ノンフィクションとフィクション、受け取り手に与える印象はちがいます。
たとえばあなたの知人Aがあなたにこう話し始めたとします。
A「道を歩いていたら、1羽のカラスが他の1羽のカラスに花を差し出しプロポーズみたいなことをしていた」
その後にAが発する言葉は次の2通りあります。
A「昨日それを見たの」・・・①
A「という話を思いついたの」・・・②
明らかに②より①のほうが感動が大きいと思います
また人志松本のすべらない話において芸人さんが提供する話はノンフィクションです。
かなり脚色してると分かっておりますが我々お客はノンフィクションとして消費しております。
もし 番組内の話は100%作り話 ということをお客が耳にしたら、面白さが壊滅的に減ってしまうと思います。
事実である という情報があるのと無いのとでは
何故これほど受け取り手が感じる面白さが違ってくるのでしょうか?
誤解というか思い込みがあるように感じます。
「面白い話」にも色々ありますが、そのうちの一つに
「嘘のようなほんとの話」というジャンルがあるのだと考えます。
その手の話においては、当然ながら「実は嘘です」となれば興ざめです。
前提が崩れるわけですから。
で、質問者さんが挙げておられる「事実である」という分だけ面白さが増す
というご意見ですが、私は話の内容によるのかな、と思いますね。
たとえば、古くて申し訳ないですが、「ルパン三世カリオストロの城」のチェイスシーン。アレをフィクションとしてみない人はいないと思いますが、面白さには何の影響もないですよね。
逆にあれが実話だとしたら、窓ガラスを砕くシーンとかかなり痛々しい事になってしまって面白いどころの話ではないでしょう。
つまり、マンガチックというか「フィクションであること」が前提の面白さ、と言えるのではないでしょうか。
前提が単純すぎる上にちょっと違うと思います。
>事実であるという情報が面白い
というよりも、事実で無さそうで事実なら面白い(かもしれない)という事ではないでしょうか?
「今日は良く晴れたね」
連日の猛暑日にそう言っても面白くも何ともありません。
しかし、北極圏でブリザードが続いた後にそう言えば(それが事実であれば)1つのニュースにもなり、面白い(という定義が定かではありませんが)とも言えます。
芸人さんが提供する話にしても、事実かどうかが重要な点ではなく、話自体が面白いと思えるような話でなければ面白くも何ともありません(面白くもない話を勢いだけで笑わせるパターンも多いですが、、)
>事実である という情報があるのと無いのとでは何故これほど受け取り手が感じる面白さが違ってくる・・・
これもあなた個人だけの感覚であり、一般論と言うにはちょっと強引、根拠が無さ過ぎると思います。
事実だろうが何だろうがつまんないものはつまんな~~~い。
回答頂きありがとうございます!
そうかもしれません。
確かに「事実である」だけでは話は面白くなりません。
私の最初の一文はマズかったかもしれません。まるでノンフィクションはフィクションよりも面白いと言ってるように聞こえますね。
すべらない話のあなたが面白かった話を思い浮かべて下さい。
そしてもしその話が100パーセントつくり話だと知った場合ちょっとがっかりしませんか?
もし、がっかりしたのなら「事実である」という情報の分面白くなっていたと
言えるのではないでしょうか。
そしてあなたが面白い(心が動いた)と思えるつくり話を思い浮かべて下さい。
どんなつくり話でもいいです。
それを無理やりそれを「事実である」と思い込んで下さい。
さらに面白いと思いませんか?
もし、面白いと感じたのであれば「事実である」という情報の分面白くなったと
言えるのではないでしょうか。
そりゃありえなさそうなことがあるなら おもしろいでしょう。
ただ、事実だから おもしろいとか 作り話だから おもしくないということは ないと思います。
事実でも おもしろくないことは たくさんあるし、
作り話でも おもしろいことは たくさんあるからです。
私は 映画やドラマ、アニメ(マンガ)などのほうを 事実を伝えるニュースより
おもしろいと感じてみてます。
>何故ありえないことは面白いのでしょうか?
