1837年に、11代将軍「德川家斉」は将軍職を辞職し、次男の12代将軍「徳川家慶」に将軍職を譲りましたが、その後も1841年に死去するまでの間は、大御所として政治の実権を握り続けたと聞きました。


そこで質問です。

1837年に德川家斉が将軍職を辞し家慶に譲ってから、1841年に死去するまでの間、政治の実権は完全に德川家斉にあって、家慶には全くなかったのでしょうか?

また、もし実権が少しは家慶にあった場合、家斉と家慶の実権の比率はどれぐらいのものだったのでしょうか?
ほとんど家斉にあって、家慶には1%ぐらいしかなかったのでしょうか?

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  • 終了:2015/12/09 14:36:24

ベストアンサー

id:meefla No.1

meefla回答回数970ベストアンサー獲得回数4552015/12/07 09:46:12

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「ほとんど家斉にあって、家慶には1%ぐらいしかなかった」と見るべきでしょう。
家斉の存命中、家慶はその1%の実権ですらあまり行使しなかったようですが。

趣味に没頭し幕政に疎く、家臣の意見を聞いても「そうせい」と言うのみであったことから、「そうせい様」と渾名された。

徳川家慶 - Wikipedia

ただし、家斉が死去した後は、直ちに家斉の寵臣たちを罷免したり、水野忠邦の天保の改革を実行したりと、大御所政治中とは違って指導力を発揮することもありました。
この点からすると、「そうせい」は自分に実権がない事を承知した上での達観と見ることもできます。

Google ブックスで読める 徳川将軍の意外なウラ事情: 家康から慶喜まで、十五代の知られざるエピソード - 中江克己家慶はなぜ「そうせい様」と呼ばれたのか に、ここいら辺の事情が書かれていますのでご参照ください。

お役に立てることを祈りつつ。

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