コンピュータ・ネットワークは、論理的であるから離散的な表現をとるのであり、離散的な表現だから論理的であるというわけではない。
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コメント(6件)
コンピュータ・ネットワークの上位層(アプリケーション、プレゼンテーション、セッション、トランスポート)において、bitは論理値として作用していますが、下位層(ネットワーク層、データリンク層、物理層)においては物理的存在として取り扱われていると考えます。
つまり、物理層では物理的に処理され、論理層では論理的に処理されているのが、コンピュータ・ネットワークの本来の姿ではないかと考えたのです。
ここで言う「論理的」と「離散的」の意味が分かりません。
コメントの説明から類推するに、「0,1によりデータを表現する」ことを「論理的」としているような気はするのですが。
「離散的」の意味は、「データを離散的な値しか表現できないこと」を指しているのでしょうか?
仮にこう設定すれば、「論理的」ならば「離散的」であるが、「離散的」ならば「論理的」とは限らない。という命題は正しいような気もします。つまり、離散的な値しか表現できないシステムのうち、ここで言う「論理的」な表現ができない形で離散的なものを作れるのではないかと。
ただ、このような離散的なデータを作れるかに関しての根拠が僕には分かりませんでした。
なんとなくあり得そうな気もしますが、有限個のデータセットであれば問題なくマッピングを作れるわけですし、規則性があれば、それはそれで、エンコードができるわけで。不規則に無限のデータ群を定義できればいいのかもしれませんが、定義した時点で規則がうまれるような気もしてます。
で、これは、データ形式の話です。その上で、何故、ネットワーク?というのも分かりません。
上記のコメントに関して言わんとしていることはなんとなく理解できますが、乱暴な言い方ですが、コンピュータネットワークというか、デジタルなもの自体が、連続的な値を取りうるものに対して、閾値によって0と1とにエンコードして扱う方法な訳ですから、ここで何を議論の中心に置きたいのかが今一つ見えないのです。
コメントありがとうございます。
信号の物理的特性が離散であるという意味で離散を使いました。
論理的というのは、何が論理的といえるのか、うまくいえませんが、
そもそも論理という世界が、物理とは別にある
そういっていいでしょうか
(コンピュータ・ネットワークでは、物理層と論理層に分かれます)
デジタルというものの定義がないために
苦労しているのですが、
離散・有限・一次元配列がデジタルというのではなく、
論理的であるから、離散・有限である
ううううう、
では論理的とは何をいうのか?????
自分でも議論の中心が見えてない、、、
すみません
もう少し考えます
ここがまず、よく分かりません。
生の電気的な信号であれば、アナログな訳で連続的な電圧によって表現されるのではないのかなと。
これを、アナログ-デジタル回路なんかを通せば、離散的なデジタルな信号になるでしょう。
>コンピュータ・ネットワークでは、物理層と論理層に分かれます
定義していない概念に対して分かれますと言われても、困るのですが、OSI参照モデルの物理層が物理層に対応し、それ以外を論理層としていると想定してみます。「しかし、「論理的」と「論理層」、および、「物理的」と「物理層」との関連が分かりません。
更に仮定をして、「論理層で扱うものは論理的なもの」、「物理層で扱うものは物理的なもの」という定義をしてみます。
専門じゃないので、間違いがあるかもしれませんが、OSI参照モデルの物理層は、より上位の層に対して統一したインターフェースを提供するのが目的であって、実際のデータ転送のエンコーディングについては、個々に決定されるものではないかなと。
電気回路の電圧であればアナログな連続データでやりとりは行い、それを上位に対して、ビットデータとして見えるような仕組みが規定されていればいい訳です。例えば、現実的ではないですが、データのやり取りに対して黒と白のボールを投げて通信してもいい訳です。この場合は、黒と白の離散的な値しかとらない通信な訳です。
すると、物理層においては離散的でも、連続的でも構わない訳です。
いいかえると、「物理的なものは、離散的な場合もあれば、連続的な場合もある」ということになります。
この考えを論理層でも同じ考えるとすると、物理層がビットデータ(離散的なデータ)として扱う方法を定義してくれる訳ですから、論理層で扱うデータは、離散的であります。つまり、「論理的なものは、離散的でなければなりません。」
とここまで、こんなことを考えているのかなと想像してみました。
上記のような定義をすれば、「論理的であるから離散的な表現をとる」に関しては真と言えそうです。
では、この逆、「離散的な表現は論理的である」はどうかです。
論理学的な意味での論理的には、逆の命題は真とは限りません。もちろん、真かもしれません。
「離散的な表現は論理的である」を言い換えて見ると、「離散的なデータすべては、論理層で扱うことができる」となるわけです。
仮に離散的なデータXがあって、論理層で扱うことができないものがあると仮定します。
Xの取りうる値が有限とすれば、論理的に扱うことができるため、矛盾。よって、Xの取りうる値は無限であるはず。
ここで論理的であることのより厳密な定義が必要になります。
理論的な意味で言えば、論理層でも無限長のデータを扱うことができてもいいのかなと思います。
そうすると、厳密には濃度の問題になると思いますが、そこは良く分からないですが、まぁ、論理的なデータへのマッピングが可能なのではないかなと思います。そうすると、この場合も論理層で扱うことができて矛盾。
結果として、背理法によって、「すべての離散的なデータは論理層で扱うことができる」ことが証明できるのかなと。
だとすれば、「論理的である」ことと「離散的であること」は同値であると言えるでしょう。
論理層で扱える大きさが有限だとすれば、確かに無限の離散的値をとるデータは論理的ではないということが出来ます。
ただ、こうすると、整数は論理的でないという結論になるわけで、直観的な違和感が残ります。
で、話を戻しますが、無理やりOSI参照モデルにこじつけて書きましたが、結局のところデータの表現の話しかしていない訳です。
結局のところ、何を主張したいのかが、やはり分からないのです。