操れる外国語は英語のみです。これは、私の年齢では、もうだめです。あしからず。
どのような質問でも結構です。返答は、哲学的な返答ですから、「普遍的universal・一般論的general」なものとなります。
では、よろしくお願い申し上げます。
では、早速。
質問は二つ(一度に一つずつなら最初の方を採用してください)。
1.人はどのように生きるべきか?
良い伴侶として愛を育むのが良いか?、良い親として優れた子孫を育てるのが良いか?、
良き隣人として、仕事に献身し社会に貢献するのが良いか?
(私の過去の質問にも関連する問題です。http://q.hatena.ne.jp/1296533195)
2.神は実在しますか?
世の中の科学が完璧に進化すれば、石油は自動で地中より掘削され、
それが自動で製品や電気となり各工場、農場、家庭に配達され、
人々の仕事は消費のみとなる。
そうなったとき(またはすでにそうなっている現代において)人々の仕事は、
最先端の効率改善および生産機械のメンテナンスに就くわずかな理系と、
国の部品となる政治家・公務員、
それに互いにケアしサービスする福祉や販売ということになる。
すなわち第三次産業以外、本質的に仕事がなくなってしまう。
そこで、人頭税と逆に国民全員にお金を配って、
「イザというときのために」教育を受けて
普段はなにもせずに生きていてもらう
「ベーシックインカム」という制度が近年注目されている。
ベーシックインカム論を扱う本が売れ、サイトが注目されている。
ここで、お金がエサのように国から投げ与えられる世の中がきたら、
人は何を生き甲斐にして生きるべきかというのが私の質問です。
私の考えだと、
そう言う世の中においては全員がヒマを潰すために人を楽しませる無償の芸術家となる。
たとえば現状でもpixivには、最速で毎分60枚以上もの手間暇のかかった画像が
どんどんアップロードされている。ニコニコ動画なども同様だ。これらにある作品の作者にはほとんどなんの報酬もない。知名度と名誉だけだ。ブログだってそうだ。
もちろん、切磋琢磨だって起こるだろう。
「どれだけ正確で洗練されたものがつくれるか」という競争はおこるが、
それにはやはり最新のソフトウェアを駆使しつつその足りない機能を埋める
純粋な訓練および労力が必要である。
しかしツール、訓練および労力の集積度でいえば
企業なり世界中に存在するライバルグループと限界のある一個人とでは比較し得ない。
結局トップの一握りの売れっ子芸術家以外にはお金も名誉も働きがいも生き甲斐も入ってこない。
したがって、相互監視をしつづけ、精神的に不健全な状態により、
精神を病む人が多くなり問題化する
(実際社会ではすでに自殺者数や鬱病が注目されていることが裏付けになる)と考えている。
みな様から、光栄にも、多くのご批判・ご批評をいただきました。大変ありがたく思っております。議論をして頂けるということは、本当にありがたく、私の成長にとって、大きな力になります。
ここ数日、「すべての質問に直観的に『従前の考えから自然と出てくるような』」回答を、すべてのご回答者様にそれぞれ申し上げるか、一回答一回答を、吟味しながら返信申し上げるか、どちらが失礼がないか、考えておりました。
結果、「両方」いたそうと存じます。前者をする理由は、「はてなの質問には期限があるから」、後者をする主要な理由は「それをしなければ意味がないから」です。
しかしながら、すすんで馬鹿をさらすのもいやですので、少なくとも、ここまでで頂戴したご批判・ご批評を参考にする、といたします。
また、これから返信申し上げる内容は、「文脈の確定」のために書きます。つまり、「それは何々という文脈でよろしいですか?(私の知識不足で文脈が理解できていないのであれば、キーワードをご提示いただきたい)」というような内容にいたします。
さて、NPOERIN 様に返信申し上げます。
実は basic income (BI) という制度は、初めてききました。ウィキペディアにあったので読んでみました。また、ウェブ検索してみて、出てきたものの中で、信用できそうな話をも、あわせて読みました。
以下、ベーシック・インカム論(「BI論」)の、要点・論点を、私なりに抽出・論理化し、BI論を合理化するために必要な、論理の流れの中の抜けている部分を補完して、まとめてみます。
1) BI 論の起源としては、18世紀末におけるトマス・ペインの主張が知られる。1970年代からヨーロッパで本格的に政治上の議論が始まった。日本でも、近年、さかんに話題になっている。