事実というのは、たいてい つまらないことばかりです。
事実のほうが おもしろいことが 少ないのです。
おもしろいことといったら 作り話しかなく、その作り話も
>1羽のカラスが他の1羽のカラスに花を差し出しプロポーズみたいなことをしていた
この程度だと ちっとも おもしろくないのです。
これが 事実なら 実際にも そのような 作り話みたいなことが あるんだなと
思い、おもしろく感じることでしょう。
作品に希少性を感じ取ると人は面白く感じるということですね。
「事実である」という情報 はエンターテイメントにおいて
希少性を感じ取らせるための効用の一部として働き、かつそれしか効用はない
と言っていいですか?
作り話だと、いくらでも話を作れてしまうからですよね。例えば、漫才でもいかにも作ったようなお話だと、ちょっとは誇張しているのだろう、というふうに見てしまいます。作り話だと思ってきいていると、やはり現実味がないので、どうせ作っているのだから、とちょっと冷めた目できいてしまいます。反対に、事実だと思ってきく話は、それが本当に起きているところを想像しながらきくので、現実味があります。
ありがとうございます。takntさんに返信したものとと同じコメントをしてしまいますが
作品に希少性を感じ取ると人は面白く感じるということですね。
「事実である」という情報 はエンターテイメントにおいて
希少性を感じ取らせるための効用の一部として働き、かつそれしか効用はない
と言っていいですか?
感動が大きい理由を「得た情報量が大きい」(=珍しいことが起こったことを知った=びっくりした)と考えると一つの指標になるかもしれません。
A「道を歩いていたら、1羽のカラスが他の1羽のに花を差し出しプロポーズみたいなことをしていた」
A「昨日それを見たの」・・・①
A「という話を思いついたの」・・・②
カラスの話について言えば
「私が昨日カラスのプロポーズを見た」ことは起こりそうではありませんが、「私がカラスのプロポーズの話を思いついた」は特段珍しくもありません。
さらに言えば、
「私が10日前の同じ時刻、同じ場所でカラスのプロポーズを見た」
「私が昨日カラスのプロポーズを見た」
「私がカラスのプロポーズを見た」
「私の友達がカラスのプロポーズを見た」
「私がカラスのプロポーズの話を思いついた」
「誰かがカラスのプロポーズの話を思いついた」
下に行くにつれて情報量が減っていると思います。
また、ノンフィクションよりフィクションの方が情報量が大きいかもしれません。
Aさんが小さい子供だとして、親ばかの親にとっては
「私の友達がカラスのプロポーズを見た」より、「私がカラスのプロポーズの話を思いついた」
の方が感動が大きいと思います。
もちろんこれは、「私達の子供がカラスのプロポーズの話を思いついた」というノンフィクションに対する感動とみなすこともできますが。
フィクションに対して驚きとは、「こんな作品が思いつけるとは予想しなかった」であり、大抵の場合ノンフィクションの場合の「(その作品の内容)が起きるとは予想しなかった」よりも(驚きが)小さくなるからじゃないかなあと思います。
得た情報量が大きいから というは回答は為になりました。ありがとうございます。
ただ、この場合の情報量が大きいというのは、情報の質が良いのか情報の量が多いのかどちらの意味でしょうか?
ただ、頂いた例のうち
「私が10日前の同じ時刻、同じ場所でカラスのプロポーズを見た」
「私が昨日カラスのプロポーズを見た」
は情報の量は違いますが 面白さは同じな気がします。
いや、若干前者の方が面白いかな。どうなんでしょう?
