東寺の講堂での僧の活動

http://www.toji.or.jp/kodo.shtml
東寺の金堂に薬師如来(顕教)、講堂に立体曼荼羅状態の像(密教)があります。全焼後に短期間で講堂を再建した後、長期後の1603年に金堂が再建され、瑠璃光如来が祭られたのか、護国寺/真言宗のスタンスで、秀頼の意向をどうして受け入れたのかがわかりません。 講堂では空海の基本設計を踏襲して須弥壇が講堂一杯につくられています。上のURLの下の画像からうかがえるように僧が入れるスペースはごく狭いです。講堂は、密教に基づく真言呪を唱え、密教典を講読するだけなのでしょうか。 本尊に祈願し、呪法を行うだけでしょうか。瞑想や勤行で感得するだけなら講堂である必要はないでしょう。真言宗/東寺真言宗では、講堂の意味が違うのでしょうか。 『曼荼羅やほとけから学ぶ』ので『学校の講義室とは違います』との説明を受けました。私は「講堂」を宗教上の僧が集団学習を行うための「僧の集会所」であると理解していました。
 
観光事業が一般化する以前の、教王護国寺・東寺での僧の金堂・講堂の使い方がわかるものを、よろしくお願いします。

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id:meefla No.3

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②東寺での、9世紀中葉の僧の「金堂」「講堂」の使い方

Google books で読める 東寺沿革略誌 には、次のような記述があります。

(以下、リンク先ページの「PDF」リンクからダウンロードできるPDF版のページも併記します。最初の76ページは図版で、本文は77ページから始まります)


第五 歴代帝皇の鎮護国家の大祈祷(本文11ページ、PDF 89ページ)

淳和帝の天長年中、高祖大師勅に依りて、親しく導師となり、大師の長足実恵大徳は護摩壇師となり、真済大徳は十二天供師となり、真雅僧正は聖天供師となりて、帝威倍増、海内無事、五穀成就、万民豊楽の為めに講堂に道場を荘厳して、仁王護国の秘法を厳修し奉る。

この後にも、仁王護国の秘法が講堂で何回も行われたようです。

本文16ページ、PDF 94ページから、仁王護国の秘法以外の例として、孔雀経法が記載されています。

これは雨乞いや安産祈願の秘法のようで、神泉苑仁寿殿 など宮中で行われた他、東寺灌頂院や西院道場でも行われた、とあります。

しかし、孔雀経法が講堂で行われたという記載はありませんので、講堂は「真言一家不二の妙典」たる仁王護国の秘法を行うための場所であった、と考えられます。


⑤東寺での、16世紀前半の僧の「講堂」の使い方

上記「東寺沿革略誌」と同じく Google books で、さらに詳しい 東寺略史 では、本文257ページ(PDF 283ページ)から文明18年(1486年)の土一揆の記述になっています。

本文260ページ(PDF 286ページ)下段の記述によれば、文明2年9月以降、長者のなり手もなく、御影供すら行われていなかったようです。

御影供が再開されたのは延徳元年(1489年)の事で、御供物は延徳4年のものの四分の一だったそうです。

本文264ページ(PDF 290ページ)上段の記述によれば、大永4年(1524年)正月に、後柏原天皇から金堂再建の綸旨があったようですが、政情不安と財政困窮のため実現しなかったようです。

天文3年(1534年)に、空海の700回忌が行われていますが、場所は西院のようであり、これは例外的なイベントだったと思われます。(本文265ページ、PDF 291ページ)

というのも、本文270ページ(PDF 296ページ)上段の記述によれば、天文年間の後半(1543年ごろ)から天正年間の後半(1582年ごろ)まで約40年間にわたって、長者も職役も欠員のままであり、御影供も灌頂も行われていなかったからです。