2) また、現状では、労働が生産する金額以上の金額を、当の労働の機会を生産するために、社会が支出している。主に公共事業のなどかたちで)
3) また、農業革命・産業革命などによって、もう多くの人は働かなくてもよくなっているかもしれない。労働機会を作るために、労働によって得られる生産以上の金額を、国や自治体が支出をしている「負の労働」の例は枚挙にいとまがない。
4) そして、現状、すでに生産効率が充分高い。したがって、「働かざるもの食うべからず」のような、「生きていて健康な者には働く義務がある」といった種類の倫理は、すでに不要である。
5) したがって、価値労働起源説は、少なくとも部分的には、否定する。
6) さらに、労働を「しなければならない」よりも、「しなくてもよい」ことに越したことはない。
7) 具体的な BI 制度 …… 生産性の低い労働者に対しては、「働きがいという価値」は捨てていただいて、最低限の生活のための金額を分配して、「負の労働」はしないでおいてもらったほうが、社会全体の収支が向上する。一方で、企業が継続して雇用しつづけたいと考えるような能力をお持ちで、かつ、BI 以上のお金がほしい人たちに、高度な、または創造的な、労働をしていただく。容易に代替労働が可能な仕事は、低賃金でもよいから働きたいという人に、やってもらう。ただし、この種の労働は、海外の低賃金の地域に代替させたほうが、経済合理性が高い。
8) 派遣労働者にかんする諸問題は、企業の「誰にでもできるような仕事は安い労働者がよい」という意思と、「働かないことは悪いことだ」という倫理観とがあわさって、原因となって、発生している。この問題は、BI によって解決される。
9) BI 制度の付加的な効果 …… 個人単位でお金を無償配布することによって、税制度や社会保障制度をはじめとして、現在これらが、世帯や会社といった、集団単位で与えられていることによって、生き方の多様性を阻害している状態が、解消される。また、生活保護受給の可否を役人に任せることによる不合理性が解消される。さらに、労使関係は、不当な労働環境や賃金であるときに、「いつでもやめられる」ために、労使の労働上の権力・権利の不均衡が解消される。
BI 制度に賛同、または、同じような立場をとっている団体・著名人
・新党日本(マニフェストにおいて「ミニマムインカム」として主張)
・みんなの党(同前)
・みどりの未来(同前)
・堀江貴文氏(ブログで主張)
すでに BI を導入済み
・モンゴル(「人間開発手当て」として)
・イラン(「現金補助金」として)
・アメリカ合衆国 アラスカ州(「アラスカ・パーマネント・ファンド」として)
・ブラジル サンパウロ州 カチンガ・ヴェーニョ村(対象は 100 人)
・ナミビア Otjivero-Omitara 村(対象は 60 才以下の 930 人)
・ナウル国(過去。リン産出の収入による。対象は全員)
さて、ご回答者様の論は、「第三次産業が肥大化→働くという生きがいが失われる→死にたくなるほど不幸になる」ということです。
しかしながら、私はそうは考えません。
たとえば、一・二次大戦により植民地のほとんどを失ったイギリスは、それまで経済・軍事の大国であったこととの落差によって、深刻なアイデンティティ喪失にみまわれました。イギリスは、「哲学・歴史で、フランスに負けている」という意識があったためです。
実際、私が専門としておりました、クラシック音楽の世界でも、世界的に評価されるような作曲家は、ほとんどが仏・独・伊に占められていました。イギリスの作曲家と言われると、エルガー (1850s-1930s) などしか思い当たりません。また、エルガーをはじめとする、過去の有名なイギリスの曲に、普遍的な美があるかと問われれば、アングロ・サクソン・ローカルなものとしか、思われません。
イタリアは、オペラに代表される「ギリシャ・ローマの詩学を由来として持つ総合芸術の継承者」でしたし、そもそもローマ史に代表されるような、よく知られた歴史が、国家全体にも、また、地域ごとにも、ありました。
ドイツは、日本と同じように「後発先進国」では、ありました。しかし、「形而上学的な理性による複雑な合理性」や、ドイツ語の「正書法」として知られるような、ドイツ語という、造語や意味の判明が容易で、汎用性があって、しかも合理的・普遍的な言語を持ちました。
フランスには、先進的な哲学、理論性への国家的信仰による合理性、そして国民総芸術家という「層の厚さ」があったために、ドイツと同じくらい高度に理性的かつ複雑で、柔軟なハイカルチャーがありました。また、フランス語の原則は、「クレール(クリア、明快)でないものはフランス語ではない」であって、このころまで、国際語はフランス語でした。
