http://kotobank.jp/word/始めに言葉ありき
有名な聖書の言葉で「はじめに言葉ありき」というのがあります。
新約聖書のヨハネ福音書です。
旧約の創世記では、神が言葉を発し、その命令で天地が創造されます。
天地創造の六日目、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地に這うものすべてを支配させよう。」と神がいうと、人間が作られます。
有名どころですが、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』ではないでしょうか。
「すなわち、年長者たちが或るものの名を呼び、その音声に従って、身体を或るものの方へ動かしたとき、私は、そのものを私に示そうと思う際には、彼らはその発する音声によってそのものを呼ぶということを見て、覚えた。彼らがそのものを私に示そうとすることは、いわば万民共通の自然の言語によって明らかであった。そしてこの言語は、顔つき、目つき、その他四肢の動き、音声の響きからできていて、もの求め、手に入れ、斥け避けようとする心の動きを示すものである。このように、いろいろな言葉がさまざまな文句のうちにしかるべきところで用いられているのをしばしば聞いて、私はそれらの言葉がどのようなものの符号であるかを推知するようになった。そして私の口はそれらのしるしに慣れてきて、私はもう自分が心に思うところそれらによって告げるようになった。」
私の思うに、人間の言語の本質について、この文章は一つのはっきりした像を示してくれる。すなわち、言語に含まれている語の一つ一つが何らかの対象を名指しており、文章はそのような名称の結合である、というのである。この言語像のうちに、次のような見解の根源があるといえよう。すなわち、どの語も一つの意味を持つ、この意味と語との間に対応の関係がある、意味とは語が代表する対象のことである、というものである。
語の種類別については、アウグスティヌスは語らない。言語の学習をこのように記述する人は、おそらく「机」「椅子」「パン」といった名詞や人々の名前のことをまず思い、二番目にやっと或る種の動作や性質の名について考え、残余の種類の語については、なるようになると考えているのではないであろうか。
次のような言語使用のこと考えてみよう。私が誰かを買い物にやる。彼に「赤いリンゴ五つ」という記号の書いてある紙片を渡す。彼がその紙片を商人のところに持って行くと、商人は「リンゴ」と記された箱を開け、次いで目録の中から「赤い」という語を探し出して、それに対応している色見本を見つける。それから彼は基数の系列―それを彼は諳んじていると仮定する―を「五」という語まで口に出し、それぞれの数を口に出すたびにサンプルの色をしたリンゴを一つずつ箱から取り出す。―このように、あるいはこれと似た仕方で、人は言語を繰るのである。―「しかしこの商人は、どこでどのようにして<赤い>という語を調べたらよいか、また<五つ>という語に対してどう反応したらよいか、をどうやって知るのだろうか。」―私はただ、いま述べた通りに彼が振る舞うと仮定している。説明はいずれどこかで終わるものである。―しかし「五つ」という語の意味は何なのか。―そういうことはここでは全く問題なっていない。どのように「五つ」という語が使われるか、ということだけが問題である。(『哲学探究』第一部一節)
人類学者のテレンス・ディーコンは、言語は人間の脳と共進化していったという説を唱えています。
ディーコンによれば、シンボル言語は、人類の脳に寄生して進化する寄生種であるというのですね。シンボル言語の原初形は、どの生物種にも寄生する機会があったが、非言語的な交信や非シンボル的な言語で交信することを進化させていた生物の脳には寄生できなかった、とのこと。そして、言語はヒトの脳に寄生して、脳と共進化していったというのです。
詳しくは、ディーコンの著書『ヒトはいかにして人となったか』(新曜社)を参照してください。
ありがとうございます。シンボル言語というものがあって、それが脳に寄生したという考えですね。意外とそんなものかもしれませんね
たしかにこれもそうですね。
2012/07/31 15:01:11