堂宇の焼趾には草茫々として、狐狸の巣ふ所となり、

されば、此時東寺の衰微頽廃は、真に言語に絶し、空前絶後と云ふべきなり

要するに、土一揆で被害を受けた講堂は、かろうじて再建はされたものの、そこで何かを行うべき僧侶のほうが存在していなかった、という状況であったと考えます。

戦乱を逃れて、高野山に避難した僧もいたようです。


なお、真言宗そのものに関する成書を探して大手書店を当たってみましたが、通俗的なものはあっても、お勧めできるものは見つかりませんでした。

Google books の 秘密仏教史 の方が良いかもしれません。

PDF の227ページから、「真言宗の特殊相」という章があります。


ご参考になれば幸いです。

その他の回答2件)

id:meefla No.1

回答回数997ベストアンサー獲得回数472

ポイント100pt

この質問文だけでは意図を図りかねる部分がありましたので、OK Wave の 東寺の金堂の再建と薬師三尊像と真言宗の関係 も参照しつつ回答させていただきます。


1603年に金堂が再建される以前から、東寺金堂の本尊は薬師如来でした。823年に嵯峨天皇から空海に下賜された時点ですでに金堂は存在しており、そこには薬師如来が祀られていたわけです。

新版 古寺巡礼 京都|淡交社 の「第一巻 東寺」に収載されている梅原猛氏の巻頭エッセイ「立体曼荼羅の寺」から引用します。(9~10ページ)

 東寺の建設において空海がもっとも力を注いだのは講堂であろう。金堂はすでに薬師如来を本尊として完成していた。薬師如来は、桓武帝の時代のもっとも重要な問題である政治的犠牲者の怨霊の鎮魂に力を発揮する仏であった。現在の金堂の薬師如来像は桃山時代に造られたものであるが、空海が東寺を賜ったとき、すでに金堂には巨大な薬師如来像が存在していた。空海はこのような顕教による怨霊の鎮魂では不十分であり、密教によってのみ怨霊は鎮魂されるべきものであると考えた。それで空海は、講堂をかれの真言密教思想の表現の場所すなわち第二の金堂にしたのである。


顕教の薬師如来を本尊としている、という所に違和感をお持ちのようですが、そもそも一つの本尊を「尊ばれ崇められるべきもの」と考えるのは、真言宗的ではありません。

Wikipedia の 本尊 によれば、

日本では鎌倉仏教の時代に、日蓮によって以下の3つの意義を要件として教義とするようになる。(中略)これは、日蓮の最もライバルとして意識していたと思われる空海の興した真言宗への対抗意識のなせる業ともいわれている。

真言宗…中心的尊格は大日如来だが、各寺院の本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、不動明王などさまざまである。これは全ての仏は宇宙の真理の象徴であり、法身である大日如来が姿を変えて現われたものとする観念に基づくと思われる。東寺、神護寺、醍醐寺の本尊はいずれも薬師如来、金剛峯寺の本尊は阿閦(あしゅく)如来(薬師如来と同体とも)である。


また、東寺の平面図 を見ていただければお分かりになるでしょうが、東寺の伽藍配置は、金堂・講堂・食堂(じきどう)を南大門から北大門に至る直線上に置く「仏・法・僧」の配置になっています(菩薩道)。

つまり、食堂を含めてワンセットなわけです。(「堂」の原義は、神仏を祭る建物

この食堂の本尊は、千手観音でした。

Wikipedia の 千手観音 によれば、

日本での千手観音信仰の開始は古く、空海が正純密教を伝える以前、奈良時代から造像が行われていた。

ですので、密教の曼荼羅にも描かれてはいますが、顕教的な要素も少なくないと思われます。


空海あるいは真言宗が、他宗教に対して排他的なスタンスを取らなかったという事実は、東寺の敷地内、南大門の西側に八幡宮(神社)が存在している事からもわかるでしょう。

この八幡宮は、空海の時代からあるものです。

薬子の変の際、空海はここで嵯峨天皇勝利の祈祷を行っている。

東寺 - その他の堂宇


最後に、講堂の存在意義ですが、上記「古寺巡礼」の133ページに、東寺教学部による次のような記述があります。

空海はこう考えた。

「自分が亡くなっても、語る僧侶がいなくても、永遠にこのお堂のもの言わぬ仏像たちが教えを語り、このお堂に訪れる者たちがどこまでもその教えを受け取っていく、どんな悩みに対しても幾重にも出てくる答えを受け取っていくであろう」