このように、文化的・歴史的には、イギリス帝国時代に経済・軍事大国であった以外は、イギリスはただの「土着的な田舎の島国」でした。
ところが、イギリス政府は、大転回をやってのけました。
経済・軍事大国であるという「量的な」アイデンティティを捨て去り、「クールなブリタニア cool britannia」というコピーで、「イギリスはユニークでカッコイイ国」というキャンペーンを、内政・外交の両方で、大々的に公言・実行しました。
結果、見事に、しかも短期間に、名誉とアイデンティティの回復に、成功しました。
(「クールなブリタニア」は、イギリスの国歌につぐ、彼らのアイデンティティともいえるほどの愛唱歌である、「ルール・ブリタニア rule britannia」という歌(「ドーーーシドレーラーーーソーーーファーーーミファソーレーーーーーーー」という歌)のタイトルをもじったものです。)
現在では、ご存知のとおり、「ハイカルチャーのフランス、サブカルチャーのイギリス」として知られています。また、韓国も同じ文化戦略をとっているようです。
私は、BI 論には、基本的に、上記 (4) ~ (6) が主張されていると思います。つまり、BI 論は、「働きがい」という観念を捨てることと、表裏一体です。
逆に、「働きがい」にしか価値を見いだせない人は、ただ、低賃金かもしれませんが、「働けばよい」だけであろうと思います。なぜならば、私の考えるところ、BI 論は、労働機会の消滅を意味しないからです。
また、「皆がお金を無償でもらっていると働きがいがなくなる」という人の心性は「嫉妬 ジェラシー」であろうかと思います。それに、そもそも、この問題は、第一に、これは価値にかんする問題ではなく、金銭の問題です。
おっしゃるように、「嫉妬による相互監視と相互抑圧」は、男系の社会においては歴史上つねにみられる、普遍的な現象です。しかし、少なくとも、西洋諸国は、これをすでに乗り越えていると言えると考えます。これが、彼らにできて、私たちができない致命的な理由は、ないと考えます。
もしも、哲学と外れていたら、大変申し訳ありません。
私は創造論支持者なのですが、万物を創造したのが神だとすると、神はどのようにして出来たのでしょうか。
(この度の地震で被災されたかたがたに、心よりお見舞い申し上げます。ご回答者様がたの中にも、被災されたかたがいらっしゃるかもしれません。心を強くお持ちになってください)
そのご質問は、言いかえると、「始まりの前には何があったのか」と言えます。
そのご質問には、「時間は過去から始まり未来へとつづく一方通行で、トポロジー(位相学)で言うと『一本の線』である」というお考えがあるのではないでしょうか。
もし、そうお考えでしたら、私は、その点が、あなた様がご自身の創造論を完結できない原因ではなかろうかと思います。
つまり、私は、「時間が過去から未来への一本の一方通行の道である」という考えは、恣意的であると思います。
もちろん、多くの哲学者は、「人は過去にもどることはできない」ということに合意しています。しかし、それは、ただ「戻ることができない」だけであって、位相学的には、時間が1次元の輪になっていることもありえますし、「永遠」という概念も、人がその言語を知っているのですから、ありえます。つまり、時間は永遠の過去から永遠の未来まで、回転しているのであって、それに対して神様が何か関与しているという可能性は、あります。
いかがでしょうか。まずは、「時間は過去から未来への一方通行の一本道である」ということは、哲学の思考としては非常に恣意的であるということをご勘案なさってみてください。
こちらはいかがでしょうか。
・人権の根拠は何ですか?
※参考URL
http://anond.hatelabo.jp/20100918210520
それから、はてなの過去問にも哲学関係の質問が沢山あります。はてなには、コメント機能があるので、過去問にコメントをつけることもできます。コメントをつけると質問者にメールが届きます。
●無とは何ですか?
結婚して子供ができることを幸せな家庭と表現しますが本当に幸せですか?
現在の状況を考えると明るい未来が考えられません。
そんな世の中を生きていかなければならないのに、子孫を残す必要はあるのでしょうか?
哲学的な質問ですか……難しいです……哲学とは一体何なのでしょう……。
1)死んでも生まれ変われないということはどうやったら証明できますか?
