なぜ日本語は一人称やムード表現が充実するのか?


雪国では雪に関する語彙が充実するらしいが、言語がその必要性に応じて自然に拡張されていくものだとするならば、日本語におけるキャラクタ性や細かいムードの表現が他の言語よりも長けている原因(その必要性)とは何なのでしょうか?

具体的には、日本語では一人称が充実しています。例えば、「俺」と「僕」のどちらを使うかで、聞き手に与えるキャラクターの印象を大きく変えます。英語では「I」しかないので、彼らは一人称に対して「文法上の記号」くらいにしか感じていない可能性すらあります。

また、日本語は細かいムードやニュアンスの違いを表現するための語尾も充実しています。
例:
・これはリンゴ
・これはリンゴだ
・これはリンゴな
・これはリンゴね
・これはリンゴよ
・これはリンゴなの
・これはリンゴなのね
・これはリンゴなのよ
・これはリンゴなのだ
・これはリンゴです
・これはリンゴですよ
・これはリンゴですな
・これはリンゴですね
・これはリンゴだよ
・これはリンゴだお

ヨーロッパの言語と比べ、このような違いはなぜ生まれるのでしょうか?

回答の条件
  • 1人50回まで
  • 13歳以上
  • 登録:2011/08/25 13:13:28
  • 終了:2011/09/01 13:15:03

回答(13件)

id:ShinRai No.1

ShinRai回答回数488ベストアンサー獲得回数212011/08/25 13:52:16

ポイント8pt

1.

前半の問題は、日本語が社会的関係性を、人称代名詞のように使える問題だと思います。

鈴木孝夫先生の『ことばと文化』に紹介されています。

鈴木孝夫研究会編『鈴木孝夫の世界 第1集 ことば・文化・自然』 

   冨山房インターナショナル(2010年10月)ISBN 4902385953

鈴木孝夫の世界〈第2集〉―ことば・文化・自然

   冨山房インターナショナル (2011/07/12 出版)

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4905194164.html


2.

後半の終端に使える助詞の多様性ですが、日本語が膠着語であることによるのではないでしょうか。(中国語は孤立語、欧米は屈折語)

大文明の周縁部に位置する日本語や朝鮮語などは、名詞は中国からもらって、それを独自の助詞・助動詞でつなぐ傾向があります。

アメリカやブラジルに移住した日系1世のしゃべる「ピジン英語」にも似ているかもしれません。

id:gen256

>ShinRaiさん

ありがとうございます。

1について:

面白い本の紹介ありがとうございます。Amazonで買ってきます。


2について:

膠着語であることが質問で述べたような語尾の充実を可能にしたということですが、他の膠着語圏でも日本のように語尾が充実しているのでしょうか?

もしその傾向があるなら、なぜ日本という環境では膠着語になったのでしょうか?

しつこくてすいません。

2011/08/25 16:56:37
id:australiagc No.2

australiagc回答回数467ベストアンサー獲得回数902011/08/25 13:58:09

ポイント8pt

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E4%BA%BA%E7%A7%B0%E4%BB%A3%E5%90%8D%E8%A9%9E

英語、フランス語、中国語など他の多くの言語と異なり、現代日本語には文法的に名詞とはっきり区別される代名詞がなく、様々な語が一人称代名詞として使え、それぞれ文体や立場が異なる。

つまり、日本語には文法的に定義されている、「I」や「Je」、「我」などに相当する一人称代名詞がないからですね。


次に語尾ですが、一部は文法上の違いが挙げられると思います。


例えば、ヨーロッパの多くの言語には女性名詞・男性名詞・中性名詞があります。日本語の女言葉(e.g. なのよ、だわ)・男言葉(e.g. なのだ、だぞ)の語尾とは意味合いは違いますが、これらは日本語に無い方法でムードやニュアンスを変える役割を果たしています。


最後に個人的な意見ですが、文字の在り方の違いが大きいかも知れません。例えば漢字の場合、一つ一つの文字には意味があり、文字を構成する部首にも意味があります。西洋の単語も同じで、個々のアルファベットには意味はありませんが、いくつかのアルファベットが集まると意味を持ち、それを繋げることで単語が成り立っています。例えば、「restart」という単語は「re(再び)」と「start(開始)」で成り立っており、中国語でも「再開始」と訳されます。


これに対して、日本語のベースとなっている五十音には意味は無く、あくまで『音』として使われています。「restart」は日本語で「再起動」などと訳されますが、ひらがなで「さいきどう」と書いても英語や中国語の場合のようには意味や成り立ちを明確に特定することはできません。西洋の単語や漢字のように文字に意味があると、新しい語尾や表現を作るのが難しくなると思います。しかし、日本語のように文字に意味が無い場合、発声した『音』をそのまま文字で表現し、新たな単語や語尾として認めることが比較的容易に許されるのではないでしょうか?

id:gen256

>>australiagcさん

ありがとうございます。

ヨーロッパ言語の女性/男性/中性名詞によってニュアンスを表現するとのことですが、これはちょっと信じられない。ドイツ語の場合だと、たしか中性とか男性とかは規則的に変化するだけなので、そこに書き手の意思は反映できないような気がします。


日本語の「音」の性質の考えはすごく納得がいきました。

日本語という言語が、新しい何かをくっつけやすい性質を持つことはわかりました。

しかし、なぜ日本人や日本文化が日本語に態度やムードの語尾表現をこんなに埋め込んだのか。環境的にそういう必要性があったのか、とか、その辺りが未だにわかりません。

それとも考えすぎでしょうか。

でももし同じ性質を持った言語圏民族でも同じように語尾の充実が起きないとすれば、そこには日本独自の何かがあるとは思うのです。

その辺りの考えを教えて下さい。

2011/08/25 17:11:10
id:you1031931 No.3

you1031931回答回数323ベストアンサー獲得回数32011/08/25 21:14:43

ポイント8pt

日本語は あ・い・う・え・お が基本でアレンジしやすいからだと思います

英語とかはアレンジしにくいですよね

そういう違いだと思います

id:gen256

こういうのは英語圏の人とかは感覚的にどう思っているのかは気になるところです。

なんか、その気になれば、「This is an apple yo.」とかでてきそうな気もするのですが。

2011/08/26 14:01:14
id:monoton No.4

mnt回答回数30ベストアンサー獲得回数22011/08/25 21:17:51

ポイント8pt

一般的に上下関係と建前を重んじると言われるので、細かいニュアンスを表現するためではないでしょうか。

id:gen256

上下関係と建前を重んじるから、その必要性に応じて日本語がそういう機能を持つようになったということでしょうか。その逆の可能性はありえないのでしょうか。日本語の機能が上下関係や建前を作りやすくしたという可能性。

