美空ひばりお祭りマンボの歌詞の最後と時代背景について

ひばりの「お祭りマンボ(1952年)」は、曲も歌い方も明るくて乗りも良く、結構好きだった記憶があります。 当時は、おもしろく聞いたし、ヒットし、あとの時代でも再演されることの多い曲だと思うのです。 ところで、今改めて聞いて、最後のところにくると、こういう終わり方の歌詞でヒットしたのか、なぜこういう歌詞にしたのかと、不思議に思いました。 私の感じ方の個人的変化というよりも、時代が変わり、あの歌詞や作詞にヒットを阻害する要因がその後に出現したと思えてなりません。 ひばりの1950年前後のその他の歌は、演歌とも通じるような面を感じるので、不思議さは感じません。 不思議な感じがするのは「お祭りマンボ」の最終部分だけです。 当時の人々の人生観、生活感、他人のついての意見の表現法などの変化に関係しているのかと想像するのですが、考えあぐねています。
解釈のヒントになるようなことをお教えください。
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND14935/index.html

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  • 登録:2011/12/31 23:06:55
  • 終了:2012/01/07 23:10:03

回答(4件)

id:Kaoru_A No.1

朝霞(あさか)回答回数1357ベストアンサー獲得回数2892012/01/01 00:31:29

ポイント50pt

 個人的な意見ですが。
 
 カギは、1952年と、作詞/作曲を手がけた原 六朗氏かなと思いました。そして、「祭り」はいつか終わる、という定めのようなものも。 
 
 原六朗 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%85%AD%E6%9C%97
 「モダンな明るい音楽を好み、演歌を作曲することを嫌っていた」けれども、演歌風でという注文が多くて困惑なさっていたという感じの記述がありますね。
 「お祭りマンボ」の終わり方は、ある意味「演歌風の曲」というものを求めるレコード会社側との妥協点だったのかも知れないと個人的に感じます。

 1952年 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/1952%E5%B9%B4
 この年は「サンフランシスコ平和条約」の年でもあります。
 
 楽しい日々も、悲しい日々も、いつか終わるときがくるかもしれない。
 お祭りも終わる。けれど、占領という日も終わるよ、と読めなくもないです。
 
 あくまで個人的なひとつの意見として。

id:hathi

回答をいただきありがとうございます。原六朗氏の気分やコロンビアの要望がわかりませんが、最後の部分の曲はともかく、歌詞は演歌っぽくは感じません。「家を焼かれたおじさんと ヘソクリとられたおぱさんの 、、、 いくら泣いてもかえらない
いくら泣いてもあとの祭りよ」は、悔恨の情でもや同情的言葉がけでもなくて、結構醒めた言い方でありながら、おじさんやおばさんの行動を突き放した感覚・感情の動きを示しているような気がしていました。 実は、朝霞さんが指摘しているのは、敗戦から7年、朝鮮戦争も休戦になり、朝鮮特需で日本経済も沸き立ち、復興がはっきりした時代だったということなのでしょう。 家を焼かれ、家財を失っても、また復興できる、お祭りも毎年くる、悲しく辛いことも、いつか終わる・「いくら泣いてもかえらない
いくら泣いてもあとの祭りよ」気落ちなどすぐに忘れる、例え、家が焼ける、へそくりをとられるとしても、お祭りはお祭りとして、その時、その日で、楽しくやろうよというような強いベースの気風が、敗戦を経たこの時代にはあったのでしょうか。 今の時代は、何でも大切にしたがる、傷つく、傷つける、失うようなことを回避することを第一にする状態になってしまっているので、この歌詞を聴くと、お祭りに浮かれきったおじさん・おばさんを馬鹿にして、そのような愚かしい行為をおとしめる言葉のように感じてしまうのでしょうか。 当時の人々は、こうした言葉も、気楽に受け止めるベースを持っていたってことでしょうか。 ( 他のご意見や、参考となることなどありましたら、お願いいたします )

2012/01/01 17:26:53
id:MEI-ZA-YU

演歌風でという注文が多くて困惑していたのは1960年の東芝移籍後のようですね。

2012/01/01 17:39:44
id:suppadv No.2

suppadv回答回数3552ベストアンサー獲得回数2682012/01/01 12:18:13

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あの当時では、明るい中にも現実もしっかりと捉えるというようなことが、普通だったと思います。最後まで明るい内容だと嘘っぽく感じられるので、この方がしっくりときます。まぁ、年なんでしょうね。

id:hathi

なるほど、あの当時では、明るい中にも現実もしっかりと捉えるというようなことが、普通だった。最後まで明るい内容だと嘘っぽく感じてしまうという、強さを持っていたんですね。 生死、災害、被災、安全などに関しても、一方向だけに執着するような異常さを忌避する神経を持っていた時代だったということでしょうか。 ( 日本も、これから先、もっと根本的な経済困窮、社会の破綻的状況を経験すれば、その後の復興期には強さをまた身につける時代がくるようになる ってことでしょうか ) 