2)右の耳から入った音と、左の耳から入った音は、どちらがより美しく聴こえますか?
3)合理的選択ができな人間は殺す、というやり方の正当性を合理的に説明して納得させてください。
4)日本の政治がここからまともになるためにはどのような道筋を描けばいいのかを教えてください。
哲学的な質問というよりもとんちみたいな問いばかりになってしまいました。最後のはヘヴィな質問になってしまいましたが、今かなり気になることのひとつなので。
こんにちは。
面白そうなので参加させてください。
ただ、質問を読んでもジャンルが広すぎて、どこから攻めていいのかつかめていないので、いくつか変化球を投げます。
Philosophy-subさんが気に入った(やりやすそうな)ものだけでいいので返してください。
①人力検索で質問者ゾンビが存在しうる可能性について
(質問者ゾンビの厳密な定義はお任せします)
②空はなぜに青いのですか?
(もちろん科学的検証は不要です)
③そもそも、この質問を見ているalpinixからは、質問の存在自体が客体です。alpinixに回答欄でこの質問の質問者であるPhilosophy-subさんの存在を証明してみせてください。
④「哲学と百科事典とをあわせると、最高の知性になる」とのことですが、なぜにそれが「論理学と百科事典とをあわせると、最高の知性になる」や「史学と百科事典とをあわせると、最高の知性になる」より有用であるのかを哲学を使って説明してみてください。
できれば③希望(笑)
1.なぜ解って頂かなくてはいけないのかそれが解らない。説明されたし
2.あなたの人生の目標とはなんなのか?またそれは今やっていることと本当に関係あることなのか?もしかしてやらなくてもいいことではないのか?説明されたし
3.何故国によって貧乏な国と豊かな国があるのか?
4.世界中のひとが飢えに苦しまないようにするにはどうしたらよいのか?
5.政治は本当にこの世のなかに必要か?もし必要だとしたらそれはどのような政治形態が一番人々を幸せにできる形態化?
> それで思ったことは、「哲学と百科事典とをあわせると、最高の知性になる」ということです。
> 帰納的な(具体から根本へさかのぼる)、または、演繹的な(根本から具体へ敷衍する)、正確な思考ができます。
文意から判断するに、11回答者:alpinixさんの指摘通り「哲学=論理」と意味付けて「――と百科事典とをあわせると」と表現されているようですね。
現在の僕は、『哲学とは、思考を表現する芸術である』という考えに達しています。「哲学⊃論理」ですね。言語論理を用いて思考を表現する芸術。
言語論理と違う代表的なものは数学論理。一例を挙げればユークリッド原論。最初に『定義・公理・公準』を共有しあい、その上で論理展開、華麗な数学世界が展開されています。
この点、言語論理は数学論理と違い『定義・公理・公準』の共有が難しい。言語は自然発生的に発展してきたもので、要は言語表現種々を『了解しあう・了解しあえない・とりあえず保留』というような形で流通しているものに過ぎないのです。『好き・嫌い』という判断も個々で違えば、『納得できる・できない』の閾値も個々で違っていて当り前と言えば当り前。
論理を成立させている土台に『人間という生物が持っている心・感情・精神』があり、これらを他とやりとりする中の一つに言語論理表現があり、定義を了解した上での数学論理表現があり、美術表現があり、音楽表現があり、メディア表現があり、身体表現があり、ほぼエンドレスともいえる他のさまざまな表現があるわけです。
こういう考え方に僕は立つようになりました。
> 私としては、西洋哲学がいかによく、有益なものか、日々の議論の中でわかって頂きたいのです。
数千年の歴史を持つ西洋哲学の持つ(言語)論理構造、ギリシャ語やラテン語を元にしたものが多い造語による新概念の共有がありますからね。
日本は文明開化後、必死こいて訳語を創りだし、東洋思想に似たような概念があればそれを流用し、そして主に『研究者向けの翻訳』、原書・辞書・翻訳書の3点で1セットだった歴史が長かったのでしょう。
日本語で意味が通じやすいような文法表現は敢えて使わず、翻訳は原書との対比がしやすいように直訳が原則。だから門外漢がちょいと興味を持って読んでみようかと一念発起、「それなら超有名な大哲学書からだな! うひひ」と読み始めて2ページ目、「……。なんだよ、これ……。読みづれぇ。日本語になってねぇじゃねえか」と挫折するのが当り前なんでしょうねぇ。
こういう経験を持ってしまった方々に西洋哲学の面白さを伝えるためには、「日本語文法に則した言語表現」をする必要があり、かつまた、想定する相手に納得してもらいやすい『例え話』を交えるのが良策だと、僕は思っています。
「言葉の意味を伝えるために言葉を用いる」という、どこまで行っても言葉による説明が終わらない構造から抜け出すためには、数学論理的必然性ばかりではなく、「相手が納得しやすい例え話」を行なうことで説明を終えることが可能だからです。というかこっちが本線でしょう。
では×2 質問を3つ。
①人生はどんなものですか。(id:nobnob3さんと類似)
②あなたがもし死んでしまったら、あなたは死んだあとどうなりますか?
