1335438380 藤原行政の物忌みにについて

国立歴史民俗博物館で見学をしたところ、左大臣藤原道長の1004年寛弘1年1月の行動日誌と蔵人頭藤原行政の1001年長保3年2月の1日~29日の行動日誌が掲示されていました。
道長には、内裏での宿泊の他、物忌みで終日?外出しない日が多数(7日)あります。
行政には、内裏での宿泊は多いですが、物忌みで外出しない日はありません。
行政には物忌みがたまたまなかった月なのでしょうか。
あるいは方違えでカバーできる物忌みしかなかったのでしょうか。
道長は16日には踏歌節会も物忌みで欠席しているようです。
道長には方違えのような方法でカバーできる日がたまたまなかった月なのでしょうか。
あるいは左大臣ともなると、方違えでカバーするようなことまでする必要がなかったのでしょうか。
蔵人頭になると、行政でなくても、終日自邸にいるようなことはできず、連日出仕するのが普通だったのでしょうか。源俊賢・藤原公任・藤原斉信なども、同様と推察されるのでしょうか。行政が例外的に、個人的性格や政治的動機などが絡んで、恪勤精励だっただけなのでしょうか。

回答の条件
  • 1人5回まで
  • 13歳以上
  • 登録:2012/04/26 20:06:43
  • 終了:2012/05/02 08:45:08

ベストアンサー

id:maya70828 No.2

楽1978回答回数1364ベストアンサー獲得回数1392012/04/28 16:28:00

ポイント150pt

物忌・方違の理由として些細なことであること、不訪の口実にしてたことから、No.1の回答者のおっしゃるとおりです。
「御堂関白記」から道長の物忌や方違の回数が分かるみたいです。

「第三章 安倍晴明の活躍した平安時代とはどんな時代であったか」を参照。
(ページ内検索で方違と調べるとさらにわかりやすい)
http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/semi/soturon/2000soturon/2000soturon3.htm

不訪の口実(要Adobe Reader)
https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:7WdZ3cOpZEQJ:ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/file/1161/20100125182443/BG40037000001.pdf+%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7+%E3%80%80%E3%80%80%E7%89%A9%E5%BF%8C%E3%81%BF%E5%88%86%E6%9E%90&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESh6T-36A8B2hfuNfnOaq5261ePLhw4fmGSctaegbd-pwOoi8-e67oYxNzWIUD0FO-2MWSFsJpSSojG4tI930sxBCXk4LVw6vEpz5KJfbl5Var0U-0DSGpGyH1x65jCFzI8W9p3X&sig=AHIEtbS-XK-qtb9rV8snIdQwmoF_N1oqfA

書籍ではこの本が参考になります。
http://www.izumipb.co.jp/izumi/modules/bmc/detail.php?book_id=3060&prev=search

その他参考サイト
http://blog.goo.ne.jp/zatsudankun/c/de10484276849156d3a8692d8e2e03b8
http://reservata.s61.xrea.com/akitu/8-heian9.htm

id:hathi

詳しい情報をありがとうございます。 紹介いただいた書籍は高いこと近所の図書館にもないことからまだ読めていません。
そこで、自分でも探ってみました。
「物忌みはどうされていたのか(誰が誰にどのように物忌みを示していたのか)」という視点で探ってみました。
 
陰陽を調べたり、告げたりする行為は、厳格に制限されていたようです。
 
陰陽寮関係者以外が陰陽道を学び、技能を用いることを固く禁じていたそうです。
「名例律」37条:「天文を独習した者は、自首しても罪を軽減しない」
「職制律」20条:「天体観測のための器物、天文・陰陽関係図書、占術関係の器物、兵法書の私有を禁止する。違犯したものは労役1年。独自に学習する事も禁止。五経の緯書などの所持は許可する」
「賊盗律」21条:「自ら瑞祥を説いて吉凶を占い、その結果を書物に記したり流言させたりした場合は遠流。その内容を伝え聞き利用した場合も同じ。惑わされた者が3人に満たない場合は、労役3年。実害がなかった場合、鞭たたき60。書物を持っていてもそれを利用しなかった場合は鞭たたき80。実害がなかった場合は30」
 
「養老律令」「職員令」による陰陽寮の構成
事務官
陰陽頭・・・1名:従五位下
助・・・1名:従六位上
允・・・1名:従七位上
大属・・・1名:従八位下
少属・・・1名:大初位上

