① 1060年生まれで1120年死去、その娘は源義家の子を産んだと言う。又その4代後の相良頼景が源頼朝から地頭に任命されたとも言う。ならば相良光頼は平安時代
中期の人か?
② だが、工藤祐經→伊東祐時→伊東祐光→相良光頼の家系の出自で、相良家に養子に入ったとも言う。ならば鎌倉時代中期の人か?
どちらが正しいのでしょう。同姓同名の別人でしょうか。だが相良家の系図に同姓同名の別人は見当たりません。お教え下さい。
尚、お答えになってない呟きの様なのはご遠慮下さい。
まず、初代当主と言われる相良長頼、そこから遡っていくと、① の方については時系列的に不自然なところはないようです。
一方、②の方は時系列が不自然なうえ、内容を掘り下げてみると、伊東祐時は日向伊東氏初代当主で、その子である伊東祐光は日向伊東氏の二代目当主のようです。光頼が祐光の子であるならば生まれは日向の国、現在の宮崎県となり、遠江国(現在の静岡県)相良荘の領主ではありえない事になります。
以下のリストでは祐光の子として光頼の名前を挙げていません。
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E6%97%A5%E5%90%91%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E6%B0%8F
そのリストをよく見れば分かりますが、伊東祐光の子が伊東祐宗で、祐宗の子として再び祐光の名が出てきます。
さらに以下のページでは、伊東祐清の子にも祐光がいたとあります(祐清流伊東氏)。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~hitosugi/jinsugi.html
したがいまして、伊東祐光という名の人物が3人以上いたのは確実でしょう。ですから、
工藤祐經→伊東祐時→伊東祐光→相良光頼
のうち、「工藤祐經→伊東祐時→伊東祐光」については確実な情報だとは思いますが、「伊東祐光→相良光頼」については間違っている可能性が高そうです。というか、相良光頼の実父の名前を見つけることはできなかったのですが、相良光頼の実父の名が祐光であるという何か具体的な史料が存在するという事でしょうか?。
根拠はこれのようですね。昭和9年に編纂された史料のようです。他の出典に類似の情報は見当たらないようです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/364
ええと、まず最初にごめんなさい。日向伊東氏が日向の国に移るのは6代目祐持からのようで、祐光の頃にはまだ静岡県伊東市付近を拠点にしていたようです。伊東祐光の名は日蓮の伊豆法難との絡みで多くの情報が見つかりますのでその時代の人なのでしょう。しかし、光頼の妹、つまり祐光の娘が鳥羽院に仕えていたとなると、ここでもやはり年代の辻褄が合わなくなります。
鳥羽天皇…1156年没
後鳥羽天皇…1198年没
伊東祐時…1185年生
伊東祐光…伊東祐時の六男
日蓮…1261年に伊豆法難
伊東祐光(生年不詳)を仮に祐時15才の時の子であるとすると1200年生まれとなり、その娘が鳥羽院に仕えるのは…まぁ無理ですよね(15才の時に六男が生まれるという設定にも無理があるんですが)。もし(伊東祐時の生年が間違っている前提で)祐光の娘の生年の方を無理やり合わせようとすると、日蓮との出会いが100歳を軽く超えてしまうという感じです。
ちなみに最初の回答で②の方は時系列が不自然と書きましたが、
伊東祐時…1185年生、伊東祐光の父
相良光頼…相良長頼の5代前の先祖、伊東祐光の子、従って伊東祐時の孫
相良長頼…初代当主、1177年生、7代前の先祖より前に先に生まれている
と、こういう事です。
上記資料の次のページ(2542ページ)の中段から下段にかけて、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/365
との解説があります。つまり正確ではない可能性が高いと知りつつも系図を示さなければならな関係上、著者の考えを便宜的にまとめた系図に過ぎないって事になりそうです。すると相良光頼の父が伊東祐光であるとする根拠は無いに等しいと言えそうです。
2018/03/31 18:03:05※新撰事蹟通考、藩翰譜、は書籍の名前です
※一部入力できない文字があるため、別の漢字を充てています
http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0191/
http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0019/
「猶」も
詳しいご回答有り難うございました。
2018/03/31 19:12:43相良光頼は小生の先祖なので気になってしょうがなかったのです。