古事記の下記文章は私に次のように読めます。 みそぎ祓いで、左目の穢れが天照大神になり、右目の穢れが月読命になり、鼻の穴の穢れが須佐之男命になり、この3つ穢れから生じた3人を貴い子と呼んでいる。 当時は、皮膚についた汚れや垢、目や鼻に入った汚れ、肛門から排出される穢れが、祓いで、貴く清浄なものに変化するという考えがベースにあったのでしょうか。

色々な祭儀・神祇では、[みそぎ・禊]は、汚れや穢れの排除・除去のことではなくて、汚れや穢れの清浄な貴い面を表に出させることなのでしょうか。
逆に言えば、汚れや穢れがないと、清浄な貴いものは生まれないと考えていたのでしょうか。
神祇でも、和魂、荒魂は同じもので一方だけが存在することはないとみているようです。 穢れと貴さ清浄さもそのようなイメージだったのでしょうか。

伊邪那岐命、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而、禊祓也。
於是洗 左御目時、所成神名、天照大神。
次洗 右御目時、所成神名、月讀命。
次洗 御鼻時、所成神名、建速須佐之男命。
此時伊邪那岐命、大歡喜詔、
吾者生生子而、於生終得三貴子、

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  • 登録:2011/06/28 11:18:27
  • 終了:2011/07/03 17:01:36

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id:matsunaga No.3

松永英明@ことのは回答回数536ベストアンサー獲得回数872011/06/29 21:46:04

ポイント140pt

三貴神が生まれる禊ぎの前にも、多くの神々が生まれていますね。さらに、アマテラスとスサノオの「禊ぎ合戦」でも、禊ぎによって落とされた穢れから神々が生まれています。

一方で、黄泉において死体となっていたイザナミに生まれた雷や黄泉醜女などはあくまでも穢れとして扱われています。つまり、穢れは穢れとして認識されていたと思われます。

そこで考えられるのは、「祓い」という行為を経て生じたものは清浄なるものとして扱われる、という思考回路ではないかと思います。現代の感覚だと、「汚いものをそぎ落とすことで、汚くなくなる(つまりマイナスをマイナスすることでゼロになる)」ということになるかと思うのですが、「汚れた総体に禊ぎという変成プロセスを与えることで、全体が浄められる」→禊ぎの過程で生まれたものもやはり浄められている、ということになるんじゃないでしょうか。


そして、これは必ずしも「浄めには不浄が必要」という意味ではなく、たとえば国生み神話ではヒルコを除いて不浄と関係なく国土が生まれています。


荒魂・和魂(幸魂・奇魂)は、それぞれ別のものというのではなく、同じ一つの霊における「別の側面」ととらえられると思います。したがって、荒魂・和魂というのが相互依存的に「存在」するというよりは、単純に「表と裏」くらいの関係であろうかと思います。仏教的には、通常の如来と憤怒形の明王が「同じものだが、別の現れ方をしている」というように解説することがありますが、それと共通する見方だろうと思われます。


余談ですが、km1981さんのオフトピに絡めて言いますと、私は高天原=九州北部、天照大神=卑弥呼+台与説で、その中でも特にアマテラス神話が極めて弥生文化的(大罪が農耕におけるタブーである)という点に注目しています。私は弥生人=長江下流域の江南水稲耕作文化民が朝鮮半島南端を経て対馬海峡・北九州にたどり着いた人々、と考えています。

id:hathi

「祓い」という行為を経て生じたものは清浄なるものとして扱われると思います。

ただ、イザナギが清浄になるのではなくて、穢れが清浄な神に変わるのではないかと思います。

 

荒魂・和魂(幸魂・奇魂)は単純に「表と裏」くらいの関係ですが、別体で同時にも存在しうるというどうも不思議な状態で祭祀されています。

 

不思議なのはスサノオで、黄泉から戻っても禊ぎをしません。高天原で穢れの行為をしますが須佐之男も周りの神?も禊ぎをしません。単に須佐之男を罰したり、だだをこねて閉じこもった天照対策をしているだけのようです。 黄泉にいった穢れ、馬やくそ、織女の死の穢れは問題にならないのですかね。

 

古事記の記述に対応する古代の勢力関係や史実があるかどうかは、現在の関心事ではなくて、古代(といっても、古事記や日本書紀を編纂した当時)の穢れと神の関係についての、人々の理解はどんなものかに関心があるだけです。

この「穢れ」は、朝鮮や中国、インド、メソポタミア、エジプト、ギリシャローマの穢れとは違う、特殊なイメージらしいので、気にしています。

 