③地球は、どうしてうまれたのか。
どうしてとどうやってうまれたのか(科学的)
私は、②の質問が一番難しいかと・・・
又、哲学的な質問の答えを考える時は、友達や家族のかたと考えるととても面白いですよ。
三つありますが、どれかで良いです。(時間があれば全部)宜しくお願いします。
昨今のスピリチュアルブームについてお考えをお聞かせ下さい。
「自分が変われば世界が変わる」
認知が変わればその人にとっての世界は変わったといえるでしょう。
しかし、現実の問題(親しい人との死別や病気や借金等)は変化しません。
「パワーストーン」「パワースポット」
きれいな石を見れば気分がいいし、
自分の話を聞いたうえで世界で一つのブレスレットを作ってくれたならなおさらうれしいでしょう。
風光明媚で体力に応じた静かな場所は気持ちが落ち着きます。
それを「パワー」や「波動」といったキーワードで納得させて、サービスや物品の売買をするのは納得がいきません。
一昔前の霊感商法と似たものを感じます。(そこまで脅迫ではありませんが、良くも悪くも洗練されているのです)
現実的な対処で解決できるはずの問題が
スピリチュアルの世界だと個人の意識の変容で解決されるように錯覚させられるという風潮は健全に思えないのです。
哲学を体系的に学び、
日々の鍛錬と的確な認知は必要な音楽の道に当初進学されたということから身体性の重要さを認識されているであろう質問者様は、如何様にとらえているのかをお願いします。
1.小学生「哲学ってなに」?
2.哲学の経典とも言える、ソクラテス、プラトン、アリストテレス。彼らの残した言葉やテキストの真贋を哲学で解き明かすことはついに不可能でした。コンピューターによる形態素解析の結果を元に真偽判定をなされている状態と聞きます。これを哲学の敗北と考えますか?
3.人類は次の100年をどうやって生き延びられるか?
How can the human race survive the next hundred years?
In a world that is in chaos politically, socially and environmentally, how can the human race sustain another 100 years?
おいそれと参加してみよう。
というわけで、質問です。
問:キリスト教、イスラム教、仏教、その他宗教の開祖(キリストとかアッラーとかブッダとか)に対してあなたが何かを語りかけるとしたら何を語りかけますか?そしてねぜそれを語りかけようと思ったのですか?
思いのほか、多くのご質問がありました。とてもうれしいのですが、誠実に返信していきたいので、一つ一つ、返信していきたいと思います。ご回答者各位におかれては、お待ちになることになりますが、ご辛抱を願います。
「人はどのように生きるべきか?」
このご質問は、学問・学術としては、哲学の範疇ではなく、「幸福論」とか「価値論」と呼ばれる種類の質問で、これらは、美学や、倫理学などのような「価値を生産する」という面を持つ学問の範疇です。哲学の目的は、価値を生産することではなく、真の命題(命題とは、論理学の用語で、「(一個の)言明」、つまり、一個の「~は~する」という形式で表現できる、それが真か偽かの論理計算の対象となる、一つの事態をさす式(原子式)です)を、生産することです。
しかし、これら、美学・倫理学は、「広い意味で」の、哲学という学問に、入ります。例えば、哲学科の学生が、学位論文に「人はどのように生きるべきか」という主題を選んだとしても、その人は哲学の学位を取得できます(ただし、そのような主題を選ぼうとしたら、先生に制止されます)。なぜならば、日本の大学制度は、アリストテレス流の university 制度を採用していますので、ある議論が、哲学的な(その学問そのものの根本的な命題を問うたり、その命題の真偽――正確には無矛盾性――を疑わざるをえないような)水準に達していれば、それは哲学です。
ですから、有名な話ですが、もっとも重要な種類の学位である、「博士」――はくし。「はくし」と音読みするということは、それが外来の(昔において代表的な「外国」であった中国の)形式にのっとったものであるということです――は、博士(音楽)とか、博士(工学)などといいますが、西洋の University が与える博士号は、すべて Ph. D (ピー・エイチ・ディー、哲学博士)です。ただし、通常の学問・学術が「知ること」を目的とするのに対して、医学・歯学・薬学・獣医学などは、「知ること」ではなく、「健康にすること・生かすこと」を目的とする、いわゆる「実学」ですから、Ph. D ではなく、ただの D、Dr. (ディー、ドクター)です。