2011/08/26 14:06:54
id:papavolvol No.5

papavolvol回答回数1074ベストアンサー獲得回数1982011/08/26 11:15:37

ポイント8pt

船川 淳志さんの講演会で聞いた内容を説明させていただきます。

言語には「コンテンツ型」言語と、「コンテクスト型」言語があります。

「コンテンツ型」言語では「何を言ったか」を最重要視します。

一方の「コンテクスト型」言語では「どんな言い方をしたか」を最重要視します。

欧米言語は「コンテンツ型(何を言ったか)」の傾向が強く、日本語は「コンテクスト型(どんな言い方をしたか)」の傾向が強いそうです。

ここまでが、船川 淳志さんの講演内容です。ここからは私の私見です。

日本語は「コンテクスト型(どんな言い方をしたか)」の言語です。実際に、自分のことを考えてみて相手が「どんな言い方をしたか」で頭にきた経験が多いのではないでしょうか?日本語の表現が多彩なのも、日本語が「どんな言い方をしたか」に対して強いこだわりを持ってきたからだと思います。日本語はとても美しい言語です。また、この「コンテクスト型」の思考のおかげで、日本は心配りや気遣いを重要視する暖かな社会です。

しかし、一方では「コンテクスト型」思考には欠点もあります。その顕著な例が、日本の官庁や企業のホワイトカラーの際立った生産性の低さです。

米国の労働生産性を100とすると日本は69。(財団法人 日本生産性本部 生産性総合研究センターの2009年データです。)

つまり、アメリカ人が100の仕事をする間、日本人は69の仕事をして、31の生産に寄与しないことをしているのです。

この31は、前任者や上司の顔を立てることだったり、儀礼的な前例踏襲だったり、気配りだったり、根回しだったり、たばこ休憩だったり、ノミニケーションだったり、礼儀だったり、いろいろ大変です。

実際には日本の官庁や企業のIT化がアメリカに比べてとても遅れているためだという指摘もあり、全てを「コンテクスト型」思考のせいにするのは乱暴かもしれません。

船川 淳志 (ふなかわ あつし)

グローバルインパクト代表パートナー。1956年生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。東芝、アリコ・ジャパン勤務ののち1990年に渡米。アメリカ国際経営大学院(サンダーバード校)にてMBA取得後、米国シリコンバレーを拠点に組織コンサルタントとして活躍。現在、組織、リーダーシップ、人材開発等のテーマでセミナーを精力的に行っている。NHK教育テレビ「実践・ビジネス英会話」の講師も務めた。 <主な著書>『ビジネススクールで身につける思考力と対人力』、『人気MBA講師が教えるグローバルマネジャー読本』、『図解 ビジネスの現場で活きる思考力と対人力』、『考えるプロが明かす「思考の生活習慣病」克服法』がある。

id:gen256

「コンテンツ型」言語と、「コンテクスト型」言語の違いは興味深いです。

「どんな言い方をしたか」を最重要視するのなら、日本語は冷静な議論をするための言語としてはかなり不向きなんじゃないかと思いました。それでも、よく今日までやってこれたのは、コンテクスト型にもそれなりのメリットがあるということでしょうか。それは数値としては現れないのでしょうか。


まあそれはともかく、やはり根本的な原因が謎のままです。

日本語という言語仕様が日本人をコンテクスト型にしたのか(もしそうなら日本語に近い言語圏民族ではコンテクスト型になっていてもおかしくない)、それとも日本という環境ではコンテクストを重視しなければならない原因があったりして、その潜在的必要性が日本語を現在のものに進化させたのか。そもそもそういう二元論がダメなのか。

2011/08/26 14:23:49
id:minoru-0413 No.6

minoru-0413回答回数179ベストアンサー獲得回数232011/08/26 15:34:59

ポイント8pt

やはり日本と海外では美意識や習慣の違いなどから言葉も変わるのではないでしょうか?

欧米人や中国人は、『Mr.Tanaka taught me Japanese.』という文を和訳すると『田中先生が私に日本語を教えました。』となりますが、日本人の場合『田中先生が私に日本語を教えて下さいました。』と訳します。

日本人は、他人への尊敬や感謝を表すことを欧米人や中国人より意識しているのかもしれません。

また、欧米人は「私が、私が」という自己主張が多いんですね。

もう自分のことさえ主張出来れば良いという感じもする、と聴いたことがあります。

日本人は謙遜することを良しとするので受験の面接なんかは大変です。

その自己アピールのときに日本人が「僕が、私が」というのよりは、欧米人の「I'm...I can...」の方が押しが強いでしょうね。

語尾に関しては、日本が島国であることと、侍などの独特な文化に影響されたのではないでしょうか。

男らしさや女らしさを表すのは欧米にもありますね。

男女で挨拶が違う国なんて沢山ありますから、日本人はそれが一人称や語尾に現れただけだと思います。

早くから欧米との交流があれば、今のように語尾は気にしなかったかもしれません。

人によって生活によって感性に大きな違いができますから、今まで日本人が辿ってきた歴史が大きな影響を与えているのだと思います。

id:barnumkouka No.7

ケイタ回答回数17ベストアンサー獲得回数12011/08/26 21:05:44

ポイント8pt

 一人称が充実するのは、日本が多元主義だからです。八百万の神々を守ってきたのが主因でしょう。主従一体である神様が一つだったら、必然的に主語は一つになってしまいます。天命思想の中華文明でも、主語を一つにしないと自尊心を絶対的に高めることはできません。日本の場合は、いろんな神様を尊重するので、多元的な主語が生まれたのでしょう。


 語尾が充実するのは、論理的な断定とは別に、主体の感情を付加する場合に有効だからです。語尾は、具体的な意味を含んでおらず、位相に対応する敬語と同じく、スタンスを示す表現にすぎません。


 敬語は、一元的な相対性なので、どこの国でもありますが、日本語では、多元的な相対性までも求められたのでしょう。空気を常に読まされて、場に応じた言い方が強く求められる結果として、語尾のバリエーションが増えていったと思います。

 

 語尾が、個性に絶対従属するのは、語尾キャラのようなフィクションの世界だけです。方言も敬語も、基本的にはコミュニケーションの場に従属します。場によって語尾を使い分ける意識が、役割によって語尾を使い分けることに発展してきたわけです。


 かなり抽象的になってしまいましたが、日本語のあらゆる特徴は多元主義につながると思います。

id:amai_melon No.8

amai_melon回答回数2011ベストアンサー獲得回数472011/08/26 21:10:01

ポイント8pt

日本語のムードというか、いわゆる文末表現については、

性差、方言等による地域差、話者の年齢、文語か口語か、

文全体のプロミネンスやイントネーション、などによっても、

バラエティに富んでいるので、多言語ではあまり見られない特徴だと思います。

日本語は文末で肯定か、否定なのかが決まることが多く、

それを強調したり意味を加える意味でムードが充実しているのだと考えます。

id:you1031931 No.9

you1031931回答回数323ベストアンサー獲得回数32011/08/27 10:06:19

ポイント8pt

2つ考えてみました

1、日本語には「です」「ます」などにそれぞれの意味があるから

2、外国語は意思がはっきりしていて日本語のような曖昧さがないから

しっくりきますか?

id:matsunaga No.10

松永英明@ことのは回答回数536ベストアンサー獲得回数872011/08/27 21:04:07

ポイント7pt

言語学的には、ShinRai さんの回答は適切だと思われます。

また、papavolvol さんの「コンテクスト」部分については大旨よろしいかと思います。


まず、日本語の構造的には、ヴォイス・アスペクト・テンス・モダリティという順で表現がひっつきます。ヴォイスは受動態や使役態といった「態」、アスペクトは完了・未完了・進行などの「相」、テンスは過去と非過去の時間表現(日本語には現在と未来を区別するテンス表現はありません)です。ここまでができごとの事実関係を示す内容です。そして、最後にモダリティとして話者の考えや気分や気持ちが続きます。

