公明党の名前の由来が三国志の孔明という話は本当ですか?


由来について、自分は徐晃を思い出しましたが何故に公を用いながら孔明なのか気になって仕方ないです。またメディア展開のどの辺まで許容されてるのかその辺りを詳しく聞きたいのです。たとえば、一騎当千や恋姫無双の孔明像とかは認めてらっしゃるのかどうかといったことも含みます。

回答の条件
  • 1人5回まで
  • 登録:2012/02/02 00:33:44
  • 終了:2012/02/02 20:29:29

ベストアンサー

id:kumonoyouni No.1

kumonoyouni回答回数612ベストアンサー獲得回数1312012/02/02 20:20:33

興味持ったので調べてみました。
結論から申しあげると関係ないと思います。

たむたむの自民党VS民主党:公明党の創設と政治 - livedoor Blog(ブログ)によると、月刊『潮』(2008年1月号と2007年12月号)「池田大作の軌跡―平和と文化の大城」の中で

池田会長は恩師が構想していた「公明会」を創立した。政治勢力と対峙しながら、大衆運動をリードし、衆望の水かさは次第に高まる。ついに政党結成の機は熟した。

(略)
「公明」の名称の由来である。もともと戸田会長が折々に口にしていた言葉である。語義を諸橋轍次『大漢和辞典』に探ると「私心がなく、かくしだてしないこと。よこしまのないこと」とある。

という記載があります。

なぜ戸田会長は「公明」という言葉を常々口にしたのでしょうか?
どうやら、これを紐解くには創価学会の戸田 城聖 氏を知る必要があるようです。
戸田城聖 - Wikipediaによると、

創価学会会長として戸田は事業家としての経験を元に創価学会運営を行った。戸田は就任演説において、7年間で75万世帯を折伏することを目標に掲げ、大規模な勧誘運動を行った[3]。しかし勧誘方法は非常に強引だったことから各地で社会問題化した。また戸田会長時代に婦人部、男子部、女子部、学生部、その他人材グループなど、現在の創価学会の主要な組織の編成や、雑誌『大白蓮華』や機関紙『聖教新聞』も創刊、1954年には国会や地方議会の選挙に学会員を出馬させ政治進出を果たした。また日蓮正宗の外護という創価学会本来の目的を果たすべく、大石寺への大講堂の建立・寄贈などをおこなった。その一方で牧口が、仏法思想にある原因結果の法則と自らの価値論を絡めた罰論の功徳論を展開したのに対し、戸田は、戦後の荒廃した時宜に沿う形での生命論を唱えた。

とあります。戸田氏は創価学会の勧誘運動で社会問題となったことから、その後の選挙活動において「公明」が意味する「私心がなく、かくしだてしないこと。よこしまのないこと」を世にアピールする必要があったと考えられます。

それは同時に、当時の時代背景も絡んでいます。公明党の前身である「公明政治連盟」という名称も明るい選挙推進運動のあゆみ | 財団法人 明るい選挙推進協会財団法人 明るい選挙推進協会にある公明選挙運動を意識したものであったと言えるでしょう。

2.公明選挙の起こり
戦後は、昭和27年に公明選挙運動として始められました。
当時は、昭和26年に行われた第2回統一地方選挙において選挙違反が横行し、6万人を超える検挙者を出したのに続き、翌27年に予定されていた衆議院議員総選挙に向けて激しい事前運動が盛んに行われ、国民の間で選挙をなんとかしなければという声がしだいに強くなっていました。この様な状況の中で、一大国民運動を展開し、正しくきれいな選挙をしようという呼びかけが前田多門などの有志によってなされました。また、朝日、毎日、読売の三紙が共同社告で公明選挙の推進を宣言しました。これら言論、実業、経済、婦人等各界の全面的な支持を受けて、同年6月、「公明選挙連盟」が結成されました。 また、衆議院は同年6月に「公明選挙推進に関する決議」を可決し、これを受けて政府も7月に「選挙の公明化運動に関する件」を閣議決定しました。全国の選挙管理委員会もこれに呼応し、このようにして官民あげての公明選挙運動が展開されるようになりました。



ご参考になれば幸いです。

コメントはまだありません

この質問への反応(ブックマークコメント)

「あの人に答えてほしい」「この質問はあの人が答えられそう」というときに、回答リクエストを送ってみてましょう。

これ以上回答リクエストを送信することはできません。制限について

絞り込み :
はてなココの「ともだち」を表示します。
回答リクエストを送信したユーザーはいません