大澤寿人がアメリカ留学時代に亡命間もないシェーンベルクの教室に出入りしていた、とあり、シェーンベルクが亡くなった後、ラジオの追悼コーナーでオマージュ的な曲を放送したようです。
彼の師であるイェリネックの理論が日本では美濃部達吉に受け継がれている、ということで、直接の影響ではありませんが、参考として。
・・ほかに現代舞踏でシェーベルクを踊る人たちがいました。
あの「海行かば」の作曲者とシェーンベルクのつながり!
ゲオルグ・シューマンの門下となり、当時流行のシュレーカーの表現主義的音楽などたっぷり聴いて、それからまだまだ第1次大戦後の混乱期でマルクが弱いのをいいことにシェーンベルクやらまでの楽譜を買い漁って帰国し、1923年、母校の教授に就任して、上野に於ける音楽理論教育の柱石となり、また同校の作曲科創設に尽力、その一方で多くの歌曲、合唱曲、ピアノ曲を発表し、山田耕筰と並び称される日本作曲界の重鎮となった。