と。すなわち自分と仏が一対一で対話して、やがて真理に目覚めていく。東寺の講堂はそういう役割をもったお堂なのだ。

スペースが狭いのは、仏と対峙するための意図的なものであると考えます。


以上、ご参考になれば幸いです。

id:mirakurutoshiki No.2

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ポイント50pt

http://oshiete.goo.ne.jp/search_cse/result/?from=search_redirect&MT=%E5%AF%86%E6%95%99%E7%9A%84%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81+(%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8)&mt_opt=a&qatype=qa&st=all&sr=norm&tf=all&good=0&dc=10&type=html&code=utf8

多分これ

id:meefla No.3

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②東寺での、9世紀中葉の僧の「金堂」「講堂」の使い方

Google books で読める 東寺沿革略誌 には、次のような記述があります。

(以下、リンク先ページの「PDF」リンクからダウンロードできるPDF版のページも併記します。最初の76ページは図版で、本文は77ページから始まります)


第五 歴代帝皇の鎮護国家の大祈祷(本文11ページ、PDF 89ページ)

淳和帝の天長年中、高祖大師勅に依りて、親しく導師となり、大師の長足実恵大徳は護摩壇師となり、真済大徳は十二天供師となり、真雅僧正は聖天供師となりて、帝威倍増、海内無事、五穀成就、万民豊楽の為めに講堂に道場を荘厳して、仁王護国の秘法を厳修し奉る。

この後にも、仁王護国の秘法が講堂で何回も行われたようです。

本文16ページ、PDF 94ページから、仁王護国の秘法以外の例として、孔雀経法が記載されています。

これは雨乞いや安産祈願の秘法のようで、神泉苑仁寿殿 など宮中で行われた他、東寺灌頂院や西院道場でも行われた、とあります。

しかし、孔雀経法が講堂で行われたという記載はありませんので、講堂は「真言一家不二の妙典」たる仁王護国の秘法を行うための場所であった、と考えられます。


⑤東寺での、16世紀前半の僧の「講堂」の使い方

上記「東寺沿革略誌」と同じく Google books で、さらに詳しい 東寺略史 では、本文257ページ(PDF 283ページ)から文明18年(1486年)の土一揆の記述になっています。

本文260ページ(PDF 286ページ)下段の記述によれば、文明2年9月以降、長者のなり手もなく、御影供すら行われていなかったようです。

御影供が再開されたのは延徳元年(1489年)の事で、御供物は延徳4年のものの四分の一だったそうです。

本文264ページ(PDF 290ページ)上段の記述によれば、大永4年(1524年)正月に、後柏原天皇から金堂再建の綸旨があったようですが、政情不安と財政困窮のため実現しなかったようです。

天文3年(1534年)に、空海の700回忌が行われていますが、場所は西院のようであり、これは例外的なイベントだったと思われます。(本文265ページ、PDF 291ページ)

というのも、本文270ページ(PDF 296ページ)上段の記述によれば、天文年間の後半(1543年ごろ)から天正年間の後半(1582年ごろ)まで約40年間にわたって、長者も職役も欠員のままであり、御影供も灌頂も行われていなかったからです。

堂宇の焼趾には草茫々として、狐狸の巣ふ所となり、

されば、此時東寺の衰微頽廃は、真に言語に絶し、空前絶後と云ふべきなり

要するに、土一揆で被害を受けた講堂は、かろうじて再建はされたものの、そこで何かを行うべき僧侶のほうが存在していなかった、という状況であったと考えます。

戦乱を逃れて、高野山に避難した僧もいたようです。


なお、真言宗そのものに関する成書を探して大手書店を当たってみましたが、通俗的なものはあっても、お勧めできるものは見つかりませんでした。

Google books の 秘密仏教史 の方が良いかもしれません。

PDF の227ページから、「真言宗の特殊相」という章があります。


ご参考になれば幸いです。

  • id:hathi
    ご丁寧で詳しいご回答をありがとうございます。 私の質問がわかりにくくて済みませんでした。 500字制限に書き直したときにわかりにくさが増したようです。 改めて質問点を書きます。
     
    東寺は真言密教の根本道場という表現、その東寺の講堂という名前、秘密の教え・伝法灌頂で象徴される師弟相承のシステム、三密加持の名の下でシンプルや精神性とは一見反対の仰々しい荘厳な道具立てや見せる呪術そのものの仕草・意味不明の呪文に響く経の読み方、政権や権勢に魅力的な現世荘厳・現世利益・調伏などの加持祈祷という組み合わせを理解するのが難しく感じています。
    疑問が多すぎるので、とりあえず形式的なこと、5W2Hのように表現できる部分を知りたくて質問しました。
     