教官・専門技官
陰陽師・・・6人:従七位上
陰陽博士・・・1名:正七位下
暦博士・・・1名:従七位上
天文博士・・・1名:正七位下
漏刻博士・・・2人:従七位下

(学生)
陰陽生・・・10人
暦生・・・10人
天文生・・・10人

守辰丁・・・20人
使部・・・20人
直丁・・・2人
 
陰陽師でもあった賀茂光栄(982年~1015年)の活動例は、81件(日時・方角禁忌の勘甲27件、占術20件、呪術(祓、反)・祭祀31件、その他3件)と少ないのだそうです。
安倍晴明とその他の陰陽師が合計で10倍~20倍の活動をしたとしても、陰陽師が何かをやれるのは20~30年間で2000件程度、年間で100~200件でしょう。 陰陽師の活動の対象が、朝廷・院の公事関係、天皇や皇太子・皇子・摂関・左右大臣・高位の官職者・地下官人の私事関係まであったのでは、それほどの日時・方角禁忌の陰陽を調べ伝えることは無理なように思えます。
 ~~~~~~~~~~~~~
 
10~11世紀の陰陽寮、陰陽師の実人員がわかりませんでした。
禁制もざる法になっていて、民間陰陽師が貴族に抱えられていたのかもしれませんが、安倍晴明=藤原道長お抱え、蘆屋道満=藤原顕光お抱えのようなことであれば、摂関家などの高級貴族にお抱えの陰陽師がその一族の長を占うのが精一杯なのかもしれないと、思うようになりました。
『内裏や摂政関白、左右大臣家関係の物忌みを、適用対象者や適用方法を決めて、暦のような感じで関係者に公表していた』と考えると、内裏に居住するものや内裏で昇殿が許されているものには、誰がどんな忌避にあたるのかは分かっていたと考えられるように思えて来ました。
 
帚木の光源氏、頭中将、左馬頭、藤式部丞の雨の夜話も、「内裏が物忌みであったこと」が原因(背景)のようです。
帚木で「今宵、中神、内裏よりは塞がりて侍りけり」や「いとあしきことなり」と女房たちが云っているのも、光源氏の個人的な禁忌事項のことではなくて、「内裏、左大臣邸、二条院が、ある人々には禁忌に該当する」ということを女房たちは知っていたようにも思えます。
 
陰陽師も、国政や日常の生活が止まるような不都合は禁忌として云わないでしょうから、『内裏や左右大臣邸は塞がる日と時間帯』と決める場合も、炊事給仕などに関係するもの、政治や行事関係者、行政各種の仕事関係者、警備関係者、祭祀関係者は、適用外としたり、適用回避が可能な方途が残るようにしたのではないかと思えて来ました。
 
藤原行政、源俊賢、藤原公任、藤原斉信やもっと実務に関わる人は、物忌みの必要がないか、簡単に回避できるように陰陽の結果が発表されていたのではないかと、想像し始めています。
左大臣が物忌みを口実に好き勝手にサボっているのではなくて、左大臣と蔵人頭とでは、適用される物忌みが違うように出ていたのではないかと、想像するのですが、いかがでしょうか。

2012/04/29 22:02:52
id:hathi

1991年9月「陰陽道叢書(1)古代」を一部拾い読みしたところ、物忌みも方違いも、そんなに単純なことではないらしいこと、方違いを「A⇒Cの方位が忌にあたる場合、進行する方位を変更してA⇒B⇒Cとすること」と単純に理解するのは間違いらしいようです。もともとは「特定の日の工事や行事が行われる場所が、自分の宿泊地から見た時に具合の悪い位置にあるとき、その日の自分の宿泊地を変更すること」であり、特定の日に工事地Cが良くない場所にあるとき、自分の家Aを出て、別のBに宿泊し、夜が明けたらすぐにAに戻るようなケースが多数あるようです。しかも、この忌を避けることが重要視されたのは氏の長者の責任であって他の者まで忌を回避する必要はなかったようです。院政期には、儀式になっていて、本人たちも心理的に気にしているとは限らず、一族の長が一族のために代表してやっているものという感じでいた人もいるようです。(1980年「院政期における方違い」岡本充弘)
