思ったことをエントリで書きしました
http://tenku65820.hatenablog.com/entry/2014/08/30/015801
質問から、最近読んで面白いと思ったこの記事のことを思い浮かべました。人類は数万年かけてテストステロン値の低い個体を選んできた、という内容です。リンク先では書いていませんが、コミュニケーション能力が低い人はテストステロン値が高いという話はよく聞きます。
私もコミュニケーションはちょっと苦手な方だと思います、初対面の人とかだととくに話せなくなってしまうことがあります(声自体が出せなくなる事もまれにあります)。
そしてコミュニケーション能力は、相手に安心してもらうためにも大事なんじゃないかなと思います。
上にも書きましたように私は初対面の人と話したりするのがとくに苦手なのですが、その時に相手の人が気さくに(自然に?・・・といいますか話しやすい雰囲気で)話しかけてくれるとこちらも緊張せずに話せることが多いです。
逆に相手も緊張してしまっているとこちらもさらに緊張してしまって、「どうしよう」という気持ちが大きくなってしまってうまく話すことができなくなります。
職場とかでは仕事を共有して進めていくのにもコミュニケーション能力が必要なのだということが下記で書かれていました。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064000.htm
・職場のコミュニケーション
職場のコミュニケーションには目的と意味がある
回答有難うございます
確かに組織を回していくのに必要なコミュニケーションはあるでしょうね
空気読める=コミュニケーション能力高いと考えるのは間違いでしょう。
コミュニケーション能力とは自分の意思を他人に正確に伝える能力であって、空気を読んで自分の意思を隠すのであればコミュニケーション能力が低いのだと思います。
あなたの言うコミュニケーション能力が低いは、社交性が低いであって、
お題の質問は「社交性ってなんでそんなに大事なんですか?」の方がしっくりくると思います。
そして、私が考える答えですが、
「孤立感を感じない人間に社交性なんて不要ですから、個人が感じる孤立感の重みに比例して社交性の重要性が増す。大事かどうかは自分次第。」です。
回答有難うございます
指摘のとおりです。社交性とコミュニケーション能力をごっちゃにして、日本的な完璧感で少しでも足りてないと総叩きにされるのが嫌ですね
私もとてもコミュニケーション能力は低いです。
No.3さんが仰るとおり、空気読める=コミュニケーション能力低い、ではないと思います。
学生時代を思い出してみると良いと思います(質問者様の年齢はわかりませんが…)。
クラスで色々な人と話している、誰から見てもコミュニケーション能力高そうな人は、だいたい空気を読めていません(偏見かもしれませんが)。
逆に物静かな人ほど、周りをよく見ることができます。
といったところで、本題に戻りますが、物静かな(コミュニケーション能力は低い)人は、他人を不快にさせることは少ない。しかしそのせいで親密度は殆ど上がらないでしょう。
ですから、親密度を求める場合ならばコミュニケーション能力の高い人が求められます。
しかし、その場しのぎで不快にさせないことが一番である場合は、コミュニケーション能力は低い人のほうが向いているのではないかと思います。
回答有難うございます
空気読めてなくても、空気を創りだして、その空気を自分のものにしてしまう能力なのでしょうね
物静か=不快にさせないという簡単な構図でもないような気がします
コミュニケーションが取れなければ人との意思の疎通ができなくなります。
程度にもよりますが、社会生活に支障が出てしまいます。
企業などでは近年学歴よりもコミュニケーション能力を重視するところも増えて来ています。
回答有難うございます
そうですね。コミュニケーション能力のない人がどんどんおいやられています
別にコミュニケーションなどしない人もいていいとおもいます。
たとえば、灯台守、あるいは南極越冬隊のような、情報から隔絶されがちな人も職業としてありです。
作文など集中しているときにピンポンとやってくる飛び込み営業なんてマジ邪魔でしかありません。
ただし、コミュニケーションには2つの側面があり、
1.相互グルーミングによる地位確認 まあ無視していいかも
2.純粋な情報交換 こちらは無視すると自分がこまる
情報交換については、受信だけなら新聞やネットが万能発信者ですが、受信だけに特化してしまい発信スキルをあまりにも捨てると、いざ「灯台からみえた、30分後に津波がくる」とかみんなに知らせたくなったときに発信できなくてこまることがあり得ます。