なにか参考になる論文やwebサイト、言い伝えなどありましたら、お教えいただければ幸いです。

2011/07/01 22:41:27

その他の回答(3件)

id:suppadv No.1

suppadv回答回数3552ベストアンサー獲得回数2682011/06/28 21:00:40

ポイント78pt

私は単純に、見ると嗅ぐという感覚の重要さから、右目と左目、鼻だと思っていました。

禊という考え方での理解は面白い考え方ですね。

力太郎は、爺さん婆さんの垢から生まれたことになっていますね。

その点からもそのような考え方もあったのかもしれないと思いました。

id:km1981 No.2

km1981回答回数429ベストアンサー獲得回数492011/06/29 12:05:20

ポイント38pt

伊邪那伎はケガれた国を訪れたことから禊ぎをするのですが、これは、当時の日本の支配者たちが覇権を争った史実を浄化し、その結果に生まれたのが天照大神ということを強調するために作られた話だと思います

id:matsunaga No.3

松永英明@ことのは回答回数536ベストアンサー獲得回数872011/06/29 21:46:04ここでベストアンサー

ポイント140pt

三貴神が生まれる禊ぎの前にも、多くの神々が生まれていますね。さらに、アマテラスとスサノオの「禊ぎ合戦」でも、禊ぎによって落とされた穢れから神々が生まれています。

一方で、黄泉において死体となっていたイザナミに生まれた雷や黄泉醜女などはあくまでも穢れとして扱われています。つまり、穢れは穢れとして認識されていたと思われます。

そこで考えられるのは、「祓い」という行為を経て生じたものは清浄なるものとして扱われる、という思考回路ではないかと思います。現代の感覚だと、「汚いものをそぎ落とすことで、汚くなくなる(つまりマイナスをマイナスすることでゼロになる)」ということになるかと思うのですが、「汚れた総体に禊ぎという変成プロセスを与えることで、全体が浄められる」→禊ぎの過程で生まれたものもやはり浄められている、ということになるんじゃないでしょうか。


そして、これは必ずしも「浄めには不浄が必要」という意味ではなく、たとえば国生み神話ではヒルコを除いて不浄と関係なく国土が生まれています。


荒魂・和魂(幸魂・奇魂)は、それぞれ別のものというのではなく、同じ一つの霊における「別の側面」ととらえられると思います。したがって、荒魂・和魂というのが相互依存的に「存在」するというよりは、単純に「表と裏」くらいの関係であろうかと思います。仏教的には、通常の如来と憤怒形の明王が「同じものだが、別の現れ方をしている」というように解説することがありますが、それと共通する見方だろうと思われます。


余談ですが、km1981さんのオフトピに絡めて言いますと、私は高天原=九州北部、天照大神=卑弥呼+台与説で、その中でも特にアマテラス神話が極めて弥生文化的(大罪が農耕におけるタブーである)という点に注目しています。私は弥生人=長江下流域の江南水稲耕作文化民が朝鮮半島南端を経て対馬海峡・北九州にたどり着いた人々、と考えています。

id:hathi

「祓い」という行為を経て生じたものは清浄なるものとして扱われると思います。

ただ、イザナギが清浄になるのではなくて、穢れが清浄な神に変わるのではないかと思います。

 

荒魂・和魂(幸魂・奇魂)は単純に「表と裏」くらいの関係ですが、別体で同時にも存在しうるというどうも不思議な状態で祭祀されています。

 

不思議なのはスサノオで、黄泉から戻っても禊ぎをしません。高天原で穢れの行為をしますが須佐之男も周りの神?も禊ぎをしません。単に須佐之男を罰したり、だだをこねて閉じこもった天照対策をしているだけのようです。 黄泉にいった穢れ、馬やくそ、織女の死の穢れは問題にならないのですかね。

 

古事記の記述に対応する古代の勢力関係や史実があるかどうかは、現在の関心事ではなくて、古代(といっても、古事記や日本書紀を編纂した当時)の穢れと神の関係についての、人々の理解はどんなものかに関心があるだけです。

この「穢れ」は、朝鮮や中国、インド、メソポタミア、エジプト、ギリシャローマの穢れとは違う、特殊なイメージらしいので、気にしています。

 

