聖俗併呑 ~ 教会音楽 vs 商業音楽 ~
受難曲は、バッハ以前以後に、数十人も作曲している合唱と管弦楽に
よる宮廷礼拝堂での朗誦が目的です。異教徒にも切符を売るコンサート
形式になったのは、20世紀以降の現象です。
バッハ自身はプロテスタント(新教徒)なので、カトリック(旧教徒)
の伝統的なミサ曲や受難曲に一線を劃すべきところ、雇主の政教的立場
に準じて、さまざまの革新的な試みに成果を挙げたとみられます。
標題音楽は、ヴィヴァルディの協奏曲“四季”や、メンデルスゾーン
の序曲《フィンガルの洞窟》から、リヒャルト・シュトラウスの交響詩
“ツァラトゥストラはこう語った”や“家庭交響曲”まで、何でもあり。
宗教音楽は、作曲者以前に題名があり、標題音楽は作曲者みずからが
命名するものです。作曲者の知らぬところで“未完成”のニックネーム
や“運命”に対する“革命”が、すっかり定着したケースもあります。
…… 死と現実の、二つの世界をつなぐ黒い河に浮かぶ白鳥の歌。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/18881103
聖俗同穴 ~ 官能と諦観 ~
受難曲は、聖書に題名と台本と台詞が出来上っています。
作曲家は、聖書に書かれていない音楽だけを担当します。
いわゆる標題音楽は、作曲家の自由な題材で書かれます。
この問題の重要な点は、十六世紀以後に楽譜が完成したので、最初は
カトリックが飛びつき、遅れてプロテスタントも最重要視しました。
その最先端に、バッハのような大天才が出現したのです。
もちろん、どのようにも論じることはできますが、バッハにとっては、
一連の宗教音楽が職業的ノルマで、その他の作品はサイドワークでした。
メンデルが神父を勤めるかたわら、遺伝の法則を発見したように……。
引き続き解説していただき、ありがとうございます。
2017/05/21 18:00:33独自の発想や感性を音楽として作り上げ、反映させたものを
標題音楽と呼ぶべきで、それに従えば、元々として存在する聖書に
則った内容である宗教音楽は標題音楽とは言えないのですね。
音楽を表す標題をどういったきっかけで作り上げるかが、
結構重要なポイントになることがよく理解できました。