クウキヨメという言葉があり、これちょっと私はマウンティングのようであまり好きになれないのですが、「受信・発信プロトコルを守れ」という部分だけであれば、受容できる部分もあります。
とはいえ義務教育の「読み書きそろばん」程度で充分、聞く耳もたないやつが悪いというのも正論といえば正論かもですが、今は寺子屋ではなく学校教育ですしやっぱりコミュニケーション能力は必要という判断ですよね…
ピンポンがなったとしても必ずすべてが飛び込み営業じゃなくて警察が住民調査に来ていたり、雨が降っているのに洗濯物が干されている、台所から臭い煙が立っているなどとしらせてくれようとしている場合もあり得ます。
無視、居留守や無碍に追い返すなどといった対応をするとのちのち自分が困った目に会いそうです。
コミュニケーションは最低限まで絞ってもよいが情報交換は捨ててはいけない。
余裕があれば相互グルーミングもできれば少しずつ自分を理解してもらえて心地よく暮らせる。というのが社会の大多数をなすコミュニケーション重視派の言い分だとおもいます。
ま、主婦業なんて全部コミュニケーションみたいなもんです…
回答有難うございます
すごいですね。ないので、辛いですね・・
コミュニケーション能力は、人それぞれの考え方によって必要だったり、いらなかったりします。
なぜコミュニケーションは必要なのか?
http://blog.livedoor.jp/hide19691030/archives/1581834.html
引きこもり活用しない不合理な社会 コミュニケーション能力重視が日本を滅ぼす?
http://himo2.jp/1463800
回答有難うございます
なかなか厳しいですね・・
ブログを拝見する限り、質問者の方が、コミュニケーション能力に欠けるとは思っていませんが。。。
私自身は、コミュ障までは行かないと思いますが、コミュニケーション弱者ではあります。人様の言いたいことを把握するのや思ったことを伝えるのが苦手です。それでいつも失敗するんですよ(笑)
さて、いわゆる、はてな村なんかでは、ケンカをしたり慰め合ったり、ユーザー同士の距離が近いかんじがします。そういうコミュニティでは、コミュニケーションに割かれるエネルギーってものすごいですよね。ホント疲れます。でもときどき楽しいです。
こういうコミュニティと付き合うコツは、腹八分目にすることなのではないでしょうか。
楽しむだけ楽しんで、人間関係がめんどくさくなってきたら適当なところで切り上げて、しばらく近づかない。
で、また興味が湧いてきたら出戻る(笑)
それくらいの距離感で、疲れない程度に付き合えば、楽しいのだと思います。
はてな村の実力者になろうなどという野望がなければですけれど。
はてな村にこだわらないのであれば、もっとユーザー関係の距離が大きいコミュニティや自分に合ったコミュニティを探して、居心地良く過ごす手もあるかもしれません。
とにかく、コミュニケーションを負担に感じるなら、正面から受け止めないことです。ほどほどで良いと思うんですよ。休み休みで。
回答有難うございます
原因ははてな村ではないのですけれどね
適切な距離感。参考になります。ありがとうございました
考えていることは口に出さないと相手に伝わらないのでございます。気持ちは表情から分かるという方もおられましょうが実際のところ口に出してみないと本当のところは分からないものでございます。
コミュニケーション能力が低いとお悩みの方は難しく考えすぎなのではございませんでしょうか。
小さな声でもぼそぼそしゃべってでも構わないのでまずは「おはようございます。」という挨拶と「ありがとうございます。」というお礼を口にするところから始めて見ればよろしいのではないかと存じます。
回答有難うございます
挨拶はするようにしていますが、冷たくされることが多いです
発言内容も日本という村社会からずれていて、結果孤立します
コミュニケーション能力は大事だと思いますが、全ての社会人に求めようとするのは、コミュ力の氾濫のようなモノを感じます。就職面接等々で多くの会社で求められるのは、大手就活斡旋会社が、面接の様式なども販売しているという噂を聞いたことがあります。
人間集団が出来た時に、それらを円滑に回す意味で、コミュニケーション能力が高い人がいるのは、必要なことだと思いますが、現代人が持つべき平均ステータスとしての「コミュ力」を求めるのは、逆にコミュニケーション能力が失われているように思えます。
私の結論を書いてみると、色んな人と柔軟に話せるという意味でのコミュニケーション能力は、世の中にとって必要であっても、それを苦手とすると人、得手不得手があるということを、皆で認め合った方が、気持ち安い世の中になるのじゃないか?と思います。