    質問の僧の「金堂」「講堂」の使い方というのは、「誰の(パトロン、明確に氏名のない民衆一般、修行/修法する僧など)ための」「どんな要求に応えるための」「どのような儀式・修法・加持祈祷」を「誰が(僧の全員参加か、数人か、役割が決まっている14人か)」「一緒に参加する僧以外の加持祈祷依頼者や信者がいるのか/いないのか」のことです。
     
    次のどの時期のことでも良いですが、わかることあるいは参考になることをお教えください。
    ①東寺での、創建直後の「金堂」の使い方
    (平安京の基本設計から官立寺院として八幡神と薬師如来の神仏習合寺院として創建されたとき)(西寺、東寺とも官立寺院として金堂、講堂を持つ伽藍配置でしたが、講堂はできていなかったとき)
    ②東寺での、9世紀中葉の僧の「金堂」「講堂」の使い方
    (空海が東寺をもらい受けて、空海の考えで{「講堂」・羯磨曼荼羅}を作り、{金堂・薬師}は並存していたが、東寺から密教僧以外の僧を排除していたとき)
    ③東寺での、13世紀の僧の「金堂」「講堂」の使い方
    (衰退していた東寺を文覚が大師信仰で盛り上げ、東寺長者親厳が御影堂に大師崇拝を始めたあと)
    ④東寺での、15世紀前半の僧の「金堂」「講堂」の使い方
    (南北朝の政権も財力が弱く、経済が疲弊し土一揆が多発し、寺院が土一揆の攻撃対象になっていたとき、1454年東寺金堂が土一揆で破壊されるまで)
    ⑤東寺での、16世紀前半の僧の「講堂」の使い方
    (土一揆が立てこもった東寺が炎上し金堂、南大門、講堂が消失したあと、金堂は再建しないが、講堂を1497年に再建したあと)
    ⑥東寺での、16世紀後半の僧の「講堂」の使い方
    (本願寺、延暦寺、高野山などが勢力を振るって、一大勢力になっていた時期)
    ⑦東寺での、17世紀の僧の「金堂」「講堂」の使い方
    (1596年に講堂も地震で大破したあと、豊臣の力で金堂が再建され、薬師三尊が新造され、続いて講堂も修復されたあと。徳川政権下で武力抗争もなくなり、天皇家も力を失っていた時期。観智院が真言勧学の寺とされていました)
     
    ~~~~~
    今回の質問とは別ですが、「古寺巡礼の133P東寺教学部による説明」には興味が出ましたので、読もうと思います。お教えいただき、ありがとうございます。「「自分が亡くなっても、語る僧侶がいなくても、永遠にこのお堂のもの言わぬ仏像たちが教えを語り、このお堂に訪れる者たちがどこまでもその教えを受け取っていく、どんな悩みに対しても幾重にも出てくる答えを受け取っていくであろう」と。すなわち自分と仏が一対一で対話して、やがて真理に目覚めていく。東寺の講堂はそういう役割をもったお堂なのだ」との説明は疑問です。確かに「言葉では説明できない、図で示す、羯磨曼荼羅で示すことになっていますが、実際の配置は鎮護国家を念頭にした仁王経の案に基づくものだそうですし、基本的に僧(行者)による加持祈祷を媒介にするもので、行者抜きで一般信者が仏と直接対話するようなことを否定しているのが真言密教のはずだと思っています。
    八幡神の神仏習合は奈良時代から始まっています。八幡神に限らず明治に官製で始まった廃仏毀釈が吹き荒れる前は、隆盛だった仏教に神の祭祀がすり寄り、仏教も民間信仰や祭祀を無視できなかったので、混在するのが一般的な形です。また空海は一即一切・一切即一の立場ですから、嵯峨天皇勝利の目的で調伏祈祷を行なう場合、八幡神を祀ることは十分に考えられることです。密教の曼荼羅には薬師如来はいません。しかし日本では薬師信仰は非常に大きいです。その折り合いをつける都合で、曼荼羅東方が阿?如来を薬師と同体であると言ったり、マイナーな大日やご丁寧で詳しいご回答をありがとうございます。 私の質問がわかりにくくて済みませんでした。 500字制限に書き直したときにわかりにくさが増したようです。 改めて質問点を書きます。
     
