「勇気」と言われている本質は?

「勇気を出して」とか、「勇気ある行動」とか言われるかなりは、本当は「狂気」や「度胸」のいいゴマカシではないでしょうか。
苦しんでいる人や、困っている人に援助の手を差し伸べること、誤った事を正す、正しいと思うことを実行したり、教えたり事は「勇気」だと思いますが、自分・他人を傷つけたり・殺したり、「利己の為」騙したり、誤りを教えたりする事は・・・かなり多くの事が「勇気」と言う言葉で美化され誤魔化されて、認識・誤用されているとおもいますが、どうでしょう。

回答の条件
  • 1人2回まで
  • 登録:2013/04/06 16:01:36
  • 終了:2013/04/10 19:40:39

ベストアンサー

id:inugamikoubouathangul No.9

犬神工房回答回数25ベストアンサー獲得回数72013/04/07 09:22:52

ポイント50pt

全く意外なことを言うかも知れませんが、『勇気』を支えている要素には、『積極性』はもちろんのこと、案外無視できない要素として『自制心』があるんじゃないかと最近思っています。

自制心は「何らかのやりたいことを我慢してしない」能力で、一見勇気とは関係ないように見えます。
特に勇気というのは「何らかのやりたくないことを頑張ってやる」だから、自制心とは逆に見えますね。

でも、人は普通は「やりたいこと(動機)」、あるいはその代わりとなる「予測上・計画上やった方がいいこと」がいくつもあって、でも実際にできる行動は一回に一つだけで、他はすべて我慢しなければならないわけです。
我慢することの中には恐怖や嫌悪や苦痛や疲労も含まれます。つまり、「一個だけやりたいこと、やった方がいいことをやって、それ以外は全部我慢する」、という積極性と自制心が勇気なのだと思います。『積極性』は勇気の表で、『自制心』は勇気の裏ということですね。

じゃあ積極性はどこから来ているのかというと、まずは動機です。あと気質(性格の感情面。生まれつきで遺伝する)が動機を支えている場合は、気質もそうですね。
そういう気質や動機にあまり恵まれていない時に、それに伴う恐怖等を抑え付けて、問題に立ち向かう、というのも勇気の一つの要素です。結局はここも自制心が働くのです。(重要ですが、何らかの消耗によって積極性が本当にほとんどない時は、この手は使えません。無い袖は振れないのです)

ただ、自制心のない気質や動機は、ただ積極的なだけで、それが破壊的に働くことを止められないので、勇気と呼ぶには適さないのだと思います。
勇気とは難しい問題に踏み込んで解決するような性質を持つものなので、破壊的に働いてしまうようでは、みんなはそれを勇気とは言わないでしょうね。昔のRPG風に言うと、魔王を倒そうとせずに村の家屋から略奪だけ行う勇者は勇者ではないという。

また、勇気と道徳の関係がちょっと上の方で出ていましたが、道徳は勇気と自制心とその他から出来ているのではないかと思います。
道徳は「この先自分や他人が困る」から、「それを解決・防止するために」「ちょっと頑張ってこれをしよう」または「我慢してこれはしない」ということのリストだと思います。つまり、『道徳』は『勇気』と『自制心』とその他(『問題解決』や『利他性』など)で出来ているということなのだと思います。

ただ、ということは、道徳は勇気や自制心に依存しますが、勇気や自制心そのものは道徳と関係ないものも含まれうるということです。
なので、おそろしいことに、利己的かつ他者危害的な、もしくは単に自己を害するだけの、そんな勇気や自制心がありうるのです。
たとえば自殺は勇気か? 本人は本人なりに問題解決のためにやっているんで、百歩譲って勇気だとしましょう。でもこれは明らかに自己危害的で、場合によっては他人も泣いたり困ったりするので、そういう勇気は道徳的とは思いません。そういうことです。

id:tazikisai-mukou

「しなければいけないこと」を「する」のと同じように「してはいけないと思うこと」を「しない」のも『勇気』思います。

2013/04/07 10:18:08

その他の回答(11件)

