現代思想は、存在するものを、それをあらわす現われの連鎖に、還元することによって、いちじるしい進歩をとげた。それによって、哲学を悩ましているさまざまの二元論を克服し、これにかえるに現象の一元論をもってしようというのが、その狙いであった。
と、あるのですが、これはどういう意味なのでしょうか?
主にフッサールの現象学もしくはハイデガーの現象学的な存在分析http://www.geocities.jp/ittokutomano/sein.htmlのことを指していると思います。
サルトルにとって「現代思想」とは、存在をそれが意識に現れるままに「現象」として記述することで、抽象的な観念論や唯物論などの古い思考法(二元論)から脱皮できたという意味ではないでしょうか。
サルトルはレーモン・アロンから現象学の洗礼をうけており、「存在と無」もその影響下で著されているはずです。
この場合の二元論は、「即自存在」と「対自存在」のことを指すんではないでしょうか。そして、現象の一元論が、「実存は本質に先立つ」という実存主義。二元論を克服するというのは、あくまでサルトルの立場であって、より優れた理論というわけではないと思います。個人的に、サルトルを信仰すると、とにかく理想が先立って現実が見れない、という偏見を持っています。
>これはどういう意味なのでしょうか?
人力が再編集できるようになったんですね。もうすこし追加してみました。
現代思想は、あらゆる存在を、人間とかかわることで、意味をあきらかにでき、
著しい進歩をとげた。
中世の神学では、「神が人間を創造した」といったようなキリスト教的な人間観から、
神と人間を分離して真理を解き明かそうとしてきた。
また、近代哲学では、「我思う、ゆえに我あり」といったデカルトのように、
精神(私)と物体(私以外の物)を分離して世界を解き明かそうとしてきた。
しかし、このような二元論は、けっきょく真理や世界の存在を明かにしようと
してきたにすぎなかった。
この悩ましい問題をどう解決したらいいか。現実に存在している人間をみつめて、
解き明かそうという目的があった。
一言でいうと、キルケゴールにはじまる実存主義は、旧来の二元論を克服することで、
現代思想に大きな進展をもたらした。ということではないでしょうか。
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