>フィクションに対して驚きとは、「こんな作品が思いつけるとは予想しなかった」であり
話がそれてしまいますがフィクションの感動の仕方はそうではないと思います。
やはり例えばストーリーが面白く感じるから面白いと感じるのであり、この時点では製作者は関係ありません。
>フィクションに対して驚きとは、「こんな作品が思いつけるとは予想しなかった」
というのは作品が面白く感じた後の第二波としての感動だと思います。
面白い問だと思いました。
私も純粋にその事象が事実かどうかというのは、面白い、興味を引く要素となり得ると思います。例えば芸人の話が面白いかどうかというのは話術もありますが、同じ芸人が同じように実際にあった話として話すのと仮定の話として話すのとでは面白さに違いがあります。話す前に「本当の話ですが」と付けるだけでも違います。
これは映画マトリックスの仮想現実のようにリアルと寸分違わない仮想現実を用意に想像できることからも、その違いは聞き手の事実である事実ではないという認識にしかないということが言えると思います。
でばなぜ事実性の認識が人間の興味に影響を与えるのかというのがなかなか深い問いだと思えました。ただこのことが万人に共通するかと言えばそれに対しては慎重でなくてはなりません。心理的に現実逃避をしている状況下では事実というものを敬遠することも考えられます。つまり健全な環境下における何らかの欲求なのではないでしょうか。
まっさきに思いつくのは知識欲なのですが、これは小学生の算数で説明すると算数で教わるりんごがいくつみかんがいくつ足していくつのような、それが容易に現実として認識できるうちいいのですが、分数の割り算というような現実をイメージしづらいところになってくると途端に興味を失い理解できない子供が増えることから、知識欲は現実、つまり事実であるということと密接な関係があるのではないかと思われます。
事実を求める欲求というのは先天的な知識欲に根ざす物であり、知識欲は学問や一般教養に限らず全ての事象にまで及んでいるのではないかというのは私の雑感です。
そして一方でそれとは別に後天的な理由もあるのではないかと考えます。社会学の文脈ではありますが「現代人はリアリティに飢えている」なんて言葉を耳にします。リアリティと事実は言葉の意味が違いますが、それらを求める理由は同じです。
現代において絶対的に不足しているから人間は求めるのではないか。周りを見ればそれが事実なのか作り物なのかわからないものばかりです。そんな中で「実際にあった話だけど・・・」と始まる話に思わず耳を傾けたくなる。当然と言えば当然です。
最後に、昨日面白い事例があったので紹介しておきます。
お昼の笑っていいともで翌日のゲストをタモリさんが紹介することに変わりました。そのきっかけは先月矢田亜希子さんが、友達を紹介するはずなのに大竹しのぶさんに「はじめまして」と電話してしまったことにあると言われています。
視聴者はうすうすヤラセであるとわかっていても、どこかそれが本当の友達を紹介しているという事実の可能性は残っているのではないかと思う物ですが、それがやらせであるという事実ではないという証拠をつきつけられると途端に白々しく思えてきます。
視聴者にしてみたらたいしたことではないけれどそれを敏感に感じているのは翌日のゲストを紹介するのをタモリさんに変えたテレビ局側であったわけです。面白くなくっちゃテレビじゃないフジテレビは、事実が面白さの要素であると意識していることがわかるということです。
回答ありがとうございます
>心理的に現実逃避をしている状況下では事実というものを敬遠することも考えられます。つまり健全な環境下における何らかの欲求なのではないでしょうか。
たしかに「事実である」という情報を入れると面白くなる
この一般化はダメですね。
「人には知識欲があるから」はこの問の答えだとおもいました。
しかし知識欲を満たす知識は個人によって多様であり。
頭がまだモヤモヤします。
現実に無い話には感情移入し難い人が多い。
しかしそれが現実に起きた話であると知れば、自分の感情とその話がリンクし合い、共感できる。
本当であるか、本当でないか。
それによって人の心は自分の心と無意識のうちに同調するかしないかを選択しているのかもしれません。
おっしゃるとおりだと思いました。
本当であるか、本当でないかが 作品と自分とを繋げる 橋の役割を果たしていると
理解しました。
この答えは他の方の答えとやや種類が違うと思いました。
他の方の答えは 本当であるか無いかがお客にどういった快楽を直接満たすのかをお答えいただいたのに対し この方の答えは作品を吸収するための条件であると
答えていただいたとおもいます。ありがとうございます。
誤解というか思い込みがあるように感じます。
「面白い話」にも色々ありますが、そのうちの一つに
「嘘のようなほんとの話」というジャンルがあるのだと考えます。
その手の話においては、当然ながら「実は嘘です」となれば興ざめです。
前提が崩れるわけですから。
で、質問者さんが挙げておられる「事実である」という分だけ面白さが増す