id:drakiti63 No.1

なごやん63回答回数417ベストアンサー獲得回数382013/04/06 16:15:29

ポイント10pt

おっしゃるとおりです。同感です。

id:gm91 No.2

GM91回答回数1007ベストアンサー獲得回数882013/04/06 16:19:50

ポイント15pt

勇気と呼ぶか蛮勇とか度胸とよぶかは経緯や内容によりますが、混用されていたり意図的に言い換えられていたりすることはよくありますね。

id:takejin No.3

たけじん回答回数1475ベストアンサー獲得回数1902013/04/06 17:10:48

ポイント25pt

あと一歩を踏み出すのに、なにかラベルが必要。
それを、勇気という言葉にして、楽に一歩を踏み出させる。
「覚悟」というと、できてない。
「責任」というと、後がいや。
「度胸」というと、持ってない。
「狂気」というと、敬遠する。
「元気」というと、勘違い。
「頑張れ」では、自分が動かない。
奮い立たせるには、ちょうどいいラベルなのだ。

「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」
が、その内容そのものであろうと推測されるのだが。

id:TAK_TAK No.4

tak回答回数995ベストアンサー獲得回数822013/04/06 17:50:56

ポイント15pt

芥川羅生門からモラルとエゴイズムの矛盾を見る(3)


「下人の心には、ある勇気が生まれて来た。」これは何の勇気でしたか?



太宰メソッドと同じですね

id:Lhankor_Mhy No.5

Lhankor_Mhy回答回数779ベストアンサー獲得回数2312013/04/06 17:59:26

ポイント50pt

 質問文より

自分・他人を傷つけたり・殺したり、「利己の為」騙したり、誤りを教えたりする事は・・・かなり多くの事が「勇気」と言う言葉で美化され誤魔化されて、認識・誤用されている

とありますので、「『勇気』とは倫理や道徳として正しいことに用いられるものである」とお考えであるようにお見受けしました。
 
 しかし、それは本当でしょうか。悪徳のために自分の意志を貫くことについて「勇気」と表現してはいけない、という道理はないように思います。正義の味方しか「勇気」を奮ってはいけないということもないでしょうし、強い意志の元に行われる悪もあるでしょう。
 
 wikipediaによりますと、

恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり

勇気 - Wikipedia

 とあります。現代風に言うと「リスクアセスメント」でしょうか。ここから「勇気」とは、善悪と関わりのない認知行動、であると解釈できます。
 さらに言えば、「リスクアセスメント」が正しい評価かそうでないか、という問題も含んでいます。リスクを過小評価してしまうといわゆるリスクテイキングな「蛮勇」になるということです。
 
 まとめますと「勇気」には大きく4つのタイプがあると考えられます。

  • 倫理的に良い行動に用いられる正しい評価の「勇気」
  • 倫理的に良い行動に用いられる間違った評価の「勇気」
  • 倫理的に悪い行動に用いられる正しい評価の「勇気」
  • 倫理的に悪い行動に用いられる間違った評価の「勇気」

 このどれもが「勇気」であるという認識がまず必要なのではないでしょうか。

id:tazikisai-mukou

{「『勇気』とは倫理や道徳として正しいことに用いられるものである」とお考えであるようにお見受けしました。}
===> 『勇気』≒『正義・正しい事(行動・発言等』とも思っていません。

2013/04/06 18:51:09
id:Lhankor_Mhy

そうですか。そうであるなら、殺人などのために勇気を出すというのも、特に誤用ではないと思われますので、別に問題ないのではないでしょうか。

2013/04/06 19:03:04
id:adgt No.6

adgt回答回数944ベストアンサー獲得回数662013/04/06 18:46:08

ポイント20pt

勇気とは、内的には恐怖心を踏み越え心の箍を外して一歩を踏みだすことであり、外的には他者一般が行わない行為や躊躇する行為を実行することです。そこに、正誤性や善悪のベクトルは存在しません。悪行を成すための勇気もあれば、善行を成すための勇気もあると考えます。