彼は昨日、先生に叱ら・れ(受動態)・てい(進行相)・た(過去)|みたいだ/よ/ね(モダリティ)

ここで、「彼は昨日先生に叱られていた」までは事実関係について述べていますが、その後の「みたいだ」(推測)「よ」(呼びかけ)「ね」(同意を促す)はモダリティに相当します。ムードとおっしゃっているのは、このモダリティ部分が長々とつなげられることを指していらっしゃると思います。

これは、日本語の音に意味がないのではなく、逆にモダリティで使われる音のニュアンスが非常に豊かであるということになるでしょう。「よ」の有無、「ね」の有無でどれだけ変わるかということになります。


人称語の問題は、敬語などとも含めて「日本語の待遇表現の豊かさ」という表現がなされています。相手と自分の関係性によって敬語や自称語を使い分けるというのは、日本語の大きな特徴であり、同じように待遇表現の進化している韓国語と似て非なる分類となっています。


待遇表現の例としては、「やりもらい」と言われるものがあります。

上司からプレゼントをいただきました。同僚/後輩/(自分の)子供からプレゼントをもらいました。上司がプレゼントをくださいました。同僚/後輩/子供がプレゼントをくれました。上司にプレゼントを差し上げました。同僚/後輩にプレゼントをあげました。子供にプレゼントをやりました(※最近は特に女性の中に「やる」より「あげる」を使う人が増えていますが)。

これは、「恩恵の移動する方向」と「移動元と移動先の上下関係」によって決まります。これは動詞で言い分けているので、「誰から」というのを言わなくても、「プレゼントをいただいたんですよ」と言えば「ああ、自分より偉い人からもらったんだな」とわかります。

韓国語では絶対的な上下関係(年齢等)によって言葉が決まりますが、日本語とは領域の分け方が異なります。その他の言語でも上下関係による丁寧な言い方などはありますが、こういう「関係性」が言語全体で大きな位置を占めています。


papavolvol さんの「コンテクスト型」というのは、言語学の世界では「ハイコンテクスト」と「ローコンテクスト」という言い方をします。日本語はハイコンテクスト、つまり言葉そのものよりも言外の意味や状況に左右される要素が大きく、よく対比される英語では状況に依存しない要素が大きいということです。これは別に宗教観とかまで大風呂敷を広げる必要はなく、ただそういう言語的性質があるということです。待遇表現が発達しているというのも、ハイコンテクスト型だという性質を言い表したものといえます。


その結果、最近の日本語学では「日本語には主語という概念は必要ない」というところまできています。述語と(必須)補助語と修飾語という扱いで、印欧語の主語・述語を中心とした骨格にとらわれないほうがよいと考えられるようになってきました。ですから、「I, we, you, he, she, they」という「人称主語」に相当する「語」が多様であるというよりは、「人称主語」という概念そのものがないから一般の名詞がどれもその役割を果たし得ると考えた方が正確ということになります(学校で習った国語文法はひとまず忘れた方がよいです)。


ただし、これらの違いを単に「日本語と印欧語(といいつつ英語)」の対比のみで考えるのも無理があります。たとえば、屈折語(印欧語のように名詞・動詞そのものが変化する)、膠着語(日本語のように助詞・助動詞的なものがつく)、孤立語(中国語のように言葉は変化しない)という分類をするなら、実は世界の言語では日本語と同じ膠着語が一番多いのです。

また、英語は印欧語の中でも特殊であり、すでに指摘されているように活用がしっかり残っているギリシャ語やラテン語では、主語がなくても動詞の活用で動作主がわかります。むしろ、英語は世界の言語から見て例外の多い言語として有名です。それを基準にして「日本と外国(といいつつ欧米、といいつつ英語圏)」を対比したり、さらにはその理由を文化的背景や宗教性などに求めるのは、風呂敷を広げすぎというところがあります。

また、そのように「日本はハイコンテクストだから論理性に欠けて、根回しが大切で、空気を読むのが必要になる」というような見方はステレオタイプとして事実を客観的に見ることを阻害するおそれがあります。そういう意味で金田一春彦氏の「日本語」(岩波新書、上下巻)はおすすめしません。


まずは、日本語と世界各地の言語を客観的に見ること。できるだけ英語以外の言語を(浅くてもいいので)広く眺めること。そして言語の多様性を知った上で日本語の特徴を客観的に眺めるならば、疑問を持つ場所自体が変わっていく(「なぜ違いが産まれたか」という疑問は問うても仕方がないと気づく)のではないかと思います。

以上、言語学・日本語学ならびに文化人類学的な観点からまとめました。このような人文科学的領域については学問的な知見を無視した「個人の思いつき」で語られることも多いので、できれば学術的な見地を踏まえて意見をまとめられることをお勧めします。

id:saitoutomohiro-daisuki No.11

回答回数138ベストアンサー獲得回数152011/08/29 17:17:22

ポイント7pt

専門的なことは分かりませんが

それほど人に詳しく伝えたいってことじゃないですか?

俺もI

わたくしもI

それって日本人の私には少し悲しく感じられます

id:papavolvol No.12

papavolvol回答回数1074ベストアンサー獲得回数1982011/08/31 20:29:08スマートフォンから投稿

ポイント7pt

ひとつ、仮説を定義します。

日本は島国です。江戸時代には鎖国をしていました。コミュニケーション相手は、同一民族に限られます。さらに、封建時代には自由に引越しすることもできませんでした。職業は世襲です。厳格な身分制度があります。自由にものを言えない社会です。微妙なコンテクストこそ大事だったのだと思います。

欧米のように、多民族が移動しては攻めたり攻められたり、敵対したり協調したり、移民したり難民が来たり、コンテクストなんて言ってられなかったのではないでしょうか。

現在の日本のビジネスマンでも、中国で中国人相手に交渉する時には、コンテンツ型の思考を求められるでしょう。日本の中小企業のビジネスマンでも、トヨタやNTTや東電を頂点とするピラミッドに組み入れられて孫請けとして仕事をするときは、コンテクストのちょっとしたミスが死活問題になるでしょう。アメリカのベンチャー相手に仕事をするときは、いつのまにかコンテンツ言語を話しているかもしれません。

id:nozomi_private No.13

nozomi_private回答回数93ベストアンサー獲得回数92011/09/01 08:00:37

ポイント7pt

言語学のお話は専門の方が正確なところを解説してくださっているのでそちらにお任せするとして


ニュアンスの違いですが、英語でも表現の違いはあります。

よく例として使われるのが「したい」で、

would like to

want to

wanna

と丁寧な度合いで変化がでます。

ビジネスでは必ずwould、couldを使うよう求められます。

その他、takeなどのくだけた単語を使うか、専門的な正確な単語を使うかによっても印象が変わります。

その言語によって表現を使うやりかたが違うだけで、それぞれがゆたかでエモーショナルな表現があるのです。


また日本語の一人称の多さについては、漢語からもって来られたものも多いようです。


現代中国語はほとんど「我」だけになってしまっているようですが、それでもまだいろいろな単語があり、古代中国語まで含めると実に多様です。

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%89%E8%AF%AD%E4%BA%BA%E7%A7%B0%E4%BB%A3%E8%AF%8D

