人体の内部で発電を専門的に担う器官というものを聞いたことがありません。脳内では微弱な電気信号で情報のやりとりをしているのだとすれば、その電力はどこで発電しているのでしょうか。

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  • 終了:2012/02/28 15:00:06

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id:sansuke_7 No.1

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人体における生物電気に特別な発電機関は必要ありません

細胞内外のイオンの動きにより微弱な電気が発生します

簡単な例として、アルミホイルを丸めた物を歯でかむと、歯がキーンとなり何とも不快な感じになりますよね
あれは歯とアルミが唾液を媒介に電気を起こしているからです
小学校の理科でやりましたよね、果物に銅や亜鉛版を刺して豆電球を点ける実験

ちなみにデンキウナギなどは筋肉などから発達した専用の発電器官をもっているようです

id:schytayler

回答をありがとうございます。細胞レベルの化学現象でしたか。となると、いま社会で問題視されている電力需給についても、社会の細胞に相当するのが個々の家電で、組織に相当するのが部屋または建物だと考えれば、やはり大規模集中発電に大きく依存する必要はないと考えられますね。参考になります。

2012/02/21 21:11:00
  • id:takejin
    情報伝達のためのイオンの電位変化ですから、家庭で使用するような「電力」とはまた違います。イオンの力ではモータは回らないのです。(筋肉の力は、化学反応ですし)
  • id:schytayler
    たけじんさん、コメントをありがとうございます。おっしゃることを言い換えてみると、通信の信号と力学的な仕事をするエネルギーとは同じではないということですよね。コンピュータで1ビットの情報を処理する電力がどんどん小さくなる一方、洗濯機のモーターでは、水その他の質量と運動量が同じであれば、なかなかそうはいかないと。

    私はいま、生活環境でのエネルギーをどう使うべきかを考えています。身の回りを見回してみると、結局、電気を使わなければ著しく不便と言えるのは照明と情報処理くらいだと考えていて、そのくらいなら、やはり細胞に例えることができるほど小さな発電装置でもどうにかなるだろうと。

    例えば、洗濯の本質は化学にあり、冷蔵庫の利用目的である食料保存の本質は雑菌の繁殖と酸化などを防ぐ化学現象にあります。この2つの例をはじめとして、生活を営むための多くのことは電気がなくてもできることなので、マーシャル・マクルーハン流に「メディア(テクノロジー)は人間の拡張である」とするなら、家庭やもっと大きな社会が利用するテクノロジーのうち、電力(たけじんさんの表現では「情報伝達のための(イオンの)電位変化」)が不可欠と言えるのは、脳と感覚器官の拡張である情報処理機器と照明機器くらいだろうと、sansuke_7 さんと たけじんさんの言葉を受けたいまでも思えるのです。
  • id:kyokusen
     お話を拝見して、結構乱暴なお話だなぁ、と言う印象を受けました。
     社会を生物(個体)とたとえるのであれば、その細胞は家庭ないし事業所であり、そこに内在する家電/電化製品は細胞内小器官と捉えるのが妥当だと考えます。また、細胞が電気(この場合の電気は私たちが電源として利用する電気ではなく、静電気のようなもの)を発生させるにはエネルギーを外部から持ち込む必要があり、これが家庭であれば家庭用燃料電池や太陽光発電システム、事業所であれば自家発電装置と言う事になりましょう。そこで用いられる通貨は石油燃料だったりバイオマスや風力、太陽光と言う事になります。