    東寺は真言密教の根本道場という表現、その東寺の講堂という名前、秘密の教え・伝法灌頂で象徴される師弟相承のシステム、三密加持の名の下でシンプルや精神性とは一見反対の仰々しい荘厳な道具立てや見せる呪術そのものの仕草・意味不明の呪文に響く経の読み方、政権や権勢に魅力的な現世荘厳・現世利益・調伏などの加持祈祷という組み合わせを理解するのが難しく感じています。
    疑問が多すぎるので、とりあえず形式的なこと、5W2Hのように表現できる部分を知りたくて質問しました。
     
    質問の僧の「金堂」「講堂」の使い方というのは、「誰の(パトロン、明確に氏名のない民衆一般、修行/修法する僧など)ための」「どんな要求に応えるための」「どのような儀式・修法・加持祈祷」を「誰が(僧の全員参加か、数人か、役割が決まっている14人か)」「一緒に参加する僧以外の加持祈祷依頼者や信者がいるのか/いないのか」のことです。
     
    次のどの時期のことでも良いですが、わかることあるいは参考になることをお教えくだされば幸いに存じます。
    ①東寺での、創建直後の「金堂」の使い方
    (平安京の基本設計から官立寺院として八幡神と薬師如来の神仏習合寺院として創建されたとき)(西寺、東寺とも官立寺院として金堂、講堂を持つ伽藍配置でしたが、講堂はできていなかったとき)
    ②東寺での、9世紀中葉の僧の「金堂」「講堂」の使い方
    (空海が東寺をもらい受けて、空海の考えで{「講堂」・羯磨曼荼羅}を作り、{金堂・薬師}は並存していたが、東寺から密教僧以外の僧を排除していたとき)
    ③東寺での、13世紀の僧の「金堂」「講堂」の使い方
    (衰退していた東寺を文覚が大師信仰で盛り上げ、東寺長者親厳が御影堂に大師崇拝を始めたあと)
    ④東寺での、15世紀前半の僧の「金堂」「講堂」の使い方
    (南北朝の政権も財力が弱く、経済が疲弊し土一揆が多発し、寺院が土一揆の攻撃対象になっていたとき、1454年東寺金堂が土一揆で破壊されるまで)
    ⑤東寺での、16世紀前半の僧の「講堂」の使い方
    (土一揆が立てこもった東寺が炎上し金堂、南大門、講堂が消失したあと、金堂は再建しないが、講堂を1497年に再建したあと)
    ⑥東寺での、16世紀後半の僧の「講堂」の使い方
    (本願寺、延暦寺、高野山などが勢力を振るって、一大勢力になっていた時期)
    ⑦東寺での、17世紀の僧の「金堂」「講堂」の使い方
    (1596年に講堂も地震で大破したあと、豊臣の力で金堂が再建され、薬師三尊が新造され、続いて講堂も修復されたあと。徳川政権下で武力抗争もなくなり、天皇家も力を失っていた時期。観智院が真言勧学の寺とされていました)
     
    ~~~~~  ~~~~~~
    今回の質問とは別ですが、「古寺巡礼の133P東寺教学部による説明」には興味が出ましたので、読もうと思います。お教えいただき、ありがとうございます。「「自分が亡くなっても、語る僧侶がいなくても、永遠にこのお堂のもの言わぬ仏像たちが教えを語り、このお堂に訪れる者たちがどこまでもその教えを受け取っていく、どんな悩みに対しても幾重にも出てくる答えを受け取っていくであろう」と。すなわち自分と仏が一対一で対話して、やがて真理に目覚めていく。東寺の講堂はそういう役割をもったお堂なのだ」との説明は疑問です。確かに「言葉では説明できない、図で示す、羯磨曼荼羅で示すことになっていますが、実際の配置は鎮護国家を念頭にした仁王経の案に基づくものだそうですし、基本的に僧(行者)による加持祈祷を媒介にするもので、行者抜きで一般信者が仏と直接対話するようなことを否定しているのが真言密教のはずだと思っています。空海も僧侶もいなくても講堂と曼荼羅があれば人は真理に目覚めるという真理とは、真言密教で何のことでしょう。
     