こちらを見ると日本でも使われるようになった言葉が多くでてきます。

「余」「予」は「われ」というやまと言葉を当てて読まれたとか。

その他、「本官」「小生」なども見られます。

二人称も「君」など使われていたようです。


こちらのnzixrleさんという中国人の方がニュアンスを説明してくださっています。とても面白いです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1126055036


もともとあったやまと言葉「あ」「われ」「やつがれ」「わらわ」などに「吾」「我」「僕」「妾」などの漢字を当てた例もありますし、漢文の文語表現から口語になった例もあります。

「おれ」は「おのれ」から転じたものらしいですが(「あ」「われ」までさかのぼれるという説もあります)、初めは「己」の字だったようで、「俺」は近代に入ってからの当て字のようです。「おれ」自体は江戸中期くらいに男女問わず広まったそうです。

「僕」は漢文に多く使われていたようで、それが段々と口語で使われるようになったようです。初めは「やつがれ」と読まれていたようですが、そのうち「ボク」と読まれるようになったそうです(今多用されているのは吉田松陰が好んで使って松下村塾の塾生が広めたからだそうで、それまでは殆ど使われていなかったという話があります)。


中国と日本、どちらも一人称に関して多くの言葉があったところ、日本が漢文から文語表現を輸入し、それが口語化したものもあり、新たに作ったものもあり、ということのようです。

一人称表現がなぜ日本と中国で多かったのか、ということに関しては、どちらも主語がなくても文脈で理解できる言葉なので、主語を自由に置き換えることができ、謙遜や細かいニュアンスなど表現を広げられる余地があった、ということなのかな、と感じています。端的に言えば自由度が高い、と。


中国は現在ほぼ「我」に集中してしまっているようですが、一人称の広がりがいつ頃から狭まっていったのか、それに普通話の普及が関係しているのか、個人的にちょっと知りたいような気がします。蛇足ですが。

  • id:deep_one
    言語における「性と数」という点でいうと、古典ギリシャ語のように「主語の性と数によって動詞の変化が変わるのでそもそも人称代名詞を使わない(要らない)」という変わったものもあるよなぁ。授業で習ったときカルチャーショックだった。
  • id:australiagc
    >> ドイツ語の場合だと、たしか中性とか男性とかは規則的に変化するだけなので、そこに書き手の意思は反映できないような気がします。

    その通りですね。文法上決まっているので、日本語の多彩な語尾ほど書き手の意思を反映するものではないですよね。ただ、文法上決まっていても雰囲気はそれなりに反映させることができます。例えばイタリア語で、「bello」(美しい:男性形)と「bella」(女性形)と言われるのでは、受ける印象が異なります。これは日本語にはないニュアンスの表現方法だとちょっと思いまして。

    >> しかし、なぜ日本人や日本文化が日本語に態度やムードの語尾表現をこんなに埋め込んだのか。環境的にそういう必要性があったのか、とか、その辺りが未だにわかりません。

    これに関しては本当にあくまで私見ですが、ひとつは回答に書いたように「出来るからした」という理由が大きいと思います。言い方を変えると、日本語にそうする必要があったというよりは、他の言語にそうできない理由(文字に既存の意味があるなど)があったということではないでしょうか?

    その一例が方言だと思います。例えば「It's a good day.」は地方や言い回しによって、「イッツ、エイ、グッドゥ、デイ」、「イッツ、ア、グッドゥ、デイ」、「イッツァ、グッドゥ、デイ」、「イッツァ、グッデイ」、「イッツァ、グッダァイ」...など色々な言い方がありますが、文章に起こすと全て「It's a good day.」と書かれます。しかし、日本語では標準語の「今日はいい日だ」と関西弁の「今日はええ日や」は、イントネーションこそ反映されていませんが、異なる表記になります。

    papavolvolさんの仰っていた「コンテンツ型」言語と「コンテクスト型」言語に当てはめると、英語は「何を言ったか」が重要視されるため、あえて強調したい時以外は方言などを細かく文章に反映させることを嫌うように思えます(方言を忠実に再現した英文はありますが、読みにくいですしね)。それに対して、「どんな言い方をしたか」を重視する日本人からすると、逆に方言などがちゃんと反映されていない文章を物足りないと感じる傾向があるのではないでしょうか?

    では、何故日本語(カタカナ・ひらがな)が「コンテクスト型」になったのかという点ですが、日本人がカナを使い始めた経緯に起因すると思います。元々日本には文字といえるようなものはなく、中国の文字を代用していました。それら漢文を和読するために作られたのが片仮名だと言われています。つまり仮名は読み方(コンテクスト)を表す文字であって、文字自体の意味(コンテンツ)を表すことは重要視されていなかったのではないかと思われます。

    いずれにせよ、「コンテクスト型の言語になる必要性があった」というよりは、漢文があったために、自然の成り行き上あえて「コンテンツ型の言語になる必要がなかった」のではないでしょうか?元も子もない言い方をしてしまうと、当時の日本人には漢文のコンテンツ言語としてのレベルが高過ぎて、聞いた音をそのまま文字に起こす程度が精一杯だったということでしょう。

    想像ですが、日本人が漢字のみを使い続けたり、逆に漢文が渡来せず独自の文字を開発しなくてはいけなかったら、コンテンツ型の日本語が生まれていたかも知れませんね。そうしたら、多彩な語尾や一人称もなくなっていたかもしれません。
  • id:papavolvol
    「コンテンツ型」と「コンテクスト型」の回答を投稿したpapavolvolです。
    私たちは、これまで「コンテンツ型」の欧米企業とのビジネス戦略はどうあるべきか、「コンテクスト型」の日本企業とのビジネス戦略はどうあるべきか、というところにフォーカスしてきました。
    どうして日本には「コンテクスト型」の文化が熟成されたのか、という観点については、これまで考えたこともありませんでした。
    今回、投稿したことをきっかけに、このような突っ込んだコメントもいただきました。おかげさまで私もいろいろ深く考察する機会になりました。
    このような場を提供していただいたことに、とても感謝しています。
  • id:gen256
    混乱してきたので自分なりに整理します。

    環境→深層心理・精神→言語→文化・習慣
    環境→文化・習慣→言語→深層心理・精神

    こういう位置づけが良いか悪いかはあると思うが、ともかく自分の中ではこういう図式がありました。

    で、言語仕様の結果だという説明は、「言語→文化・習慣、言語→深層心理・精神」的だと思います。そこは大変よくわかりました。

    では質問の「一人称やムード表現の充実」はこの図でどこに位置するかというと、それ自体が問題でもある気がしています。「一人称やムード表現の充実」が単なる言語仕様の結果でしかないなら、似た言語圏民族でも一人称やムード表現の充実が起きる傾向があっていいと思います。

    自分は、コンテクスト的な(コンテクストを重視しなければならないような)精神・深層心理・環境が言語レベルの前に既にあって、それが日本語を今のような仕様にした、という可能性を考えました。
    もしそうだとすると、「一人称やムード表現の充実」は「言語の結果」ではなくて、もともと「言語の原因」としてあったものが言語を通して表出したに過ぎない、となります。