id:nasubi-AAA

同感。

2013/04/07 07:03:20
id:ryo01523k No.7

¢huukaze¢回答回数263ベストアンサー獲得回数212013/04/06 18:53:37

ポイント10pt

確かにその通りだと思います
やはり、言葉は気をつけて使わないといけないですね

id:tazikisai-mukou

私は「勇気」の語源が「言う気」または「云う気」からきている思っています。(それを実行する行動)
だから、自分の考えを言行、文字や絵など相手に理解させる行動、当然考えが正しいかどうかは自分自身の判断が優先するので、それが結果的に良くなかったり、周りにとって利益にならなかったりもします。
ただ、言うだけなので、大きな反感や脅威がないといえば、そうではありません。正しいと思って、注意したら刺されたとか、恨まれたり、不当な扱いを受ける事もあります。特に政治・行政やマスコミ関係は言う・書くだけでも相当の覚悟が必要でしょうね。
私は基本的な「勇気」の例えとして、おじいさんが無点等で夜中走っていたときに、その孫が「電気ついてないよ、あぶないよ。」と言える雰囲気を普段からつくる事が、「勇気を育む」事だと思います。、

id:rsc96074 No.8

rsc回答回数4398ベストアンサー獲得回数4032013/04/06 21:58:17

ポイント25pt

 そうかも知れないですね。自分で自分を誤魔化したり、人に唆されたりしないように注意しないといけないですね。(^_^;
 こちらは参考になるでしょうか。
●本田宗一郎の名言・格言|本当の勇気とは

勇気というのは強いからとか、勇ましいから勇気があるというのではない。たとえ、自分にとってどんなに不利な結果になろうとも、自分が真実であり、妥当であると考えたことを認め、それに賛成することこそが勇気である。

http://systemincome.com/5683
●第52回 自己正当化の圧力 | ワイアードビジョン アーカイブ
http://archive.wiredvision.co.jp/blog/masui/201102/201102101330.html

id:inugamikoubouathangul No.9

犬神工房回答回数25ベストアンサー獲得回数72013/04/07 09:22:52ここでベストアンサー

ポイント50pt

全く意外なことを言うかも知れませんが、『勇気』を支えている要素には、『積極性』はもちろんのこと、案外無視できない要素として『自制心』があるんじゃないかと最近思っています。

自制心は「何らかのやりたいことを我慢してしない」能力で、一見勇気とは関係ないように見えます。
特に勇気というのは「何らかのやりたくないことを頑張ってやる」だから、自制心とは逆に見えますね。

でも、人は普通は「やりたいこと(動機)」、あるいはその代わりとなる「予測上・計画上やった方がいいこと」がいくつもあって、でも実際にできる行動は一回に一つだけで、他はすべて我慢しなければならないわけです。
我慢することの中には恐怖や嫌悪や苦痛や疲労も含まれます。つまり、「一個だけやりたいこと、やった方がいいことをやって、それ以外は全部我慢する」、という積極性と自制心が勇気なのだと思います。『積極性』は勇気の表で、『自制心』は勇気の裏ということですね。

じゃあ積極性はどこから来ているのかというと、まずは動機です。あと気質(性格の感情面。生まれつきで遺伝する)が動機を支えている場合は、気質もそうですね。
そういう気質や動機にあまり恵まれていない時に、それに伴う恐怖等を抑え付けて、問題に立ち向かう、というのも勇気の一つの要素です。結局はここも自制心が働くのです。(重要ですが、何らかの消耗によって積極性が本当にほとんどない時は、この手は使えません。無い袖は振れないのです)

ただ、自制心のない気質や動機は、ただ積極的なだけで、それが破壊的に働くことを止められないので、勇気と呼ぶには適さないのだと思います。
勇気とは難しい問題に踏み込んで解決するような性質を持つものなので、破壊的に働いてしまうようでは、みんなはそれを勇気とは言わないでしょうね。昔のRPG風に言うと、魔王を倒そうとせずに村の家屋から略奪だけ行う勇者は勇者ではないという。