物忌みも10~11世紀に流行りますが、「慎む」ことがポイントではなくて、その日(通常連続二日間)はm敷地を含め家ごとまるまる、外界から切り離し外界者との接触を一切断つことが厳重に守られたようです。だから、用がある人は、物忌みの始まる前日までにその家(や内裏)などに入ってしまい(=入った状態なので、もう外界の人ではなくなる)ようにする、すなわち、その家の物忌み期間に用事がある人には、前もって参籠するように求めることになるようです。物忌みに備えて前日までに関係者がぞろぞろ集まって籠もり世間話に打ち興じることも多かったのでしょう。それが高級貴族にとって当然の行為であれば、「明日○○では物忌みなので、今日中に参籠のために○○に行かなくてはならないので、今日はここでこの会議には失礼します」という退席・欠席の理由にも使えることのようだったらしいです。 物忌みは、(物忌みを必要とする事件の発生認知を出発点にして)病気災害を避けるための閉門蟄居を二日連続である期間(起きた事件や怪しいことのよって期間が決まる)繰り返すということのようです。しかし、11世紀以降は、末世という時代環境に影響されて吉凶を懸念する貴族と、これ幸いに商売に励んだ陰陽師の相乗効果で行きすぎになり、やがて言われるほどの物忌みはやってられないということになったようです。(1956年「物忌考」三和礼子)
 
教科書や辞典にありそうな曖昧な感覚で高校時代以降「物忌みや方違え」を考えていて、博物館で偶然見たものに、「え?」と感じたのですが、おもしろいので、今少し陰陽道関係の本を読もうと思います。
(補注:日本の陰陽道は、中国にあった陰陽学とは、あまり関係がないらしいです。日本の仏教が、インドとも、中国とも違ってしまったのと同様なのでしょう)

2012/05/06 10:42:04

その他の回答(1件)

id:NAPORIN No.1

なぽりん回答回数4697ベストアンサー獲得回数8612012/04/27 08:15:47

ポイント50pt

おっしゃるとおりではないでしょうか>左大臣の地位が高いため物忌みを口実にしまくっても誰も怒れない。特に道長は天皇のおじいさんで、天皇にももの申せるくらいの人物ですから、給料はいっぱいもらってるけど風邪引いたりして働きたくなければ「今日は物忌みだ!」ってずる休みできるでしょう。実際そういうふうにいいわけに使うこともしていたらしいです(源氏物語かなにかで堂々と休暇取得のいいわけに物忌みを使っているのを読んだことがあります)
 
かたちがえって、今で思うと、外務大臣が韓国から直接北朝鮮に入ることが政治的にはできなくて、一回中国に立ち寄るとかそういう話ですよね。
そう思うと、替えが聞く小物の官僚とか普通のビジネスマンは、そもそもそんな移動コースにならないようにこまめに移動プランをたてておくものと思われます。前日に内裏入りしてとまっておけば、物忌みが発生する当日にも最初から内裏に居られるから移動しなくてすむぞ、とかね。
 
さらに、蔵人がしらという職業について思うのですが、最近、うた恋いという百人一首に関する漫画、その在原業平の物語をよみました。かれも蔵人頭だった間がありますが、幼い陽成院の母にひきたてられてその地位につき、陽成院にずっとつきそって歌や作法やもののことわりをおしえるのがメインの役目というようにかかれていたので、たしかにずっと泊まり込むのも普通にアリだったのかなーとか。

id:hathi

ありがとうございました。
平安の10~11世紀の、
五位以上の人たちがどうだったのかの、一般的傾向。
官僧はどうしていたのかの、一般的傾向。
中央官庁の役人の実務を担っていた六位以下の役人の一般的傾向
でなにか、ご存じのことがありましたら、よろしくお願いします。
女や子供に関してでも結構です。

2012/04/29 18:40:52
id:maya70828 No.2

楽1978回答回数1364ベストアンサー獲得回数1392012/04/28 16:28:00ここでベストアンサー

ポイント150pt

物忌・方違の理由として些細なことであること、不訪の口実にしてたことから、No.1の回答者のおっしゃるとおりです。
「御堂関白記」から道長の物忌や方違の回数が分かるみたいです。

「第三章 安倍晴明の活躍した平安時代とはどんな時代であったか」を参照。
(ページ内検索で方違と調べるとさらにわかりやすい)
http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei2/semi/soturon/2000soturon/2000soturon3.htm