なにか参考になる論文やwebサイト、言い伝えなどありましたら、お教えいただければ幸いです。

2011/07/01 22:41:27
id:Hyperion64 No.4

Hyperion64回答回数791ベストアンサー獲得回数842011/07/01 18:06:17

ポイント113pt

 引用されている部分は、黄泉の国から帰還した伊邪那岐命が、穢れを清めることで神々が化成する重要な場面です。また、禊の起原と元型の神話として認識されています。

 かといって、禊で洗い落とされた汚れや垢が神に変化したというより、洗い落として元の状態に戻すという行為が神に化成したと考えたいです。

 それをもう少し説明します。

 ここでの穢れとは黄泉の国の穢れを両目で見た、鼻はその穢れを鼻で嗅いだからだと解釈されています。(西郷信綱等)

穢れとは気枯れと言いかえらるように、本来充実していたものが、損なわれた

状態になったことでしょう。禊は損なわれた状態を本来の満ち足りて

清浄な姿に戻すための行為だろうと思います。伊邪那岐の貴いお顔が

本来の姿にもどったことで三貴子が群生したのであろうと思います。

 これを古代人の身体感に即して言い換えると、身体はもともと清浄なものなので、汚れや垢は川の水で洗い清めれば、きれいサッパリもとに戻る。なんのあとも残らないし、元気が取り戻せる。だから仕事が終わって疲れたら、毎日お風呂や水浴びをするのが一番だ。


古事記注釈〈第1巻〉 (ちくま学芸文庫)

古事記注釈〈第1巻〉 (ちくま学芸文庫)

id:hathi

禊は損なわれた状態を本来の満ち足りて清浄な姿に戻すための行為だろうと考えるなら、三貴子が生まれることはないですね。(戻る・旧に復するだけですから)洗い清めれば、きれいサッパリしたら、別の神が生まれるのでは、その神はなにかということになります。

 

穢れとは気枯れと言いかえ、本来充実していたものが、損なわれた状態になったこととだけ考えたのでは、禊ぎの結果貴子が生まれることと整合しなくなります。

 

禊ぎをするとなぜ神が生まれるのかは、穢れが変成するようなことをイメージしないと理解できないと思います。

 

穢れを単なる状況を示す言葉だと理解しているのが、間違いの元ではないかと思います。 穢れは実態そのものと考えた方が良さそうに思います。 キツネ憑きも単なる心理状況ではなくて、キツネが憑依するのですから、黄泉にいくと穢れが付いてしまうのですが、それを禊ぎすることで、穢れが神に変わるのではないかと思います。

2011/07/01 22:10:29
  • id:Hyperion64
     コメントありがとうございます。
    須佐之男命も月詠命も個人的に興味がつきない神です。なので少しだけ弁明しておきます。
    たしかに、穢そのものが変じて神になった、そんな神もあります。この前段で出てくる「八十禍津日神」と「大禍津日神」は、原文にもありますよね。
    「この二柱の神はその穢繁国に至りし時の汚れに因りて成れる神なり」
    つまり、実体としての汚れが神になったとしているのです。
    その直後には、
    「次にその禍を直さむとして、成れる神の名は、神直日毘神。大直毘神、次に伊豆能売神」とあり、この三神は禍が直されて化成した神です。でも「禍」そのものではない書き振りです。

     さらに、それ以降のミソギから生じる神は、汚れそのものが神になったとは、言いにくいんじゃないかなと感じます。例えば、綿津見など安曇の祖神、住吉三神は水との交わりによって化成したような感じですし。
     まして、三貴子が洗い流された垢や汚れそのものとするのは、ちょっと気の毒だと思うのです。足し算引き算で神々が「垢」や「汚れ」とするのは、「八十禍津日神」と「大禍津日神」までで、あとは日本的にうやむやなのではないでしょうか?
     なので、わたしは合理的な思考ではなく、発生を心情的に説明しようしたわけです。「ミソギ行為」の象徴として三貴子が生じたというように、です。調べた限りでは定説はなさげので勝手な思い込みです。