2012/01/01 17:32:53
id:MEI-ZA-YU No.3

MEI-ZA-YU回答回数4707ベストアンサー獲得回数7472012/01/01 17:37:30

ポイント50pt

カギを握る原六朗氏と当時の時代背景を調べてみると何となく判ってきました。
「お祭りマンボ」が世に出る前年の1951年(昭和26年)に民間放送局の開設が続き、
ラジオで落語ブームが起こったようです。(当時はラジオ全盛です)
また昭和20年代前半は大きな火災が多発して社会問題にもなった頃です。

東京下町の馬喰町で生まれたモダンな原六朗氏(チャキチャキの江戸っ子)が
お祭りと当時流行りはじめたマンボ(翌27年大流行)、火事や戸締りの教訓、
そして落語のオチを取り入れた歌を作っても不思議ではありません。
むしろ必然的といってもいいでしょう。

歌の最後で急に変化して暗くなるように思えますが、歌の中では後の悲しい出来事につながる事を何度も忠告しています。
そして最後にオチと取れる”あとの祭り”という歌詞が出てきます。
オチといえる理由は、最後の方で暗くなった曲調ですが、”あとの祭り”の後、
また急に明るくなるからです。
暗いままで終わっていれば解釈も変わってくるかもしれませんが。


以下参考に
http://blog.goo.ne.jp/d184125/e/2b789a74bf4dfabfcfef747008faf1d6

http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R101&ac2=R10102&ac3=1120&Page=hpd_view

http://blog.livedoor.jp/oke1609/archives/65341911.html

id:hathi

歌の途中で先行きを直接警告している歌詞は頻繁に出てくるし、最後の歌詞が終わった後の曲もわかっているのですが、あの最後の歌詞を作詞した心情や、「いくら泣いてもかえらない、いくら泣いてもあとの祭りよ」を口ずさむ一般聴衆(オーディエンスという意味ではなくて、普通の人の意味です)のことが、わかりにくくて質問しました。 教えてくださった落語と消防のサイトは、それぞれおもしろかったです。 映画のサイトは、こんなサイトもあるのだと思いました(ちょっと検索しにくいですが) このお祭りマンボの曲と歌詞は、禍福は混在し、それは当然のこととして、禍・災難・消沈も福・興奮・喜悦も、両方ともあるんだ気にすることはないという、とても強い図太さを社会が持っていたということなんですね。 火災も減り、感染症も減り、水害も減り、冷害も減り、倒産や失業も減り、盗難・置き引き・押し売り・路上生活も減りという中で、だんだんと、禍福は隣り合っているものという感覚が失われてしまったのですね。 それで、いまお祭りマンボを聴くと、どうしてこのような歌詞と曲なのかがわかりにくくなっているのでしょうか。

2012/01/01 18:20:52
id:meefla No.4

meefla回答回数970ベストアンサー獲得回数4552012/01/02 13:42:22

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深読みかもしれませんが、「お祭り」を「太平洋戦争」の隠喩と考えれば、最後の歌詞が納得できるのではないかと考えます。

1952年(昭和27年)の時点で、原六朗は37才、美空ひばりは15才です。
当然ながら両者ともに戦争体験を持っています。

約6年の兵役生活後、東宝音楽部に籍を置き、ダンスバンドのアルト・サックス奏者として活躍

原六朗 - Wikipedia

美空ひばりは横浜磯子区の生まれ。お父さんが戦争に取られ、横浜空襲という戦争に対する原体験をもっております

八月五日の夜だった

歌詞に出てくる「おじさん・おばさん」が、歌手ではなく作詞家の目線からのものであれば、彼らは「鬼畜米英」「神州不滅」「パーマネントは止めましょう」とか言っていた人たちでしょう。
「どこかで半鐘が なっている」は「空襲警報」を想起させますし、「おうちは留守だよ からっぽだ」「ヘソクリとられた」は、夫や息子を従軍させ失った女性と対応します。
「いくら泣いても かえらない」ものは、家やヘソクリよりも重いものなのではないでしょうか。

朝霞さんの回答#1にある通り、「モダンな明るい音楽を好み、演歌を作曲することを嫌っていた」原六朗が、あえて最後に暗い曲調にした、という所にメッセージ性を感じざるをえません。
ストレートな反戦歌と言うつもりはありませんが、戦争の虚しさを暗示した歌という解釈ができるのではないかと思いました。

お役に立てることを祈りつつ。

id:hathi

ありがとうございます。深読みはかまわないのですが、昭和25~27年当時政治的立場でサンフランシスコ講和条約に対する姿勢は色々でしょうし、朝鮮戦争の特需で景気は回復するし、いわゆる戦後復興期だったので、その時期に戦争の虚しさを暗示した歌や反戦歌をだすとは思いにくいです。 また多くの人々もそのような受け止め方はしてなかっただろうと思います。 『一本の鉛筆』を1974年(昭和49年)に出していますが、この時とは状況がつがうと思います。

2012/01/02 20:20:54

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