    そうだとしても、そうでないとしても、言語仕様の結果だという説明の有力さは変わらないです。それは事実として正しいし、どちらにしてもそのような事実が生まれ得るからです。

    なので、「環境→深層心理・精神→言語」や「環境→文化・習慣→言語」の方について考えるなら、なぜ上下関係と建前を重んじるのか、とか、ケイタさんや弥演琉さんの仰る多元主義、宗教観、習慣、美意識の与える影響みたいなところを考えなければならないのかな、と思いました。



    --
    >元々日本には文字といえるようなものはなく、中国の文字を代用していました。

    とはいえ、もともと大和言葉をしゃべっていたのではないでしょうか。

    >漢文があったために、自然の成り行き上あえて「コンテンツ型の言語になる必要がなかった」

    そもそも、なぜ日本語は(漢語がくる前から)コンテクスト型なのか、とか、なぜ日本人はその時和魂漢才を選んだのかとか。そこに本質がある気がします。
  • id:barnumkouka
    >松永英明@ことのは さん

     客観的な証明が出来ない大きなテーマには、ステレオタイプがつきものです。そもそも、ステレオタイプがなければ、効率的なコミュニケーションができませんから、全ての人間がステレオタイプを活用しています。ステレオタイプは、更新され続けますから、自分のステレオタイプを認識していれば問題ないと思います。

     言語の世界は、他の文系学問と同じく、主観を制限した客観では、大きなテーマを論じられらなくなってしまいます。主観的な言説を否定して、「なぜ違いが生まれたか?」の問いまで否定されるのは、少し違和感を覚えます。信じる内容にもよりますが、客観的に証明されないものを信じても良いのではないでしょうか。

     私も、日本語の構造が論理的ではないとは思っておりません。しかし、実際の日本語では、言葉のロジックよりも、言葉のセンスに頼ったコミュニケーションが多く見られ、曖昧な日本語で溢れています。日本的な「コンテクスト型」文化の原因も、言葉のロジックを前面に出さないコミュニケーションだからです。

     日本人は、和製漢語やカタカナ語を多用して、ロジック一辺倒の発言をすることも出来ると思います。しかし、現状の日本人は、言葉のロジックを和らげることばかり考えてしまいます。日本語が曖昧なのは、日本語の仕組みではなく、日本人の習性にあるから、宗教性などの主観的な議論も可能なのです。
     
      例えば、「敬語の起源」に迫る本は、主観だらけの文化論になっています。

      参考:『敬語で解く日本の平等・不平等』 (講談社現代新書)
  • id:matsunaga
    >ケイタさん

    理系の学問なら疑似科学とかトンデモと呼ばれるレベルの「主観的な思いつき議論」が文系ではまかり通るのはよろしくないと思います。

    「日本語が曖昧なのは、日本語の仕組みではなく、日本人の習性にある」というのは実証されていませんし、誤った考え方であると断ずることができます。そもそも「日本語が曖昧」ということも定義が不明です。また「日本人」の定義も曖昧です。日本人とは、一般的には見た目で言われます(日本に帰化した西洋人は日本人と見なされない傾向にあります)。かといって血筋だけでもなく、「日本語を母語とする」という定義がなされる場合もありますが、日本語しか話せない在日三世は日本人なのかという話になります。日本文化を身につけている、という場合、日本文化の定義が時代とともに異なり、結局定義不能となります。「日本人論」というのはステレオタイプ的認識であり、誤った一般化にすぎません。たとえば日本人論として有名な和辻哲郎『風土』やルース・ベネディクト『菊と刀』なども現在は文化人類学的に疑問視されています。


    >「敬語の起源」に迫る本は、主観だらけの文化論になっています
    という事実から見てもわかるとおり、それは主観でしかなく、非科学的・非学問的ということになります。


    「日本語は曖昧である」を「日本語では事実表現よりモダリティ表現が豊富である」と言い換えるならば、これは事実に合致しているでしょう。また、「日本文化では曖昧な言い方をする傾向がある」というのを事実として認めるとしましょう。そして、この文化的態度と言語の性質に相関性があるのかないのか、相関性がある場合にどちらが原因でどちらが結果なのか(もしくは相互作用的なのか)ということを立証しない限り、それは学問ではなく「思いつきの言いっぱなし」でしかありません。

    繰り返しますが、「日本語が曖昧なのは、日本語の仕組みではなく、日本人の習性にある」ということはまったく実証されていません(そうだと期待したい人は多いと思いますが)。相関性についても、世界中の言語を比較した上ではなく、「論理的な英語と非論理的な日本語」を比較しているにすぎませんが、仮に「論理的な言語を話す人は論理的な思考習慣を持つ」という相関性が見出されたとしても、それが言語によって規定されているのか、習慣によって規定されているのかはまったく別の検証が必要となります。

    したがって、主観による文化論は「おもしろいね」と流しておき、決して鵜呑みにしないのが適切な態度であるといえます。
  • id:barnumkouka
    >>「松永英明@ことのは」さん

     主観性を含まない文系の学問がどれだけありますか?
     計量ありきの経済学の一部ぐらいしか客観的とは言えないでしょう。社会科学は、主観だらけという認識を持たないほうがよっぽど危険です。

     主観がなければ、世の中を解釈することは出来ません。主観を否定するほど、自分が当然としている主観に気づけません。ある解釈理論を否定するだけの立場ならば、部分指摘しかしないので、余計に自分の主観が分からなくなります。ステレオタイプを完全否定する人ほど、自分が持っている他のステレオタイプに気づいていません。


     「松永英明@ことのは」さんには、主観が潜んでいないのでしょうか。私には、どんな文明下に生息しても血統が優先するという『血統主義』があるように思えます。「気化した西洋人」や「在日韓国人」が、「いわゆる日本人」になれないというのは、ひとつの主観ではないでしょうか。社会や個人が文明に影響されないという『非文明論』ではなく、『非日本人論』になるのはもうひとつの主観だからです。

     様々であるはずの「気化した西洋人」や「在日韓国人」の定義がすんなりできて、「いわゆる日本人」の定義が不能というのは全く可笑しい論理です。血統に拘るあまり、「いわゆる日本人」論を否定するのは奇妙な論理です。血統が違えば、他の文明の影響を受けているはずだという主観がある証明です。

     あなたが、ある定義を否定できるのは、他の定義のお考えがあるからです。「定義がない」というのは、「議論がないもの」に仕立て上げたいだけの理由にすぎません。あらゆる定義は、議論を始めるためのきっかけにすぎません。定義が問い直されるのは、理解が混乱する場合に限ります。こういう会話の場で、「日本人の定義」を持ち出すあたり、議論そのものとは別の意図があっての発言としか思えません。


    >それ(曖昧さ)が言語によって規定されているのか、習慣によって規定されているのかはまったく別の検証が必要となります。

     主観であるという認識があれば必要のないことです。その前に、「規定可能かどうか」の議論はどうなのでしょうか。絶対的に信用できる実証方法がないのを承知で、「別の検証が必要」と仰るのが理解できません。