     そもそも論で申し上げますと、生活家電と言うものはそれまで人が行っていた作業を電力で代替するものであるといえましょう。洗濯は洗濯板とたらいで行っていたものが洗濯機に、掃除では放棄とちりとりが掃除機に置き換わったものです。
     これらが家庭に普及したのはそれこそ戦後の高度成長期以降のお話です。それまで家庭で電気が用いられる用途としてはschytaylerさんが仰るとおり、電燈であり、裕福な家庭ではラジオ、電話と言った機器という事になります。電灯線という言葉は今では死語ですが、まぁ、そういう言葉があったくらいですから。
     家電製品がここまで普及したのは、それこそ家事負担を減らす為であり、それにより家庭を守る主婦は雑多な家事労働から解放されパートや正社員として社会で働く事が出来るようになりました。また、独り身であっても家電製品さえあれば不自由なく暮らせる訳で、晩婚化が進んだのもこの辺りではないか、と、個人的には見ています。……なんせそれ以前、明治や大正期であれば家事労働は人を雇うか自分らで何とかしなければならなかった訳ですしね。このあたりの話になると工業化などによる人件費増大と言う話を持ち出さなければならない気もしますが、ちょっと遡って江戸の暮らしなんかを見てますと、洗濯屋さんや惣菜の行商など、そういった商人さんのお陰で江戸参勤交代で殿様のお供に来た武士たちは長屋でそれなりに暮らせたという記述も見られます。まぁ、この場合もその労力を買うために銭がいる訳ですが。食品の保存も塩蔵や乾燥で常温でもやってけますしね。……コンビニがあるじゃないかと言うのはここではルール違反とさせていただきましょうか?
     そんなこんなで生きていくと言うか、暮らしていく上ではなるほど電力は電灯だけあればいい、というのも事実ではあります。情報? 新聞や週刊誌、本を読めば別に電気なんぞ使わなくても大丈夫です。


     あと、話は遡りますが、電力と言うのは有用な動力源となります。
     それまでは人力や蒸気機関、内燃機関で生み出していた動力をモーターに置き換えた事により、これまでよりも制御が簡便でまた準備などにかかる時間が軽減されたという事実も存在します。ですので電力というものは生体内における情報伝達信号に用いられる『静電気』と考えるよりも、各器官・組織を動かす『糖』と言ったものであると考えた方が妥当ではないか、と考えます。より詳しく言えばATPやNADHといったエネルギー通貨であると考えた方がよろしいでしょう。

     ところで、心臓に電気信号を生成するための特別な組織と言うものがあるのはご存知ですか?
  • id:schytayler
    きょくせん さん、書き込みをありがとうございます。きょくせん さんと Twitter の @kyokusen さんが同一人物であるという前提で、私の回答を差し上げます。

    そもそも論をさらに極論にまでつきつめれば、「江戸時代には電気なんかなかったんだから、いまも別に電気がなくてもいいだろう」と、言うだけは言えますね。でも私は労働を減らすための利便性をあまり捨てたくはなく、むしろ労働を減らしたいからこそ、適切な調和点を探っているわけです。

    情報については、紙媒体は社会的にかなり面倒なので、出版の仕事に少しばかり関わったことのある私は、新聞や雑誌で流通する短期的・断片的な情報には、電子媒体を好んで使います。これは、紙媒体の消滅を臨むことではなく、もっとコストパフォーマンスの高い紙の利用を望む限りです。

    電気が有力な動力源であることも知っていますが、自動車や洗濯機などの力学的な仕事をする機械装置を利用するのは一瞬であり、個人がそうしたものを所有してしまうと、利用時間よりもむしろ待機時間のほうが圧倒的に長いので、特に都市部に暮らす個人にはなくてもいいだろうと考えるわけです。私自身、かつて古い集合住宅に住んだときには、共同の洗濯場があり、洗濯機を買わなくても引っ越しできたことで助かった経験があります。こうしたことを踏まえると、個人の住処に残る電力利用目的は、情報・照明あたりだろうかと考えます。

    なお、私は議論を誘導したつもりはありませんし、誰かに議論を挑んだつもりもありません。単に、自分の欲しい知識を求めたまでです。

    最後に、心臓の組織については初めて知りました。教えてくださいまして、ありがとうございます。自分でもう少し調べてみます。

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