内側には、老中などのやっている大名の屋敷があったりします。外堀の内側へは、町人や、また、武士も入れなかったのでしょうか。門とかがあったのでしょうか。
入るためには、特別な手続きしないといけなかったんでしょうか。
また、老中をやっている大名の家来は、入れないと困りますから、この場合、いちいち、特別な手続きしているわけにはいかないでしょうから、何か、手形か何かを携帯したのでしょうか。
変な質問ですが、よろしくお願います。
門があって門番がいました。
江戸城三十六見附 - Wikipedia
交通手形は使っていたと思われますが、具体的根拠が示せません。
そもそも老中をやっている人のお屋敷は、内堀にあるようですね。
「牛込御門の内。昔物語に云、下女あやまって皿を一つ井戸に落とす、そのトガにより殺害せられたり、その念此所の井に残り、夜ごとにかの女の声をして、一つより九つまで十をいはで泣き叫ぶ、声のみありてかたちなしと也、よって皿屋敷とよびつたえたり 」。 「江戸砂子」(享保17(1732)年刊)
番町皿屋敷の番町は、外堀の内側にあります。
大江戸絵図
↑クリックすると大小さまざまな屋敷があったのがわかります。
ありがとうございます。
2015/06/05 20:22:18普通の旗本や御家人の屋敷は外堀の外側かと思いましたが、内側なのですね。
女中奉公するひとは、なんらかの手形を示さないと入れないのですね。食事を買い物に行くのも大変だと思いました。売りに来るかもしれませんが。
今の番町小学校など、今度歩いてみようと思います。