     「排外主義」や「反日思想」に興味がある人には、好ましくないテーマかもしれませんが、自分の嫌いな議論を、「定義が曖昧とか」、「証明できないとか」、「主観的であるとか」などの理由を挙げて批判する姿勢は極めて不誠実に思えますが。。。

     「日本語」や「日本文明」を論じることに関して、〝鵜呑みするな〟と仰る態度も大変に不可思議です。あなたが他で質問している好きな議論に対して、価値がないと仕分け発言されたらどうでしょう。こういうところまで来られて、何らかのネガティブ活動をされるのはご勘弁ください。
  • id:australiagc
    >> なぜ日本語は(漢語がくる前から)コンテクスト型なのか

    この点に関してなのですが、言語というのはそもそも始めはコンテクスト型なのではないでしょうか?
    極端な話、動物の会話はコンテクスト型と言っても良いと思います。
    コンテンツを表現する単語なんかがあるわけではないので、音の高低や音量なんかで意思を伝えます。
    英語やヨーロッパの他の言語にも、ローマ字や片仮名に起こすと全く違う表記になる方言はあります。
    それら発音やイントネーションの違いを、言語に反映させるたかそうしなかったかの違いだと思います。

    結論から言うと、大和言葉もアルファベット以前に西洋人が使っていた言葉も、
    漢字以前に中国人が使っていた言葉も、口語レベルではおおよそコンテクスト型だった。
    それを文字で表そうとした時に、意味を重視したコンテンツ型にしたか、
    言い方を重視したコンテクスト型にしたかの違いではないでしょうか?

    西洋人(ギリシャとかローマですかね)や中国人は独自の文字を開発しなくてはいけなかったため、
    どうしてもコンテンツ型の言語にならなくてはいけなかった。
    逆に日本人は既に漢語があったため、それをどう読むかを重視して、
    コンテクスト型の表現に特化した仮名文字を開発した。
    結果西洋人や中国人が文字として表さなかったコンテクスト(発音やイントネーション、語尾など)も、
    文字で表してどんどん認可していき、今に至る。ってなかんじではないでしょうか?
  • id:australiagc
    あ、つまり言いたいのはこう言う事です;

    動物の言語(コンテクスト型?)

    猿から人間へ進化

    多種多様な方言を含む古代人の口語(コンテクスト型)

    言語の統一と文字の開発

    方言や言い方を無視し、意味を重視した形での文字/文法の整理(コンテンツ型)
    or
    言い方を如何に表現するかを重視した文字/文法の整理(コンテクスト型)

    時間の経過(識字率の向上など)

    コンテンツ型言語完成
    or
    コンテクスト型言語完成
  • id:matsunaga
    >ケイタさん

    すみませんが、私の議論は文化人類学・言語学・社会学等での議論としてはごく当然の、言い換えれば決して独特ではない議論です。これらの要素を踏まえずに思いつきでしゃべるのは「学問的ではない=科学的ではない」という指摘にすぎません。

    私が否定しているのは、「ステレオタイプ的な思考に陥ること」であり、ステレオタイプとして述べられることが極めて恣意的であるということです。これらのステレオタイプの危険性についての議論は、文化人類学、国際関係学、ならびに日本語教育の現場においては最も基本的な前提として語られていますので、ぜひ市販の書籍等でお勉強なさってください。

    貴殿の感情的な俗流文化論は、決して学問的ではないことを認識してください。
    なお、私には特に「意図」はありません。特に文系学問に関しては非科学的な思いつきを事実に反して述べてもよいという風潮については「嫌い」という主観を持っていますが。

    「お前の言ってることは何らかの意図に基づく主観だ。他人の主観にケチをつけるな」という発言で、学問の世界ですでに述べられている内容を否定してかかるのは、印象操作であり、場合によっては内容の否定ではなく人に対する中傷に当たりますのでご注意ください。
  • id:matsunaga
    >ケンタさん

    私を血統主義だと言われますが、これは日本に帰化した文化人類学者のヘンリ・スチュワート氏(帰化名・本多俊和)氏が実体験を踏まえて述べられていることを敷衍して例示したものを曲解されているように思われます。一般的に「見た目で判断されるんだよね」という例をもって、わたしが「見た目で判断すべきだ」と言っているかのように決めつけるのは曲解です。

    なお、文明・文化というものも極めて恣意的であることが学問的に示されています。特に文明の対義語は未開であり、ひそかな自文化中心主義の発露としての例とされています。

    いずれにせよ「安易な文化論は危険である」「相関性と因果関係をごっちゃにした議論は危険である」という趣旨を理解していただけたら幸いです。
  • id:barnumkouka
    >松永英明@ことのは さん

    結局は、「いわゆる日本人」論がお嫌いってことでしょ。

    「定義が曖昧とか」、「証明できないとか」、「主観的であるとか」などの理由を挙げて、わざわざ批判する姿勢は全く奇妙ですが。。。

    そして、自分のステレオタイプな部分については省みないで、「お勉強してください」ですか。。。

    自分の主観的な部分については説明せずに、「印象操作」で片付けられるんですね。。。

    上から目線で私を卑下しておいて、私の発言は「中傷扱い」ですか、とっても高圧的なんですね。。。


    「文明」の対義語が「未開」であり、「文明」など差別用語でしかないとでも?

    「日本語論」や「日本文明論」やっているテーマに、このような議論自体に問題があるというスタンスで、問い自体を否定しに参加するあなたの姿勢は可笑しいですよ。

    あなたが、ネットで思想活動をなされるのは構いませんが、このテーマ自体に価値がないとお考えならば、参加しないのがマナーではないでしょうか。
  • id:matsunaga
    >ケイタさん

    「思想活動」であると決めつけられるのはうんざりです。
    「日本語論」と称して現在の日本語学の見地とまったく異なる印象論を話されている、「日本文明論」というもの自体が文化人類学や社会学といった(まさにその分野を扱うはずの)学問の見地から問題が多い、ということを述べたら「思想活動」ですか。
    貴殿の「思想」を問い直されることをお勧めします。
    そして、学問的に否定されていることを主張するのであれば、まずはその学問を知った上で根拠をもって否定するのが「マナー」ではないでしょうか。


    日本語学、言語学、文化人類学、社会学を否定しておいて「問い自体を否定する」というのは言いがかりでしかありません。「米のとぎ汁はどうすれば放射線を除去する効果が高まりますか」という質問に対して「米のとぎ汁に放射線除去効果はありません」と言って非難されているかのような気分です。
    それに、「回答」の部分では質問者の方には参考になるはずの情報を載せております。コメント欄で「参加するな」と言ってくるのはそれこそマナー違反ではないでしょうか。

    なお、「文明」を「差別用語」とまでは言いませんが、文化人類学的にはエスノセントリズムの発露として疑問視されている言葉です。上述の本多先生はその問題について書かれています。そういうことを勉強してから出直してきてください。
  • id:barnumkouka
    >松永英明@ことのは さん

     質問に参加して批判されるのであれば、テーマの範囲内で「こういう見方もありますよ」といういろんな意見を提示されるのが普通でしょう。「日本語論」や「日本文明論」を全否定されるのは参加する筋が違うでしょう。だから、「思想活動」に見えるんですよ。いきなり、「西洋人」やら「在日韓国人」やらを持ち出されるし。


    >貴殿の「思想」を問い直されることをお勧めします。

     ご自分の意識を歪めてられるのでしょうけど、こういう発言は普通の人はしませんが?
     私は自分の思想が正しいとは思っていませんが、こういう全否定をされる覚えはないのですが。 とりあえず、「文明論」を扱うこと自体は間違っていないと思っています。


    >学問的に否定されていることを主張するのであれば

     こんなところで学問的な議論ができると思ってらっしゃる意味が分かりません。何か引用するだけで良いんですか?