回答有難うございます
たしかにそのとおりですね。そういう社会がやってくるといいのですが
あなたや、ここで回答している人達は「コミュニケーション能力」という言葉に踊らされていますね。そんなものは存在しません。人と人の意思疎通というのは自分だけの問題ではありません。自分はコミュ力高いけどあの人は低いみたいなのがおかしいのはすぐわかると思います。コミュニケーション能力ってなんですか?ときいてシンプルに答えられる人もいませんし。
人にはそれぞれの良さ、特性があって、それを引き出すことが組織にとって最も良いことだと私は考えています。コミュニケーション能力というのはよく耳にするけど、仮にそんな能力があったとしてもそれに偏重しているのはバカげていると思います。コミュ力だなんて言ってるのは先進国の中でも日本だけですよね。コミュニケーションで解決する問題なんてたかが知れているからです。あなたの人生の中でコミュニケーションによって大きく変わったもの、ありますか?
現場を見る力、物事の本質を見抜く力、自分の頭で考える力がある人はコミュニケーションなんかに騙されません。
正直に言うと、ポイントあり500ptに踊らされて回答をつけました。
自分はコミュニケーション能力という言葉は安易に使わない方がいいと思う派ですが、
こういうツッコミは多分出てくると思ったので、
中々出てこなそうな説(それは種の本能だよ説)での回答にしました。
(こんなコメントをつけると質問者に嫌われちゃうかもしれませんが。)
回答有難うございます
人間らしいコミュニケーションのありかたかもしれません。
ありがちな、返答として、社会的動物なのでコミュニケーションは必要で、どれだけ偏重するか、というところですね。
人は一人では生きられないからです。また、自分の足りない部分を他人に補ってもらったり、共同で何かをするのにも必要でしょう。一人の力なんて微々たるものです。
回答有難うございます
個人的な視点ですが、最近は助け合いというのが、廃れていく傾向にあると思います
コミュニケーション能力、と言っても、それが何を指すかは微妙で、普通の意味では、コミュニケーションできないと意思の疎通に難を来すので必要ではないか、と思いますが、書かれたブログを読んでみますと、またそれとはちょっと意味が違うのかな、と思います。
高度に空気を読んで周りの俗物に付き合う能力、みたいなものですか?
そんなものは(自分は)要らないと思いますけどね(笑)
それよりも沈思黙考して一人孤独に思索に耽っていたい。
いつの時代も反社会的な思想家は孤独なものです。
回答有難うございます
確かに、孤独なものなのかもしれません。
むしろ、そうすべきなのかもしれない。と思いました。
回答有難うございます
たしかにそんなものかもしれません
簡単に。
まず、コミュ力という名称の示す能力はあいまいなので、内容を定義します。ざっくり以下の3つがコミュ力の内訳ではないかと、ぼくは思っています。
共感力、情報伝達力(送受)、交渉力です。
・共感力
「今日は暑い」と言われたら「そうだね」と返し、「仕事が忙しくて辛い」と言われたら「大変だね」と返すような能力です。感情ベースの能力で、これが低い人と一緒にいると非常に疲れるらしいです。
・情報伝達力(送受)
仕事の時に必要です。「aという事をして」と言われたら"a"の中身が理解できるか、あるいは"a"の中身を十全に他人に伝えられるかという能力です。これが不足すると「aという事をして」「やりました」「違うんだよ、僕がaっていったらaとbとcをしてって事でしょ」「」という状況が起こります。
・交渉力
敢えて別枠にしています。自分と他人の要求を折衷して妥協点に落とし込む能力です。情報伝達力がないと役に立たないうえに、意外とみんな持っていません。
多くのコミュ力はこのどれか、もしくは複合です。
例えば「空気を読む」というのはざっくり言うと他人の出している言語的/非言語的情報を読み取った上で、共感力で適切な出力を返す、という能力です。
コミュ力が大事だと言われるのは、この3つの能力が著しく不足していると、共同作業に影響をもたらすからです。とくに情報伝達力の不足は致命的になりえます。作業の調整には交渉力が入り込んできますし、感情ベースで物事をいう人は一定数いますので、共感力がないと話ができないと言われることもあります。
結局、コミュ力は「ある人がない人に合わせてコスト(労力)を支払う」ものなので、コミュ力が高い人の方が需要が高いのは自明です。
回答ありがとうございます
3つとも不足しているように感じます。
ありがとうございました
もし とんちんかんな回答が きたら どう思いますか?
