匿名質問者
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幕末活躍した公家大名や侍たち(家臣の言いなりになっていただけの人がおれば除きます)で、最初は過激な主張(外国人は追い払え、斬り殺せ、条約は破棄せよ、など)をしていたが、その後、現実路線穏健路線に変わった人も多いですけれど、最初から現実的な対応を主張していた人と言えるような人は誰と誰でしょうか(欧米列強と戦争すると負ける可能性が高く、大変危険であると見据えていた現実的な人々)。


たとえば、有名どころでは、たぶん、勝海舟や、橋本左内あたりが、そういう現実派だったろうと思います。

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  • 登録:2017/02/18 16:52:13
  • 終了:2017/02/25 16:55:03

回答(2件)

匿名回答1号 No.1

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2017/02/18 18:53:55

現実もなにも、当時は現在進行形でしかなく。
その未来から過去を眺めるような思考で歴史を見てはいけませんよ。
歴史を肯定してしまうと間違える元です。

匿名回答3号 No.2

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2017/02/19 01:45:11

幕府側でもよければ、井伊直弼や松平忠固など。

アメリカが来て口では「攘夷!」と言いつつ、早くから西洋の技術を取り入れていた鍋島直正は現実主義者といえばそうかも。

匿名質問者

ありがとうございます。
井伊直弼侯や松平忠固侯ですね。
お話しを伺い、福山侯の阿部正弘伊勢守はどうなのだろうか、と思いました。水戸斉昭の意見を聞いたりしていますが、開国論を表明して進めていくのは、幕閣の中の自分の立場を考えると危険すぎるので、そうしただけで、彼自身は、心の中では、開国止む無しであったのかもしれないと思いました。

鍋島侯は、そうですね。現実主義な感じです。
島津斉彬侯はどうであったか、途中で急死したので、なんともわかりにくいですが、気になりました。
越前侯も、橋本左内と横井小楠をブレーンにするくらいですから、現実主義的な人なのかな、と。

2017/02/19 17:26:51
匿名回答3号

わたしのイメージですが、松平忠固は信念のまま開国を受け入れた人、井伊直弼は信念は置いておいて大老として開国を受け入れた人。
阿部正弘は行き当たりばったりなイメージです。(ペリーが来る前から対策しておいてほしかった)

島津斉彬や松平慶永は一橋派としての国内の政治的な立場があったので、開国か攘夷かは二の次のような。
開国・攘夷と言っていても、心の底からそう思っている人もいれば、立場が言わせてる人もいたんだと思います。

2017/02/20 01:52:48
  • 匿名回答2号
    匿名回答2号 2017/02/18 20:37:56
    当時の一番の穏健派は皇室かもな?
  • 匿名回答1号
    匿名回答1号 2017/02/18 20:49:08
    皇室や公家は海外の事情を知る術を持たず、何も分かりはしていなかった。現にその後の明治政権で天皇が担ったことを見ればとても先見性のあったという評価は出来ない。幕末、海外情報を得ていたのは徳川幕府の上層部しかない。最後の将軍徳川慶喜が薩長との大戦を避けて江戸城の無血開城をしたのも、国力を疲弊させて諸外国に付け入る隙を与えたくなかったからと言われている。が、まぁ結果から付けた屁理屈のような気もするけどね。
  • 匿名回答2号
    匿名回答2号 2017/02/18 21:38:18
    常識として知っておいて欲しいんだが、皇室は穢れを嫌う。
    皇室に限らず、歴史的に公家社会は穢れから逃げる。
    つまり、必要であろうと無かろうと争いごとそのものを忌避する。
    国際情勢についての知識があろうと無かろうと、当時も今も絶対平和主義とでも言える。
    朝廷が治安まで放棄したのが原因で戦国時代の無秩序が発生した。
    その体質は現在も変わっていない。
  • 匿名回答1号
    匿名回答1号 2017/02/18 22:56:21
    それは単なるダブルスタンダードの一面ですけどね。三種の神器の一つが剣であることからも明確なように力を求めているのも明白。王族=公家に争いが絶えなかったからこそ武家が用いられて台頭してきた訳だし。まぁ、源平合戦だの南北朝分裂だの、武家が実権奪ったからお飾りに甘んじざるを得なかっただけ。
  • 匿名質問者
    匿名質問者 2017/02/19 21:44:11
    いろいろと難しい議論をありがとうございます。こちらは、そこまで深いところは考えていません。

    幕府上層は、もっとも海外情報に接していたということはあると思いました。オランダからの情報もあると思います。
    そういう意味では、水戸家はどの程度、情報を掴んでいたんでしょう。いつも江戸に居ますし、溜り詰めか何かに詰めている。島津斉彬侯は、琉球の情報でしょうか。島津久光侯も、その点では、同じレベルの情報に接していたと思います。
    民間では、林子平の「赤蝦夷風説考」もあれば、高野長英の「夢物語」などもあります。蘭学者を中心に、ある程度、もやもやとしたレベルの情報は(西欧とまともに戦うと負けるぞというレベルの感覚)つかんでいたような気もします。科学技術のレベルが高いということは軍事技術も高いということは、まともなインテリ(理系インテリ)ならわかる筈のことですから。
    朝廷ですが、「異人は嫌いじゃ」というのは、本当かどうかわかりませんが、現実主義的なスタンスは感じられないです。
  • 匿名回答1号
    匿名回答1号 2017/02/20 19:21:28
    理系インテリというのは現代国家でしか存在しません。中世から近代まで政治は原則的に文系で動いています。その時代、理系は趣味道楽でしかなく、軍事に関する技術も発明家の売り込みだけです。産業革命で初めて国家と理系が手を組んだ訳です。それ以前は科学技術も芸術の一種として金持ちの道楽ぢしかなかった。
    朝廷が「異人は嫌いじゃ」というのは、要は為政者層は統治が万全であれば食うに困ることはなく、あえて外部から刺激を取り入れる必要性がないという極右的保守的な意味合いでしょうけど、江戸時代も後期は人口増を支えるだけの食料もなく飢餓が頻発していた訳で、左翼的にもっと社会を変革しないと飢え死んでしまうわ!という人もいたでしょうね・・・
  • 匿名回答4号
    匿名回答4号 2017/02/22 07:29:29
    江戸時代は別に飢饉が頻発って事はないと思うよ。
    飢饉による餓死者が出たのは3年連続で飢饉になった時が
    江戸時代中に1回あるのみというのを以前どこかで見かけた記憶がある。
    つまり2年分の蓄えは常に確保していたわけですね。
  • 匿名回答1号
    匿名回答1号 2017/02/22 19:59:15
    享保の改革をした徳川吉宗あたりから人口増、食糧難、経済低迷・・・。飢饉対策にサツマイモを栽培

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