     以上 言葉が十分ではありませんが、補足です。
  • id:hathi
    重ねてのご回答をいただき、ありがとうございます。
     
    http://www.umoregi.com/koten/kojiki/story.html?v=1&n=23
    http://homepage1.nifty.com/o-mino/page241.html
    http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98/%E4%B8%8A%E5%8D%B7
    古事記の原文をwebでコピーすると下記のようです。 『伊邪那岐命の其御身所を滌ったので(因りて)で14の神が生まれた』 八十禍津日神、神直毘神、底津綿津見神、底筒之男命、天照大御神、月讀命、建速須佐之男命も、伊邪那岐命の身体洗浄の結果生じ、14神が生じたあとで、「吾者生生子而。於生終得三貴子」伊邪那岐命が喜んでいるので、14の神は伊邪那岐命とは別の子ですし、一人も消えてなくなるようなことにはなっていません。
    最後の3神を三貴子としていますが、伊邪那岐命の身体の洗浄と明言していること、身体の各部が汚れていたので順番に洗ったこと、その洗浄の前に汚れた衣服や持ち物を捨てて神々が生まれている流れが、この短い段落の中で続いています。
    「汚れそのものが神になったとは、言いにくいんじゃないかな。ちょっと気の毒だ」「発生を心情的に説明しよう」というのはわかるんですが、この短い段落で、その中の書き表し方の類似性や最後のまとめを見ると、川の中で身体についていた穢れ(汚れ)を洗い流したときに14神全員が生まれたと見るしかないように思います。(【神直毘神、大直毘神、伊豆能賣神】の3神は、汚れ落とし垢すりの助っ人、ヘチマやスポンジ、石鹸のようなものあるいは伊邪那岐命が体を洗っている横でお祓いをしている巫・シャーマンのような人であって、汚れそのものから生まれたのではないかもしれません。しかし、因滌其御身所生者也ですから、なんとも、、、やはり、身体に付いていた汚穢垢などから生じた14の神という見方が、原文に忠実なような感じです。私なども全身が粉塵などで汚れると、衣服を洗濯機に入れ、頭から全身をシャワーで流し、手足をごしごし洗って、目や鼻、のど、耳の穴?をきれいにして、また全身を洗ってさっぱりします。神は出現しませんが)
    なんで汚れ物や穢れから神が出現する物語を古事記などに、そのような語りで収録しているのか。 神が出現する物語をもっと「(今の我々の感覚で)超自然的で神秘的な物語にする」ことをしなかった、そうするよりは、汚れを洗うと神になる物語の方が、当時の日本人には自然に感じられたのではないかと思います。
    古事記の成立は8世紀です。諸家に帝紀及び本辞(旧辞)が伝えられていて、その中でも穢れから神が出現する物語になっていたのかもしれません。 仏教の伝来が6世紀、8世紀以前に天皇家でも豪族貴族でも仏教を取り入れています。宇佐での祭祀も6世紀からやっていようです。日本の神祭りは人格神信仰というよりも、部族集落での豊穣祈願、災害回避、収穫祝いの傾向が強いようで。どこまで宗教がきちんと伝わったのか不明ですが、中国経由で仏教が伝わったときには、その教義も伝わったはずです。道教の思想にももまれてきたはずです。しかし、これを受け入れた日本側の社会は、ギリシャローマの神話の神とは違って、日本では風の神、雨の神、海の神、雷の神、水の神、山の神も、自然現象や山や川、海そのものを神と思っていた。そのような感覚は、荒魂・和魂という理解も簡単にしたでしょう。日本の禊ぎは、キリスト教を知っている今の我々の贖罪という言葉とは関係がないものです。 後世平安期に流行した忌み、陰陽道も、飛鳥時代・奈良時代の穢れも、かなり則物的であまり個人の精神性は問題にされていないと思います。 当時の日本では「穢れ」もそれ自体が実態のある神イメージと親和しやすかったような気がしているのです。 おもしろそうなことなので、しばらく関心をもって雑学アサリをしてみます。
     ~~~  ~~~  ~~~
    伊邪那岐命詔之「上游者湍急,下游者平緩」故初於中游淨滌御身,此所現之神二【八十禍津日神、大禍津日神】。此二禍神者到汚穢國時,因身著垢所成之神也。而為除前二神之禍,所現之神三【神直毘神、大直毘神、伊豆能賣神】坐也。次於水底滌時,所成神二【底津綿津見神、底筒之男命】。於水中滌時,有【中津綿津見神、中筒之男命】現。而【上津綿津見神、上筒之男命】二神者,乃於水面滌時所現神者。此三柱綿津見神者,阿曇連等所祭之祖神也,三神併稱綿津見大神。其阿曇連等者,綿津見大神之子宇都志日金拆命之子孫也。其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命,此三柱神併稱住吉三神,是乃墨江住吉神社所祀三前神,名「墨江之大神」也。
    方伊邪那岐命洗御左目所生之神【天照大御神】。次潔右御目時,現【月讀命】。再次,淨其御鼻之時所成神名【建速須佐之男命】。而上件八十禍津日神以下,建速須佐之男命以前十四柱神者,因滌其御身所生者也。

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