しかし、大学では、美学研究室や、倫理学研究室は、哲学研究室から、独立して、構成員を異にして、存在します。また、先生の職名や、授業のタイトルなどでも、哲学と、美学や、倫理学とは、完全に別ものとして扱われます。
ここに「何々学」と「何々論」と言いました。これらは、いわゆる「層」(メタ-被メタ)のちがいです。「何々論」は、「何々学」の中の、一つの議論の領域として考えられます。たとえば、哲学の一領域として、「存在論」というものがあります。これは、「存在(する)ということをどのように定義すべきか」、とか、ある主張が「存在とはどういうことか」という(明示的または暗示的な)論点を含んでいる、などといった事態を指し示すために使われる言葉です。使用法としては、たとえば、「それは存在論にすぎない」とか、「その当時、哲学は存在論だった」などのように、使われます。
さて、そのご質問を、広い意味での哲学のご質問としてとらえて、返信いたします。
言葉の定義から入らせていただきます。なぜなら、当然ながら、言葉の意味が人によって違うと、議論ができないからです。今回の場合は、「人」、「生きる」、そして、これが一番重要ですが、「べきt」です。「人」と「生きる」は、ここでは、自明(議論する前に定義されている)とします。このご質問において重要なのは、「べき」の定義の吟味です
「言葉は、文脈にしたがって、定義されなければなりません」。いま、「~なければなりません」と申しましたが、これが、「べき」という言葉で指し示される事態です。では、なぜ、言葉は(文脈によって)定義され「なければならない」のでしょうか。これは、学問という主体が、私たちに命令しているものだと言うことができます。同じ「人間」という言葉でも、哲学では human の意味になりますし、社会学では person(人物)で、政治学では individuals(個々人)、自然科学ではホモ・サピエンスという意味になります。学術という文脈があるわけです。また、「新しい」・“new”・”nouveau” という、日英仏で直訳される言葉でも、new には nouveau のような、「近/現代」という意味はありませんし、”nouveau” や ”new” には、「新しい」のような、「新品の」という意味はありません (You must speak with words or languages defined by someone)。
このように「べき」とは、「命令」によって発生する事態を表現するときに使われる言葉です。ですから、実在論的にいえば、命令「する」(という形式において存在する)人、言語学的にいえば、命令「する」主語、あるいは、「述語論理学」でいえば、主体 subject を示す語が、ないところには、「べき」という言葉によって表現される事態は、起こりません。
なお、「べき」は、「形式的な」命令者をともなうだけで結構です。ですから、人間が命令することもできますし、数学的の公理などでも結構です。あるいは、路端の小石が命令するのでも結構です。とにかく、「動詞 V」に対する、「主体 S」であれば、結構です。たとえば、「ペンがある」 という場合、S は、省略された「私」です。また、"there is a pen" では、”there そこ" が主体です(そこ there が、あるペン a pen に対して、存在せよ be と命令しています)。
さて、人は、なにかに命令されて生きているのでしょうか。
例えば、ネイティブのイスラム(生まれつきイスラム教徒であること)であれば、アラー、アル・ムハンマド、コーランをはじめとするキターブ、諸ハディスなどが、命令者としてふるまいます。また、無神論者であれば、命令者は自己 itself でであることが多いでしょう。
このように、「自分が自分に命令している」という、自己言及的な行動のしかたは、可能です。それどころか、精神科学においては、人はみな、「自分が自分に命令する。そこには自分しかいない」という時代を経て、「他人が自分に命令する」おとなになります。これを、"subjection 主体になる" といいます(subject は、sub-j(e)、つまり「(命令に対して)服従する sub、人 j (=i) (注1)」になるということです。