まともな回答をする というのも コミュニケーション能力の一つだと思います。
エスパー級のコミュニケーション能力を 求めようとするのは ちょっと違うと思う。
回答有難うございます
確かにそれもあるかもしれません
「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)
多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13
どうしてコミュ力と言われるようになったのか、疑問に思って研究している人たちが要るのでそちらを参照してみてはどうでしょう。
ありがとうございます。
買ってみようと思います
生きるすべの1つ、選択肢の1つにすぎません。コミュニケーション能力が無くとも他者を圧倒するだけの実力を持っていたり、容姿が優れていたり、頭が良かったりする人は、なんら問題なく生活していくのでしょう。
突出した能力が無く、なんとか周囲と折り合いをつけて仕事をして生活をしていく、私のような凡人には、最低限のコミュニケーションを行わなければ、ある程度納得できる生活を送れないというのが今の世の中なのでしょう。
それでも、生活保護や各種慈善団体などを頼って生きる選択肢もありますが、どうもそういった場所で生活するほうが、他者に干渉されることがあまり好きではない私からするとストレスになりそうではあります。
私個人としては、正誤性は別にして、仕方なく他者とコミュニケーションをするという場面の方が多いように思います
回答有難うございます
自分はどの能力もなさそうですね・・
悩んでみてみます
コミュニケーション能力は、なくても生きていけるものですが、あるとより便利なものです。
仲間はずれにされると即死に繋がるような原始時代と違って、お金があればなんとかなるのが現代です。
しかし何でもお金で解決しようとすると莫大なお金が必要です。
「コミュニケーション能力ってなんでそんなに大事なんですか?」と気軽に聞ける仲間がいると便利ですよね?
こうやってネットで質問できるのも「コミュニケーション能力」のひとつです。
ネットでも質問する勇気がなくてそのまま苦しんでいる人もいると思います。
今はリアルの能力を求めるコミュ強には通用しませんが、電話がコミュニケーションではなかった時代と比べたらずいぶんと変わったのではないでしょうか。
回答有難うございます
確かにインターネットというツールを使うことも
コミュニケーションになっているとみなせそうですね。
ありがとうございました
哲学的な難しいことよりも仕事にならないからじゃないか?
営業が出来ないからです。
仕事にならなければ金にならない=生きていけない。
回答有難うございます
仕事をする。というハードルはとても高いと常々考えています
ムダに深く考えすぎです。
質問者さん、あなたは欲張りすぎかもしれませんね。
だれとでも仲良くとか、そんなムシのいいことを考えていませんか?
つきあう人を選びましょう。
どんな人を選ぶかは、失敗経験から学ぶのが一番です。
回答有難うございます
そうかもしれません。
狭く交流するのもありかもしれませんね。
コミュニケーション能力は大事だと思いますよ。
人と話すのが好きにしろ嫌いにしろ、話さなければならない時が必ずありますから。
そこで言いたいことを言えなかったら後悔するのは自分ですから。
回答有難うございます
確かに主張すべきところは主張した方がいいですね。
ありがとうございました。
人間社会でそこそこ生きていくために必要です。
ありすぎても困るし、なさすぎても困ります。
回答有難うございます
ありすぎて困る。ということもあるんですね。
参考になりました。ありがとうございます。
回答有難うございます
2014/09/01 14:00:32理性のコントロールといったところが鍵なのでしょうかね