    八幡神の神仏習合は奈良時代から始まっています。八幡神に限らず明治に官製で始まった廃仏毀釈が吹き荒れる前は、隆盛だった仏教に神の祭祀がすり寄り、仏教も民間信仰や祭祀を無視できなかったので、混在するのが一般的な形です。また空海は一即一切・一切即一の立場ですから、嵯峨天皇勝利の目的で調伏祈祷を行なう場合、八幡神を祀ることは十分に考えられることです。密教の曼荼羅には薬師如来はいません。しかし日本では薬師信仰は非常に大きいです。その折り合いをつける都合で、曼荼羅東方の阿しゅく如来を薬師と同体であると言ったり、日本の状況で大日や阿しゅくではマイナーだから、人気のある薬師を祭ることは寺としての方便というか作戦として考えられます。しかし、宗教家としてはいかにも無茶というか、ストレスを感じることではないかと思います。阿しゅくではなくて、薬師を祭ることは方便というか作戦として考えられます。しかし、宗教家としてはいかにも無茶というか、ストレスを感じることではないかと思います。
  • id:hathi
    前回コメントの記入をミスし、2倍量にして読みにくくして申し訳ありませんでした。
    今回いただいた情報は「とても」ありがたかったです。まだ全部を読めたのではなくて「東寺沿革略誌」「秘密仏教史の真言宗の特殊相」を読んだだけですが、とても有意義でした。書籍を数冊調べたものよりは遙かに内容が充実していました。東寺略史や秘密仏教史はダウンロードはしましたが、まだ読んでいません。
    このような資料がwebで探し読めるとは思っていませんでした。自分で探し続けていたのでは、「東寺沿革略誌」の記録に行き当たらなかっただろうと思います。
    本当にありがとうございました。
     
    元号で表記されているといつのことやら前後関係だけでなく、大きな時代区分さえわからないので、日本史年表を参照し西暦を書き込みながら読みました。
     
    質問の表面的な意味では、金堂と講堂の僧の使い方は、現在もわからないままです。
    しかし、「東寺沿革略誌」では、西院と灌頂院が多く使われ、たまに鎮守八幡宮と講堂、食堂が使われたように読めました。金堂に至ってはどう使ったのかが見えません。しかし、天皇家も豊臣家も国家鎮護、戦勝祈願や調伏のために主として使っていたこと、文禄慶長の役の負傷者の存在が、医王として薬師を安置する金堂再建の主たる背景らしいことが想像できました。
    講堂を使ったのは、空海在世の天長年間(824~833年)とその後の1230年代仁王護国の秘法、1335年建武二年の百座仁王會くらいのようです。(弘安四年1281年の皇軍勝利の仁王護国の調伏がどこで行われたのかちょっとわかりません。定済は正月に向太神宮、2月に勝信が石山寺、6月に西院で不動法が行われたと、東寺略史P176にあります)
    この「東寺沿革略誌」に記載していない年間、月間、日常の修法や行法も多数あるでしょうから、この記録だけをみて、講堂や金堂はあまり使われないと考えるのは誤りだと思います。
    主な行事は灌頂院や西院で行われていたのは確かなのでしょう。あの講堂の建て方では、須弥壇前の狭いところに詰めるか、各像の前に行法を行う僧を配し、須弥壇前に重要な参会者、入りきらない参会者は講堂外に並ぶしかないでしょう。
     
    空海は、827年に東寺では毎年正月に薬師法を修すべしと勅命を受けているのもわかりました。
     
    東寺も、高野山も、平安末期には衰退します。中興の貢献者はいますが、東寺も高野山も浄土信仰や大師信仰が大きな要因になって再生できたようです。
    「東寺は真言密教の寺院」と考えようとするからおかしいと思うことになったのだと思います。
    空海が高野山に、最澄が比叡山に道場を開くときにも鎮守社を造り、神仏習合のあり方の見本の一つを造ってます。性霊集の「高野建立の初めの結界のときの啓白の文」はどう見ても空海が造った神仏混淆の祭文です。
     