不訪の口実(要Adobe Reader)
https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:7WdZ3cOpZEQJ:ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/file/1161/20100125182443/BG40037000001.pdf+%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7+%E3%80%80%E3%80%80%E7%89%A9%E5%BF%8C%E3%81%BF%E5%88%86%E6%9E%90&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESh6T-36A8B2hfuNfnOaq5261ePLhw4fmGSctaegbd-pwOoi8-e67oYxNzWIUD0FO-2MWSFsJpSSojG4tI930sxBCXk4LVw6vEpz5KJfbl5Var0U-0DSGpGyH1x65jCFzI8W9p3X&sig=AHIEtbS-XK-qtb9rV8snIdQwmoF_N1oqfA

書籍ではこの本が参考になります。
http://www.izumipb.co.jp/izumi/modules/bmc/detail.php?book_id=3060&prev=search

その他参考サイト
http://blog.goo.ne.jp/zatsudankun/c/de10484276849156d3a8692d8e2e03b8
http://reservata.s61.xrea.com/akitu/8-heian9.htm

id:hathi

詳しい情報をありがとうございます。 紹介いただいた書籍は高いこと近所の図書館にもないことからまだ読めていません。
そこで、自分でも探ってみました。
「物忌みはどうされていたのか(誰が誰にどのように物忌みを示していたのか)」という視点で探ってみました。
 
陰陽を調べたり、告げたりする行為は、厳格に制限されていたようです。
 
陰陽寮関係者以外が陰陽道を学び、技能を用いることを固く禁じていたそうです。
「名例律」37条:「天文を独習した者は、自首しても罪を軽減しない」
「職制律」20条:「天体観測のための器物、天文・陰陽関係図書、占術関係の器物、兵法書の私有を禁止する。違犯したものは労役1年。独自に学習する事も禁止。五経の緯書などの所持は許可する」
「賊盗律」21条:「自ら瑞祥を説いて吉凶を占い、その結果を書物に記したり流言させたりした場合は遠流。その内容を伝え聞き利用した場合も同じ。惑わされた者が3人に満たない場合は、労役3年。実害がなかった場合、鞭たたき60。書物を持っていてもそれを利用しなかった場合は鞭たたき80。実害がなかった場合は30」
 
「養老律令」「職員令」による陰陽寮の構成
事務官
陰陽頭・・・1名:従五位下
助・・・1名:従六位上
允・・・1名:従七位上
大属・・・1名:従八位下
少属・・・1名:大初位上

教官・専門技官
陰陽師・・・6人:従七位上
陰陽博士・・・1名:正七位下
暦博士・・・1名:従七位上
天文博士・・・1名:正七位下
漏刻博士・・・2人:従七位下

(学生)
陰陽生・・・10人
暦生・・・10人
天文生・・・10人

守辰丁・・・20人
使部・・・20人
直丁・・・2人
 
陰陽師でもあった賀茂光栄(982年~1015年)の活動例は、81件(日時・方角禁忌の勘甲27件、占術20件、呪術(祓、反)・祭祀31件、その他3件)と少ないのだそうです。
安倍晴明とその他の陰陽師が合計で10倍~20倍の活動をしたとしても、陰陽師が何かをやれるのは20~30年間で2000件程度、年間で100~200件でしょう。 陰陽師の活動の対象が、朝廷・院の公事関係、天皇や皇太子・皇子・摂関・左右大臣・高位の官職者・地下官人の私事関係まであったのでは、それほどの日時・方角禁忌の陰陽を調べ伝えることは無理なように思えます。
 ~~~~~~~~~~~~~
 