というご意見ですが、私は話の内容によるのかな、と思いますね。
たとえば、古くて申し訳ないですが、「ルパン三世カリオストロの城」のチェイスシーン。アレをフィクションとしてみない人はいないと思いますが、面白さには何の影響もないですよね。
逆にあれが実話だとしたら、窓ガラスを砕くシーンとかかなり痛々しい事になってしまって面白いどころの話ではないでしょう。
つまり、マンガチックというか「フィクションであること」が前提の面白さ、と言えるのではないでしょうか。
おっしゃるとおりだと思いました。
「事実である」という情報を作品に加えれば 相対的(加えてない場合と比べて)に
面白さが増す。これはどんな作品にも言えることである。
こういったニュアンスを質問文やコメントに私は入れてましたが、これは私の間違いでした。確かに場合によりますね。
質問内容をノンフィクション作品のみに狭めればよかったです。(´・ω・`)
論理的なことは言えませんが
想像や妄想だと、彼(彼女)の中の話ですが
事実だと、自分も見たり聞いたりできるかもしれないと思えるから…ですかね
回答ありがとうございます
自分も見たり聞いたりできるかもしれない というのはそういう期待感が持てるということですね。
その期待感は快楽ですので、確かに答えの一つだと思います。
事実というのは
都合よく作り出せないという
思い込みがあるから
多くの人は
価値があると思い込んでいるからです。
でも、大昔?の
一杯のかけそば
の話などをみると
事実かどうかというよりかも
事実だと信じられたとか
事実だと思えた
という要素の方が大きいのも明白です。
事実に価値があると思い込んでいる人は
もちろん事実でないと知った時点で
その話の価値は、同じ話なのに
急に価値がないものになるわけです。
事実よりも
事実っぽい話の方がおもしろいはずです。
嘘の話よりも
嘘っぽい話の方がおもしろいのと同じではないかと
回答ありがとうございます
事実が都合よく作り出せなかったら
なぜ面白いと感じるのでしょうか。
希少性を感じ取るからでしょうか。
事実に価値があると思っている人とはどういう人なのでしょうか。
より詳しく聞きたいです。
私の問はバラエティ番組のヤラセにも通じるものだと思っております。
どんな下らない内容でもノンフィクション的な演出はノンフィクションであって欲しいと
お客は思っているはずです。そのお客はその下らない番組内容の何処に事実の価値を見出しているのでしょうか?
>でも、大昔?の
>一杯のかけそば
>の話などをみると
>
>事実かどうかというよりかも
>事実だと信じられたとか
>事実だと思えた
>という要素の方が大きいのも明白です。
作品外で「コレは事実だよ」と示されるよりも、作品内の演出で「コレは事実なんだな」と思わせることの方が「コレは事実なんだ」と思わせる効果は高いということでしょうか。
だとしたら作品によるとおもいます。ありがとうございます。
「事実である」という情報 はエンターテイメントにおいて
希少性を感じ取らせるための効用の一部として働き、かつそれしか効用はない
と言っていいですか?
事実であるという情報が、「希少性を感じ取らせるため」に効果的だというのは、その通りだと思いますね。「ほんとにあった怖い話」というドラマがありましたが、これを単に「怖い話」とせずに、「ほんとにあった」と付けているのは、やはり事実であるというふれ込みによる効果を狙ったものと思われます。視聴者は、本当に自分の身にも起こったらどうしよう、とハラハラしながらその作品世界に熱中します。
ただ、「それしか効用はない」とは思いません。例えば、事実だと言っておきながら、全くリアリティーのない話をしていると、興ざめしてしまうと思いますし、また、例えば小説などは、初めから虚構だいうことが自明でありながら、読者はその虚構の世界を楽しみます。単純に「事実である」と前置きしたからといって、必ず面白くなるとは限らないと思います。
本能なのではないでしょうか。
「事実である」ということは
自分の身に起こる可能性がある、ということになります。
その事実が危険なことだったら、なおさら、
自己防衛本能でその事実が自分に起こることを
回避する方法を探すため、脳が少しでも情報を得ようと
はたらくのではないか、と思います。
Aの場合、「もしかしたらその面白い事実が自分に起こるかもしれない」と考えます。すると、脳はできるだけその可能性を高めようと、情報を集めます。
しかしBの場合、「そんなこと現実にはありえない」と、
今までの常識で考えます。そのため、Aに比べて興味がわきにくくなります
サバイバル的な観点の解釈 刺激になりました。ありがとうございます。
おっしゃるとおりだと思いました。
2012/04/12 19:27:52「事実である」という情報を作品に加えれば 相対的(加えてない場合と比べて)に
面白さが増す。これはどんな作品にも言えることである。
こういったニュアンスを質問文やコメントに私は入れてましたが、これは私の間違いでした。確かに場合によりますね。
質問内容をノンフィクション作品のみに狭めればよかったです。(´・ω・`)