また、勇気と道徳の関係がちょっと上の方で出ていましたが、道徳は勇気と自制心とその他から出来ているのではないかと思います。
道徳は「この先自分や他人が困る」から、「それを解決・防止するために」「ちょっと頑張ってこれをしよう」または「我慢してこれはしない」ということのリストだと思います。つまり、『道徳』は『勇気』と『自制心』とその他(『問題解決』や『利他性』など)で出来ているということなのだと思います。

ただ、ということは、道徳は勇気や自制心に依存しますが、勇気や自制心そのものは道徳と関係ないものも含まれうるということです。
なので、おそろしいことに、利己的かつ他者危害的な、もしくは単に自己を害するだけの、そんな勇気や自制心がありうるのです。
たとえば自殺は勇気か? 本人は本人なりに問題解決のためにやっているんで、百歩譲って勇気だとしましょう。でもこれは明らかに自己危害的で、場合によっては他人も泣いたり困ったりするので、そういう勇気は道徳的とは思いません。そういうことです。

id:tazikisai-mukou

「しなければいけないこと」を「する」のと同じように「してはいけないと思うこと」を「しない」のも『勇気』思います。

2013/04/07 10:18:08
id:Sampo No.10

Sampo回答回数556ベストアンサー獲得回数1042013/04/07 22:51:12

ポイント25pt

質問者様のお考えは大いにわかりますが、私は少し違う考えを持っています。

ある行動の動機を「勇気」と呼ぶかどうかは、あとから決まるのではないかと。
これ、ある継続的な行動を「努力」と呼ぶかどうかがあとから決まるのと似ていると思います。

溺れている人を助けに飛び込んだ人は、きっとそのとき緊急事態が頭が真っ白だったと思います。気付いたら助けてたみたいな。あとから、勇気ある行動だったと表彰されるんです。

頭が真っ白でなく、決断の末にやったことでも、結果次第で「勇気」になったり「勇み足」とされたりしますよね。

決断を要する行為で、かつ結果か目的が賞賛に値するものだったら、賞賛する立場の人がそれを勇気と呼ぶ、そんな感じの解釈です。

id:senami3 No.11

※AUDIOOFF※回答回数37ベストアンサー獲得回数12013/04/08 14:39:26

ポイント10pt

簡単な回答ですが、同感です。

id:tutakun No.12

я回答回数93ベストアンサー獲得回数162013/04/08 15:11:06

ポイント10pt

まさにあなたの言うとおりです。

むやみに危険をおかしたりするのは勇気ではありません。

これ、武士道にもあるんですよね

  • id:taknt
    あるものを 美化していうと 勇気、少し悪くいうと 度胸。
  • id:tazikisai-mukou
    皆さん、貴重なご意見有難うございます。
    お気付かれの事と思いますが、質問内容は「全くの私見」です、他の方の見方や考え方を否定も肯定もしません。(同調も求めませんし、押し付けもしません)
    「勇気」と思う行為の補足として、自分の知らない事や曖昧に思っている事を他の人に尋ねたり、教えてもらう事も必要だと思います。
    『義を見てせざるは勇なきなり』と言う諺がありますが、それと勇気との結びつけ・思い込みは強すぎる感があります。「義」の捉え方は人それぞれですし、例えば日中両国の関係悪化を考慮せずに魚釣島の(都有)国有化を言い出した(実行した)行為や、大阪桜島高校の入試問題処理など、後先を考えなく、全く「義憤」を実行したに過ぎません。
    また、「『勇ましい』言動をする『気持ち』」が全て『勇気』に当たりません。
    『勇気』と言う言葉が悪用されない事を願います。
  • id:tazikisai-mukou
    少し、早いかもしれませんが、終了します、評価は「気分しだい」で付けました。
    ご不満もおありの方もおられるかもしれませんが。

この質問への反応(ブックマークコメント)

「あの人に答えてほしい」「この質問はあの人が答えられそう」というときに、回答リクエストを送ってみてましょう。

これ以上回答リクエストを送信することはできません。制限について

絞り込み :
はてなココの「ともだち」を表示します。
回答リクエストを送信したユーザーはいません