実存主義者である、ハイデッカーやサルトルも、文献によれば現象学の部類に入っています。

彼らの説のどの部分が、現象学なのでしょうか?

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id:jo_30 No.1

jo_30回答回数655ベストアンサー獲得回数532011/03/25 00:33:47

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(※私も、決して専門家ではなく、あくまで仕事の必要上かじった知識に過ぎないので、非常におおざっぱな説明になりますことをお許しください。)



さて「我思う故に我有り」という言葉は御存知でしょう。

全てを疑う「方法的懐疑」によって近代的哲学を、さらには近代という時代を開いた哲学者・思想家デカルトの言葉です。



「存在」とは何か、「(何かが)在る」とはどういうことか、という問い(=存在論)は、古くから哲学の世界のもっとも中心的な問題であったわけですが、その「存在論」の系譜の中で、デカルトは、「存在」の定義において超越者や絶対者は無意味である、という考えを持ち込んだわけです。その代わりに彼が発見したのは「私」でした。世界は神から始まるのではない、すべては「今ここにいる私」から始まるのだ……そんな彼のアイデアは、中世という神の時代を終わらせるに足る、とびきりの危険思想でした。近代における「存在論」は、ここに始まります。



時は下って、彼の考えの正しい継承者(あるいはデカルトをそのように意味づけた人というべきか)が、フッサールです。非常に極端に説明すれば、彼は、「存在」というものを、人間(この私)によって体験されるもの(現象)という方向で定義づけようとした人です。例を挙げて説明しましょう。

ここに一つのコップがある、とします。このコップは本当に「存在」しているのでしょうか?……古来からいろいろな人が「ある」ということをいろいろなやり方で「証明」しようとしました。物質とか、イデアとか、なかにはひねくれて「実はコップは『ない』」ことを「証明」しようとした人もいました。それらに対してフッサールは、非常にシンプルな答えを提示したわけです。

 「目を閉じて、『コップはない、コップはない……』と心から10回唱えて、目を開けて、さてコップは消えていますか?

当たり前ですが、誰かが持ち去らない限りコップは消えたりはしないでしょう。コップは私たちの「思い」とは無関係に、私たちにとって「存在」であることをやめません。

「果たしてコップは本当に在るのか」という問いは、ここでは無意味です。なぜなら、それが「本当に在ろうが無かろうが、それは人間の「知」を越えたところにある」ことは明白だからです。私たち人間にとっての「本当」とは、結局のところ、コップが私たちの思いとは無関係であることそのものの中にあるのです。私たちの願いや思惑がどうあれ、コップがそこにある、と、私たちは常に感じ続けますし、その「感じ」を否定することはできません。その体験…すなわち、コップという「現象」を体験することこそが、「存在」という言葉の意味なのだ、と、フッサールは考えました。「現象学」という言葉は、様々に定義づけられますが、「存在」を「現象」という切り口で考えようとしたこのようなフッサールの考え方を「現象学」と呼ぶのは、その主要な定義の一つです。



さて、話が長くなりましたが、このあと、これらフッサールのいわば観念的な仕事を批判的に継承しつつ、これを現実に着地させよう、この世界における我々自身という「存在」の在り方の検証に使えるように改良しよう(これも随分乱暴な説明ですが)とする人たちが現れました。「時間」との関連を含めて、世界の中における我々=「存在」の意味を明らかにしようとしたハイデガー、そして、我々=「存在」の在り方そのものが「存在」を規定すると考えたサルトルです。彼らが切り開いた「存在」論の新しい地平は、のちに「実存主義」と呼ばれる思想潮流を生み出しますが、彼らの仕事の出発点は、間違いなく「存在」を「この私」という視点から見るというアイデア……すなわち、デカルトからフッサールへと導かれた「存在論的現象学」の流れの中にあり、その意味において彼らを「現象学の哲学者」と呼ぶのは妥当だということなのです。

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