    少なくとも当初は「金剛胎蔵曼荼羅・修法によるの密教一筋、三密加持で、修法を行う者は即身成仏・国は現世荘厳」を狙っていたと思うのが、講堂をどう使った、金堂がどうしたという疑問を発する背景でしたが、思い間違いのようです。
     
    五木寛之の百寺巡礼(講談社第三巻)に「志のため、空海は権力を道具とした」という見出しで、「空海は、密教に関してはいい加減な妥協を許さない、厳しさと厳密さを持っていたはずだ」、「東寺に他宗派のものを入れなかったのはこのためだろう」と書いていて、私もそういう前提で考えたのが間違いだと、今は思っています。
     
    「空海は、密教に関してはいい加減な妥協を許さない、厳しさと厳密さを持っていたはずだ」というのが間違いで、密教に関しても非常に弾力的な考えを空海はしていたのだろうと、今は思いつつあります。空海の即身成仏頌を密教の根幹であり、東寺は根本道場であるという思い込みが、「道場」「講堂」、「この講堂の構造でどうする?」「では、薬師を本尊にする金堂は?」となったのです。
     
    青龍寺は662に再建され711年に青龍寺と改称された寺で真言密教とは関係がなかったようです。唐では何度も仏教勢力が政権から抑圧され道教が奨励されています。恵果が青龍寺にきたのは766年で、空海が恵果に遭ったのが805年です。青龍寺が当時どのような堂宇を持ち、尊像を配置していたのかわかりませんが、空海が見た密教の尊像はそれほどのものではなかったのではないかと思います。
     
    東寺講堂の羯磨曼荼羅は空海の発案である可能性が高く、空海は政権から支援を得ることの重要性を考慮した上で、政権関係者を惹き付けるデザインを企画したのではないかと想像し始めています。当時の財源と建築技術で講堂のサイズが決まれば、多くの尊像を並べるには目一杯の須弥壇を造らざるをえなかったのでしょう。大がかりな修法は講堂ではやりにくく、金堂は薬師三尊ですし、後継者は大がかりな修法のためには西堂や灌頂院を造って使うしかなかったのでしょう。
    今は、南都の宗派よりももっと荘厳な道具立てを見せて権力の支援を取り付ける仕組みが東寺講堂と羯磨曼荼羅だったのではないか、思っています。
    最澄が持ち帰った仏具・教典が権力を惹き付けたよりも、空海が持ち帰った曼荼羅・仏具・教典・修法などが嵯峨天皇などを強烈に惹き付けたので、寺院や多数の尊像を並べることで、見た目のすごさ、魅力を高め、他宗派に対する優位をより確実に確保しようとしたのだと、今は考えています。
     
    偏狭に密教理論を守り純粋に伝法することは空海の狙うところではなかったし、三教指帰を言っても、道教的儀式やバラモン・ヒンズー的呪法儀式の(参会者に与える影響力)を最大限に活かそうとはしたでしょう。 空海は、東寺だけを活動拠点にしたのではないし、東寺はパトロン重視のモデル施設として造られたように思いつつあります。
     
    今回の質問「僧の講堂・金堂の使い方」に関しては不明部分が大量に残っていますが、質問をした元の私の認識が勘違いらしいことが分かったので、終了にさせていただきます。
     
    meeflaさんには、何度もとても良い回答をいただいています。 今回も、素晴らしい資料をお教えいただきありがとうございました。
  • id:meefla
    高ポイントとベストアンサー、ありがとうございます。

    > 東寺はパトロン重視のモデル施設として造られたように思いつつあります。

    私もほぼ同意見です。
    東寺も高野山も、空海が嵯峨天皇に申し出て下賜されたものとすれば、時系列としては高野山が弘仁7年(816年)、東寺が弘仁14年(823年)ですから、高野山の方が先で東寺は7年後になります。
    空海が最初に真言密教の根本道場を作ろうとしたのは高野山だったけど、山奥ゆえに建設が遅々として進まず、すでに建物が存在しており新規の堂宇も作りやすい東寺の下賜を願い出た、という風に読めます。
    高野山の壇上伽藍に、金堂はあっても講堂はない、という点も示唆的でしょう。

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