     さらに、放射能の話の喩えが出て来るところが、私には全く意味不明なんですが、あなたの心情を良く表した感想でしょうね。自己肯定の感情を満たすのがネットの会話だと思いません。「議論の可能性」「主観の可能性」「証明の可能性」などを全く考慮しないで、「自分は正しい」と主張されても困ります。といっても、あなたは分からないだろうけど・・・
  • id:matsunaga
    「思想活動」「普通でしょう」「ご自分の意識を歪めてられるのでしょうけど」「自己肯定の感情を満たすのがネットの会話だと思いません」「といっても、あなたは分からないだろうけど・・・」という発言をされる相手とこれ以上話すつもりはありません。全部裏返してお返しするのも幼稚だと思いますので以下、口をつぐみます。
  • id:gen256
    >>australiagcさん
    補足どうもです。より理解が深まりました。

    >言語というのはそもそも始めはコンテクスト型
    っていうのは言われてみればそうだなってかんじで面白かったです。

    こうしてみると向こうの言語はなんとなく人工的な匂いを感じます。



    ----
    言語仕様の結果一人称が充実したという話は因果関係が明瞭ですごく納得がいきました。
    しかし、繰り返しになるが、もし言語仕様だけの結果というのなら、日本語に近い言語圏でも同じように一人称やモダリティの充実が起きてもいいと思うけれど、そこが唯一心残りです。

    >>世界の言語では日本語と同じ膠着語が一番多い

    と松永英明さんが仰られていますが、それならその言語圏で日本語に似た事例はいくつかあってもいい気がします。



    また、宗教観や環境が言語仕様を変えていく可能性はあると思います。

    もし、日本語が生み出す思考・文化・人間関係等が日本の環境(または環境が生み出す習慣下)での人々の生存や日本の宗教観に不適合だった場合は、日本語のそうした機能は自然に淘汰されていくと考えられるからです。

    例えば、西欧では多くの民族が陸続きで交わる環境下で、グローバルな社会性が求められた結果、日本語のもたらすようなメリットは重視されず、その機能は捨てられていった・・・みたいなストーリーもあるのではないかと。

    つまり、取捨選択の積み重ねが今の日本語を形作っているのではないかと思うわけです。それを具体的に保持しているデバイスが言語、みたいな。


    別の例を示してみます。
    ShinRaiさんの紹介されていた『ことばと文化』の「人を表わすことば」の章を読んでみたのですが、人称に関する興味深い法則や規則性が示されていました。

    >>
    日本語において、妻が子供の前で夫のことを、「パパ」や「おとうさん」と言えるのは、彼女が心理的に子供の立場に同調するからである。
    (一人称で子供に対して「パパ」や「おとうさん」を使う場合も同様)
    <<

    >>
    (略)日本語の場合は、架空に設定した人物、またはそこにいない人に話者自身が自己を同調させ、その人物にいわばなり切った視点から、対話の相手を眺める結果、ただ「おにいちゃん」と言ったり「おじさん」と称して、「誰々の」という親族用語の原点を示す必要がないという違いがある。
    <<

    こういった思考過程が成立するには、もちろん日本語の仕様がそれを可能にする形式を持っている必要は当然あるでしょう。しかしそれとは別に、環境・宗教観・深層心理・習慣などの日本的性質が、上の例での「視点の移り変わり」や「同調意識」を起こしやすいだとか、その日本的性質が日本語の今の形態を支持したり、むしろ、その「視点の移り変わり」や「同調意識」を表現する方法として言語仕様を今のような状態にしたのだという可能性はどうなのか。

    そういう点は学問的に議論されていないのか。それとも検証が難しすぎて学問的態度では扱えないのか。
  • id:barnumkouka
    >>papavolvolさんの仮説について
     交渉に見られる<コンテクスト型>と<コンテンツ型>の違いを、『約束』と『約定』いう語の対比で考えてみます。
     日本語の『約束』は、中国語では「制限範囲を約めて縛る」意味になります。そして、中国語で契約を意味するのは『約定』です。日本語の「束」は、「縛る」以外に「つかねる」の意味を持つのが大きな違いです。したがって、日本語の「結束」は、「団結」の意味なのですが、中国語では「終わらせる」という意味になります。

     日本語の『約束』は、義理人情の「結束」であり、お互いに助け合う為にプラスマイナスの想定をほとんどしていません。マイナスの責任とプラスの配分を比率で明確にする「契約概念」が主流の今日でも、証拠なき『約束』で動いている習慣はまだまだ多く見られます。「細かいことは言うな、俺を信じろ」というのは極端ですが、厳密に内容を定めずに結ぶのが『約束』なので、具体的な内容ではなく信じ合う態度を表す<コンテクスト型>の方が表現しやすいのかもしれません。

     とりあえず、封建時代の日本には、万国共通のいわゆる「契約概念」はありませんでした。一方、異民族同士で決める『約定』は、証明できる厳密な内容が絶対に必要になります。欧米人やアラブ人の言語が<コンテンツ型>であるのは、「契約概念」を発達させてきたのが大きな理由なのかもしれません。

     しかし、中国に限ってはこの法則が全く当てはまりません。「契約概念」が薄いのに、中国語は<コンテンツ型>の言語になっています。よって、信用を築くという契約交渉の視点からは、<コンテクスト型>と<コンテンツ型>の違いは証明できません。中国文化の特徴には、内部抗争の為の自己正統化術などもありますが、喩えばかりを並べる論法が<コンテンツ型>の理由にはなりません。というわけで、私には、日本語以外を文明の観点から語るのは全く無理です(笑)。

     鎖国封建社会を仮定した日本語は、「自由にものを言えない」からではなく、「ものを言わない約束」で交流していたから、<コンテクスト型>になったというのが私の結論です。
     

     それと持論を述べさせていただくと、実際の日本の封建時代は、「自由にものを言えない」のは建前であって、裏に本音による交流の場が用意されていました。上位下達の命令に異見する術があり、支配者は被支配者を理解しようとする意識を常に持っていたようです。異なる身分同士の交流が活発だったので、身分を守りながら会話する敬語が発達したのでしょう。日本人には、身分(多元)と階級(一元)を分ける感覚があったので、多元的な身分違いならば、低いなりに尊重しやすかったのだと思います。

     日本人の世界観には、「ウチ」「ソト」に加えて「ヨソ」があります。「ソト」は、「カミ」と同じように尊重する対象であり、「ヨソ」は無視排除する対象です。共有できる異なる身分は、「ソト」に近い扱いだったのかもしれません。八百万の神様のように多元的なものを尊重できたのは、蓄積や共有を可能にする高い信用が培われてきたからです。島国の同一民族が、以心伝心のような「見えない共有体系」を発展させ、一元的支配を強めない秩序を可能にしたのだと思います。