発達心理学(フロイト派)において、人の、赤ちゃんの時の一時期を、「自他未分」と言います。自他未分とは、自己 id (イド、のちの I Do) と、他(自己でないもの、it, I (am) TO (for))とを、区別しない、という認識上の原理を持っているということです。たとえば、赤ちゃんは、おとなの言葉でいうところの、「ある人が持っていた石ころがその人の手から落ちる」というできごとを「見る」とき、その赤ちゃんの認識は、「私が石ころを上から下に移動させた」のようになります。また、母親からミルクをもらうときも、「私が、これ(母親のおっぱい)をして、私に対して、ミルクを与えさしめた」のように考えます。この場合の「私」は (id→)it であって、「形式的な主語」です。なぜなら、主体は自己しか存在しないのだから、主語である言葉で特定するまでもなく、id=it=I なのです。
このような、各種の「人称」がどのように形成されてきたかについて知ることは、言語学や比較言語学はもちろん、哲学の中の非常に重要な分野である「認識論」(認識はどういうシステムになっているのか、とか、認識されるものと認識するものとは、どのような関係にあるか、などを論じる分野)や、精神分析・精神医学などを中心として、非常に多分野の方にとって、興味深く、有益なものだと思われますので、一段落だけ、続けておきます。
上に書いたとおり、「私」は、西洋諸語の、多くの言葉の主要な起源の一つであるラテン語では、id です。ラテン語では、さまざまな言葉に、非常に詳細で、しかも重複しない、「格変化」(その文章の中で、その言葉がどのようにふるまうか定めるための語形変化)があります。デカルトの時代までは、すでに死語であったにもかかわらず、学問・学術における書き言葉としてラテン語が使われていたのは、このためです。言葉の各変化を見ただけで、多くの意味が読み取れて、しかも、一義的なので、不完全な文法知識や、解釈を異にする人の間などで、どのように読んでも、同じ意味にしかならないから(完全なコミュニケーションが簡単にできるから)です。また、イタリア語と同じで、だれにでも発音できる、普遍的な音韻のみで読まれるということも一因です。がたとえば、日本語の「○行○段変化」などと言われるものが、詳細かつ一義的になったものです。たとえば、日本語で「私は」と言う場合、素朴に主語としての「私」であることもあれば、「他の誰でもないところの私」という意味を合わせ持つこともあります。しかし、ラテン語の idは、「私が/は i-d」という、一義しかありません。記号学的にも、ラテン文字の “j” (フランス語では je ジュとして、「私が/は」)は、「”i” の棒を長くのばしたもの」で、j や i で構成された単語は、同じような意味を持つことが多いです。また、”Y” は、”I” の上半分を二つにわけたもので、やはり、Y や y は、I や、i や、jと、入れ替わることがあります。
本題に戻りましょう。このように、普遍的な意味での「人は何々すべき」の「何々」は、「宗教」をはじめとして、「法」、父母をはじめとする「先祖」、子をはじめとする「子孫」、あるいは「社会的な利害」などです。上に書いたとおり、「自己」でもよいのです。これは、英文法を考えてみると、わかりやすいです。"There is (a) pen." という場合、命令者は "there" で、被命令者は "pen" です。
共通して言えることは、「命令者」は、命令「する」のですから、動詞が修飾する対象、つまり、「主体 subject (S)」であって、かつ、「精神」という面をもつものでなければなりません。ただし、ここで注意されるべきことは、「精神」は「心」ではない、ということです。心は、脳幹を含む「体 からだ」を座とするものです。しかし、精神は、もっと広い概念(idea、イデア、意味の集合)で、たとえば、地球も、精神を持つと言えます(精神を持つものとしての地球は、「ガイア」と呼ばれますね)。もちろん、石ころにも、精神はあります。「精神がある」というのは、「変化が自由である」という事態を指します。普通、「石ころに精神はない」というのは、石ころが、物質的に固定的なものであるために、そこに変化がなく、したがって、自由度が低く、精神の「度合い」が限りなく「弱い」ということを示します。
したがって、「人 human はどのように how 生きる live べき must か ?」は、「その人にとってのその場合の命令者はなにか」ということで決まります。その命令者が人格を持つ場合、それは一般に「神」とか「仏」とか呼ばれます。また、その命令者が制度である場合、それは「法」と呼ばれます。
では、There is (a) pen. という場合、pen に対して命令するものは何でしょうか? その何かによって、命令(動詞)が決まります。目的語が(人格を持たない)モノであるばあい、その命令は be です。
