【大正時代の横浜のニッセイケン】

かなで書くと「ニッセイケン」となる洋食屋(レストラン)の
情報を探しています。大正前期に横浜市で、桜木町から人力車で
行くところ。待合室(?)があり、2階に食堂がある。

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  • 登録:2016/01/31 02:07:09
  • 終了:2016/02/02 17:10:02

ベストアンサー

id:meefla No.1

meefla回答回数970ベストアンサー獲得回数4552016/02/01 21:37:13

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コメント欄での追記を踏まえて一日考えてみましたが、理由はともあれ誤記なのではないでしょうか。
「ニッセイケン」ではなく「ニッセイロウ」、すなわち関東大震災(1923年:大正12年)まで横浜の太田町5丁目にあった西洋料理屋、日盛楼の事だと推測します。

馬車道の近くの日盛楼という西洋料理屋へはいって

和辻哲郎 漱石の人物

大正4年のエピソードです。
2人くらいなら予約無しで昼食が食べられる席があった、という事がわかります。

横浜市中区が出している資料から、2つ引用します。
まず、中区わが街~中区地区沿革外史~ から、 昭和53~54年に地域の古老が寄せた回想の文章。

太田町五丁目に煉瓦造りの二階建で、撞球台二台をそなえたハイカラな洋食屋 日盛楼があった。

http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/archive/reference/document/1986-11.pdf

(原書 P241、PDF P23)
近代デジタルライブラリーにある、1901年(明治34年)発行の 日本之名勝 の中に、日盛楼の外観写真がありました。
f:id:meefla:20160201212810p:image
(コマ番号 286)
確かに煉瓦造りの二階建てです。

次に、中区史 から、関東大震災の被害状況を記述した文章。

太田町では十五銀行、小林貿易店、岩崎邸、(中略)西洋料理日盛楼、讃岐尾旅館、海老塚給水店で、これらは煉瓦造、土蔵造の建物であったが、いずれも焼失した。

http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/archive/reference/document/1985-02-02.pdf

(原書 P229、PDF P38。強調引用者)
関東大震災以降に日盛楼が復興した形跡はないので、経営者も震災の犠牲になったものと推察されます。

さて、太田町が日盛楼の本店ですが、賑町(現在の伊勢佐木町1~4丁目)に支店もあったようです。
日盛楼支店 賑町
絵葉書の右手前、2軒目の店です。
「キリンビール」「キリンビヤホール」の文字が読み取れます。
このサイトによれば、「大正4年支店開設」との事ですので、日記が書かれた1916年(大正5年)には本店も支店もあった事になり、お尋ねの店がどちらなのかは迷う所です。

「桜木町から人力車で」だけでは同じような距離なのでどちらとも決めがたいと思います。
また、2階で食事をした所から、1階がビアホールになっている支店の可能性が高いかと思いましたが、本店の方でも、1階がテーブル席(と厨房)、2階がバンケットホールという作りであれば日記の記述とは矛盾しません。
他の記述があればご照合ください。

ちなみに、かながわ検定次の4つの西洋料理店は、いずれも昔の横浜の有名店だが、 によれば、「明治40(1907)年に一度に38,000点もの立食料理をまかなったことが語り草となっている店」だそうです。(クイズのネタバレですが)

念の為に「日盛軒」でも検索してみましたが、宮沢賢治や石川啄木に関連して出てくる、盛岡の西洋料理店しか該当しないようです。

最後になりますが、誤記説を主張する理由をいくつか。
1. 日盛楼という西洋料理屋が実在する
他に候補となる店がなければ話は別ですが、当時有名だった店が実在するのですから、誤記と考えるのが自然です。
日記の作者が西洋料理店として精養軒、富士見軒、東洋軒を知っており、かつ、中華料理店として 聘珍楼、永楽楼、遠芳楼、成昌楼 を知っていたとすれば、「日盛楼」を「日盛軒」と勘違いしても無理はない所ではないかと思います。
作者は店の看板などは見ていないわけですし。
2. 人力車が12台
大正時代の人力車は1台に乗客1人ですから、最小でも12人の会食で、コース料理だったわけです。
(アラカルト料理が一般化するのは関東大震災以後の事。参照:日本の西洋料理の歴史 20.横浜ホテルニューグランドとサリー・ワイル
それなりに大きな西洋料理屋という事になるでしょう。
これが数人のパーティーであれば、日盛楼よりも規模の小さい「ニッセイケン」の存在を考える必要が出てきますが。
3. 支店が存在する
のれん分けで似たような名前の店を開くのはよくある事ですが、日盛楼の場合はすでに支店が存在するので、その可能性はありません。
残る可能性は、日盛楼の名声にあやかって似たような名前を付けて開業、というパターンです。
日記の作者が参加した会食の性質にもよると思いますが、わざわざ西洋料理店を選んだ事からそれなりに格式の高い会であったと想像され、その会場としてバッタもんのような店をチョイスする理由が理解できません。

以上、ご参考になれば幸いです。

id:sibazyun

日盛楼(ニッセイロー)で当たりのようですね。
この日記の中に出てくる人名は、皆「お仲間」なので、
知っている。そして、横浜では宴席であらたにあった
人もいるはずだが、名前を記していない、
ということから、声で聞いた店名(メニューは見ていない)を
誤った可能性はあるとおもいます。

詳細な調査、ありがとうございました。

2016/02/02 16:52:22
id:meefla

ベストアンサー、ありがとうございます。

今回の検索過程や裏話を小生のはてなブログに書きました。
「ニッセイケン」を探して日盛楼に至る - Instrumentality
興味があればご一読ください。

2016/02/03 21:44:39
  • id:meefla
    確認です。

    漢字が出てこない所から外国語文献と推察します。
    「ニッセイケン」という名称の確からしさはどれほどのものでしょう?
    聞き間違えなどの可能性はありませんか。

    似た名前の洋食屋は特定できてます。
  • id:miharaseihyou
    たぶん古い小説に出てくる洋食屋だと思うんだけど・・。
  • id:sibazyun
    本件、出典は1916年の盲人の日記(点字)で、これを現代の盲人教育の
    専門家が墨字にしたものです。当人がここで食べたという記録で、
    同行者の名前などは別の史料とも一致していて書き誤りはありません。
    別の史料では単に「料理店」となっているものです。
  • id:meefla
    なるほど。そういう出典でしたか。
    聞き間違え・書き間違えの可能性は低そうですね。

    「待合室(?)」についてもう少し情報が欲しい所です。
    ビアホールなのではないかと想像しているのですが。
  • id:sibazyun
    もう少し様子をいいます。この一行は桜木町から12台の
    くるま(=人力車)でここまで行きました。
    最初は2階の一間に招じられ、やがて別室の食堂に導かれました。
    食堂ではフォーク、ナイフをつかった料理が出て、
    またデザートがありました。料理の記述はありません。
  • id:miharaseihyou
    漱石あたりの臭いがする。
  • id:miharaseihyou
    このレストラン、リバイバルで復活させたら面白そうですね。
    当時のレトロな雰囲気が素晴らしい。
    車寄せを設けて力車を並べたら絵になる。
  • id:NAPORIN
    愛知県犬山明治村にこれに似ている感じの復元建物はいっぱいありますヨー
    リキシャマンはいませんが市電とボンネットバスなら走ってます。
    東京建物園にもありそうですね。
    興味深いお話でした。

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