     一人称や語尾の多様性を受け入れることができるのは日本独特の多元主義です。一人称が一元化された言語では、「自分があって所属が在る」という意識ですが、日本人の場合は、「その場の所属に応じて自分が在る」という意識であり、場に合わせることを強いられます。同じ相手であっても、伝えたい内容や交流する場によって一人称までも変えるのが日本語です。一人称や語尾を場によって使い分けているのであれば、日本文明に理由が在るのは明らかだと思っています。


     最後に、ご参加したみなさん、いろいろとすいませんでした<(_ _)>
  • id:minoru-0413
    minoru-0413 2011/09/01 21:01:10
    おや、凄い戦いがあったような感じですね。
    でも、今此処はまさしく「夏草や兵どもが夢のあと」ですね←
    やはり言葉は奥が深いですね。
  • id:australiagc
    くどくど伸ばしちゃうようで申し訳ないんですが、
    多元的で一点気付いたことがあります。

    文化や宗教と直接結びつくわけじゃないんですが、歴史にも原因があるかも知れません。
    日本には江戸時代まで強力な支配力を全国に振るえるだけの統一政権がありませんでした。
    参勤交代制度が導入された江戸時代ですら、藩の独立色は強かったように思えます。
    一国家一民族として、西洋風な統一国家になったのはやっと明治のことです。
    各地方がローマ帝国下の属国や同盟国のようなものだったと言えなくない気がします。

    ようは、日本語というのはそもそも沢山の「外国語」の集合体なのではないでしょうか?
    極端な例だと、津軽弁しか知らない人にしてみれば、鹿児島弁は外国語だったでしょう。
    なので、統一しようとしてもしきれなかったというのはどうでしょう?
    例えばイタリア人がフランス人に、「bonjour」は標準語じゃないから「buongiorno」を使うようにと言った所で変えれないのと同様に、東京人が関西人に「今日はええ日や」は正しい日本語じゃないから今後は「今日はいい日だ」と書くようにと言った所で強制できないような。

    アフリカや南米などには小さな地域に異なる言葉を話す部族がいくつも居住している場所があります。仮にそれらの部族が新たに統一国家を作り、言語を統一しようとしたら、もしかすると日本語のようになるかも知れませんね。
  • id:barnumkouka
    >言語と歴史について

     言語は、歴史(政治)の影響が一番大きいと私も思います。日本語における「一人称」と「語尾」の多様性は、文明の断絶がなかったことに加えて、言語の統一規制が厳しくなかったことが、何よりも大きかったのは間違いありません。目先の比較に囚われて、漢字を廃止したり、外国語を公用語にしたら、多くの文化が継承できずに滅んでいったことでしょう。

     言葉の語彙が似ているのは、同じ文明下にあった証明だと思っています。定義が議論を制約するように、言葉は集団行動を制約するからです。宗教の効能については、ここでは語りたくないので伏せますが、各部族が他の部族を征服しなかったのは、部族間で共有する文明もしくは統一文明を見出せなかったからであって、多部族共生を望んでいるのか疑問があります。部族間の交流が活発であれば、既に共有する文明として集約され、語彙の類似が進んでいる気がします。


    >言語統一における「一人称」と「語尾」の多様化の可能性

     「異なる一人称」を使い分けるのは、「今の自分は〇〇モードです」という<叙述スタンス>の表明ができるからです。「異なる語尾」を使うのは、語尾にパターン化されたある種の人間像を借りてくることで<叙述スタンス>を演出できるからです。こうした<叙述スタンス>の切り替えが、多重人格と誤解されずに受け入れられるには、交流する場によって言い方が変わるのを許容しないといけません。そして、誰もが多様な一人称に成り代われる発想を持つことが必要になります。
     
     人為的に言語統一した方が、多様な「一人称」や「語尾」の発展は難しいと私は思います。特定者との結びつきが強い「一人称」を、誰もが使えるようになるには時間がかかります。身分呼称の名残が強い一人称が廃れたように、部族独自の一人称を残すのは厳しいと思います。他部族の立場からすると、ある部族独自の一人称を置き換えて思考するのは、翻訳対象になってしまう可能性が大きいでしょう。「一人称」が多様であっても翻訳がいらないのは、多様な一人称に成り代われる発想が前提になります。違う部族に成り代われる発想を育成するには、共通文明でもない限りは非常に難しいと思います。

     「語尾」についても、「一人称」と同じような翻訳問題を抱えてしまいます。日本語でも、翻訳した「語尾」は、特定のキャラを借りたステレオタイプで溢れているという指摘があります。特定の部族と結びついた「語尾」は、その部族の特徴を背負ってしまいます。多部族の語尾の中で、ある他部族の語尾をあえて使う理由を見出すのは難しく、単なる差別扱いにされてしまう可能性が高そうです。「一人称」と同じように、違う部族に成り代われる発想が共有できない限りは、非常に難しいのではないでしょうか。

     言語のいろんな可能性を考えるのはホント面白いものですね。
  • id:matsunaga
    サピアとウォーフの仮説とそれに対する批判などから総合的に考えれば、「言語が思考を規定する場合もあり、思考によって言語が規定される場合もある」という「相互作用」としてとらえるべきです。

    日本語の諸方言は多様な言語という見方もありますが、その間の近接性は非常に高いのも事実です。言語学でも「○○語」と「○○方言」の区別は極めて政治的な要素が絡んでくる部分があります(日本語那覇方言なのか、琉球語那覇方言なのか、等)。津軽弁と薩摩弁はスペイン語とポルトガル語より遠いかもしれませんが、それでも韓国語ソウル方言と比較すれば同じ「日本語方言」とくくってよいと考えられます。

    というような話は言語学の文献にいくらでも載っていますから、ぜひきちんとした学術書をお読みになることをおすすめします。

    また、近代「日本語」の成立には明治維新後かなりの期間がかかって紆余曲折の末にできあがっています。「国語」の成立が近代ナショナリズムを背景としており、多様性より統合を目指したことは歴史上明らかです。これも専門の書籍が何冊も出ています。
  • id:australiagc
    >> 松永英明@ことのは

    どうやら高尚な議論を汚してしまったようで申し訳ありません。
    僕は語学の専門知識が無いどころか、日本語も英語も、他の言語も構造的な教育は一切受けていません。

    ただ、実際に話したり旅したりして感じたことをそのまま書いてみました。
    薩摩弁と津軽弁を外国語と言ったのは、津軽のご老人とコミュニケーションが取れなかった実経験からで、
    実際に学術的に外国語と定義されているとかそうでないといったことはさっぱり分かりません。
    同様に、イタリアを旅行した際はスペイン語を使える現地の方に良く会ったので、
    たずねてみたところ、色々と類似/共通する言い回しがあるので分かりやすいんだと教えてくれました。
    つまり学術的裏づけの無い素人意見ですので、お気に障られたのであれば聞き流してくださると幸いです。

    以後、専門分野以外ででしゃばらないよう慎みますので、ご容赦ください。

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