あなたは、"(How do) I LIVE?" と言っています。命令は、"live"、つまり、生きることです。子を育てるのも生きることですし、愛することも生きることの一部です。
結論:「人間はどう生きるべきか?」の答えは、「人間に命令すべき者が言うように生きるべきである」だと考えます。
「神は実在しますか?」
「神」とは、「超越者」の一種です。超越者とは、「人間を超越」した精神を持つ、人格のことです。
さて、よく、「神は心にある」と言われます。私は、これは、間違いであると思います。なぜなら、神は、(人間に対して)「超越」者なのだから、定義上、人間の有限性の内部に存在することはできないからです。言いかえると、「人間の内部におさまらない」ことが、神の定義です。ただし、神の「一部分」が、人間の中に存在することはできます。しかし、「神の『一部分』」を、「神である」と言えるでしょうか? 私は、そうは考えません。なぜなら、それは、すでに人間そのものだからです。
このように、最新の哲学である、いわゆる「現代哲学」では、「神」の定義は、「人間の外部への、人間による、人間自身の投射」です。
では、神は、人間の外部に、存在するでしょうか? わたしは、そうも考えません。なぜなら、人は、あらゆるものに「名前」をつけることによって、ものごとを抽象化して、無限に複雑な自然を、(ブラックボックスであり、思考停止ではあっても)把握できる状態にすることによってのみ、思考できるからです。たとえば、ガイアが神であると仮定した場合、それは、自然科学的に表現できる、「精神としての地球」です。それには、「地球の精神」という、「名前」がついています。
名前がつけられているということは、それが「自然科学的に」扱われている、ということです。人が、何かを名前で呼んだとたんに、それは、自然科学的な「モノ」に化します。一方で、定義上、神は、自然科学的な存在ではありません。ですから、名前を持つことはできません。ですから、私たちが、何かに「神」という名前をつけたとたんに、それは、ゼロ時間後に、神ではなくなります。
一般的な論理で考えれば、「神」は実在します。なぜなら、人間は「神」という言葉を知っているからです。言葉で言えるということは、実在するということです。
それとは逆に、言葉によって指し示されるものであっても、間主観的に(主観と主観との間、人と人との間で)共通したものとして認識 (common sensed) されないものは存在しない、と規定する場合は、その規定する精神もまた、間主観的に認識されないという理由によって、主張する主観自体が非存在になってしまいます。また、その場合、たとえば、ある「色」とか、ある「匂い」などに代表されるような、生物によっては認識することができない(つまり、普遍的ではない)「質」((ある)質の性質 quality → 質 qualia) や、「法」、「倫理」、「真理値」(真/偽)、「ヒューマニティー」といった、明らかに、人の生活や思考が、存在することを前提しなければ崩壊してしまう(でなければ、虚無の淵に落ちてしまう)ものごとが、非存在になってしまいます。これは、いわゆる「ニヒリズム」(虚無主義)です。
もし、あなた様がニヒリストであれば、「神は実在しない」という主張をすることが可能です。しかし、この場合、あなた様自身の、「主張する『精神』」も存在しないという、矛盾をかかえることになります。これは、古代ギリシャの原子論にはじまり、ニーチェが本格的に確立し、現代でも有効な、論です。しかし、上記のような致命的・論的な矛盾と、「そう言ってしまったら『何ものも存在しない』という一言でかたがついてしまう」という、ある種の非生産性から、通常、哲学者は、採ることが「できない」状態になっているようです。
結論ですが、
論理的、または自然科学的には、神は、実在します。なぜなら、神の存在を前提としない論理や自然科学は、つねに矛盾をもつからです。論理であれば「形式 format」が崩壊してしまいますし、自然科学であれば「宇宙 universe」(特に、その始まり("Big Bang" や「熱力学的特異点」などのかたちで知られます))が崩壊します。
しかし、第一に、「神は存在する」という文自体が、自然科学的には(「実在論的には」)矛盾しています。なぜなら、「神」という「名前」を使って、定義上無限であるはずの神を、有限の世界に押し込めてしまっているからです。
第二に、神の性質を認識することはできません。人にとって、神に与えることができる述語(「神」を修飾できる言葉)述語 (V) は、普遍的には、ただ「存在する be」と「(何かを、または全てを)する do」だけです。
以上のように考えます。
反論を歓迎いたします。ぜひ、ご批判を願います。