10~11世紀の陰陽寮、陰陽師の実人員がわかりませんでした。
禁制もざる法になっていて、民間陰陽師が貴族に抱えられていたのかもしれませんが、安倍晴明=藤原道長お抱え、蘆屋道満=藤原顕光お抱えのようなことであれば、摂関家などの高級貴族にお抱えの陰陽師がその一族の長を占うのが精一杯なのかもしれないと、思うようになりました。
『内裏や摂政関白、左右大臣家関係の物忌みを、適用対象者や適用方法を決めて、暦のような感じで関係者に公表していた』と考えると、内裏に居住するものや内裏で昇殿が許されているものには、誰がどんな忌避にあたるのかは分かっていたと考えられるように思えて来ました。
 
帚木の光源氏、頭中将、左馬頭、藤式部丞の雨の夜話も、「内裏が物忌みであったこと」が原因(背景)のようです。
帚木で「今宵、中神、内裏よりは塞がりて侍りけり」や「いとあしきことなり」と女房たちが云っているのも、光源氏の個人的な禁忌事項のことではなくて、「内裏、左大臣邸、二条院が、ある人々には禁忌に該当する」ということを女房たちは知っていたようにも思えます。
 
陰陽師も、国政や日常の生活が止まるような不都合は禁忌として云わないでしょうから、『内裏や左右大臣邸は塞がる日と時間帯』と決める場合も、炊事給仕などに関係するもの、政治や行事関係者、行政各種の仕事関係者、警備関係者、祭祀関係者は、適用外としたり、適用回避が可能な方途が残るようにしたのではないかと思えて来ました。
 
藤原行政、源俊賢、藤原公任、藤原斉信やもっと実務に関わる人は、物忌みの必要がないか、簡単に回避できるように陰陽の結果が発表されていたのではないかと、想像し始めています。
左大臣が物忌みを口実に好き勝手にサボっているのではなくて、左大臣と蔵人頭とでは、適用される物忌みが違うように出ていたのではないかと、想像するのですが、いかがでしょうか。

2012/04/29 22:02:52
id:hathi

1991年9月「陰陽道叢書(1)古代」を一部拾い読みしたところ、物忌みも方違いも、そんなに単純なことではないらしいこと、方違いを「A⇒Cの方位が忌にあたる場合、進行する方位を変更してA⇒B⇒Cとすること」と単純に理解するのは間違いらしいようです。もともとは「特定の日の工事や行事が行われる場所が、自分の宿泊地から見た時に具合の悪い位置にあるとき、その日の自分の宿泊地を変更すること」であり、特定の日に工事地Cが良くない場所にあるとき、自分の家Aを出て、別のBに宿泊し、夜が明けたらすぐにAに戻るようなケースが多数あるようです。しかも、この忌を避けることが重要視されたのは氏の長者の責任であって他の者まで忌を回避する必要はなかったようです。院政期には、儀式になっていて、本人たちも心理的に気にしているとは限らず、一族の長が一族のために代表してやっているものという感じでいた人もいるようです。(1980年「院政期における方違い」岡本充弘)
物忌みも10~11世紀に流行りますが、「慎む」ことがポイントではなくて、その日(通常連続二日間)はm敷地を含め家ごとまるまる、外界から切り離し外界者との接触を一切断つことが厳重に守られたようです。だから、用がある人は、物忌みの始まる前日までにその家(や内裏)などに入ってしまい(=入った状態なので、もう外界の人ではなくなる)ようにする、すなわち、その家の物忌み期間に用事がある人には、前もって参籠するように求めることになるようです。物忌みに備えて前日までに関係者がぞろぞろ集まって籠もり世間話に打ち興じることも多かったのでしょう。それが高級貴族にとって当然の行為であれば、「明日○○では物忌みなので、今日中に参籠のために○○に行かなくてはならないので、今日はここでこの会議には失礼します」という退席・欠席の理由にも使えることのようだったらしいです。 物忌みは、(物忌みを必要とする事件の発生認知を出発点にして)病気災害を避けるための閉門蟄居を二日連続である期間(起きた事件や怪しいことのよって期間が決まる)繰り返すということのようです。しかし、11世紀以降は、末世という時代環境に影響されて吉凶を懸念する貴族と、これ幸いに商売に励んだ陰陽師の相乗効果で行きすぎになり、やがて言われるほどの物忌みはやってられないということになったようです。(1956年「物忌考」三和礼子)
 
教科書や辞典にありそうな曖昧な感覚で高校時代以降「物忌みや方違え」を考えていて、博物館で偶然見たものに、「え?」と感じたのですが、おもしろいので、今少し陰陽道関係の本を読もうと思います。
(補注:日本の陰陽道は、中国にあった陰陽学とは、あまり関係がないらしいです。日本の仏教が、インドとも、中国とも違ってしまったのと同様なのでしょう)

2012/05/06 10:42:04

コメントはまだありません

この質問への反応(ブックマークコメント)

「あの人に答えてほしい」「この質問はあの人が答えられそう」というときに、回答リクエストを送ってみてましょう。

これ以上回答リクエストを送信することはできません。制限について

絞り込み :
はてなココの「ともだち」を表示します。
回答リクエストを送信したユーザーはいません