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優生思想を否定してみてください。
回答にまた突っ込むかもしれませんが、できたらもう一度回答おねがいします。

●質問者: shun6066
●カテゴリ:学習・教育 政治・社会
✍キーワード:優生
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 15/15件

▽最新の回答へ

1 ● sami624
●12ポイント

http://www.arsvi.com/0p/eg.htm

?思想の否定

優性遺伝子が必ずしも人間にとって有益なものとはいえない。人間の全ての優性遺伝子が人間にとって有益なものであれば、優性思想は成り立つものの、劣性遺伝子のほうが人間にとって優位な場合もあるわけであり、優性思想により全ての問題が解決するわけではない。

?条件に関わる否定

地球には赤道近辺の国があれば、極近辺の国もある。よって高温地域にとって優位な遺伝子であっても、低温地域にとっては優位な遺伝子とは言えない可能性がる。よって現行のように、世界各国をまたに掛けたビジネスがもてはやされる現状においては、特定の条件下で優位性を持っていても、トータルバランス的に優位性を有しているとは言いがたい。

◎質問者からの返答

すいません。僕の聞きたかったことは、「よいタネ」を残すということ、またそれに伴う偏見、差別はいいことなのか、悪いことなのかはっきりしたい、ということなのですが、質問文が不完全でした。どこに価値を見出すかにかかっていると思います。いろんな価値観があると思いますがその価値観を知りたいと思います。


2 ● castle
●12ポイント

http://www.hatena.ne.jp/

はてな

ダミー

強者を絶対化してしまう思想なのでアウトでしょう。

強者も弱者を含む循環的調和の一部にすぎないと一定の領域を適正に区切れないと、全体が死滅の危機に陥る確率が高くなります。

◎質問者からの返答

確かに全体が死滅の危機に陥る確率が高くなるのは裂けるべきですが、弱者を淘汰することでそれが起こるとは僕には思えません。

逆に、これまで生物がたどって来た進化の過程は弱者の淘汰なんだと学校で習いました。単純に種の保存という観点からは否定できないんじゃないかと思います。

循環的調和といえばそれもそうですが・・・強者のみの世界に移行していく過程においてはピンからキリまでいるわけだから多様性は保たれているんじゃないかと思うし、当面の社会の方向性としてはいいんじゃないかとおもいます。単純に種の保存という観点から、の話ですが・・・


3 ● hiroyukiarita
●12ポイント

http://www.eonet.ne.jp/~00naoya/honndana.html

ほんだな:なおやのおうち

大江さんの「障害児がいるということは、いろんなことを人間について教えてくれる大切な契機なのだ、そこに重要な意味がある。・・・・たとえば、人間が魂を洗うということをいいます。自分の精神を洗い清める、洗いなおすということの、その手がかりを障害児は、なす」に同感です。

違う人がいて、自然なんですね。

◎質問者からの返答

本当に障害者の方たちが運命と戦っているのを見ると感動して力が出てきます。

ただ、そういう感動というのは、

優生思想が人々の頭のなかにあってコンセンサスを得ている社会においては存在しないのでしょうか・・・

例えば、強者たちが淘汰されていった人々のことを考えるとき、同じような力は湧いてこないのでしょうか?


4 ● kurupira
●12ポイント

http://toriyamac.hp.infoseek.co.jp/

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良い物を残し、悪いものは排除すると言う考えは、

人権的にも関わってくる可能性のある問題になりうるし、

まだ科学の進歩が万全と言えない内から、選択していった場合、

後々生態学的または地球上の秩序が破綻する恐れ

があるので、このような思想にはあまり賛成出来ません。


5 ● cyano
●12ポイント

http://www.hatena.ne.jp/dummy/#

だみー

端的に言えば、優生思想は厳密に運用すると自分自身や自分の身内を抹殺しかねないリスクがあります。

進化の歴史は弱者の淘汰と言う側面ももちろんありますが、たとえば「事故で骨折した」という場合を考えるとどうでしょう。

自然界では生存競争に著しく不利になりますが、だからといって人間社会で「骨折するような間抜けは淘汰されるべきなので死刑」という思想が認められるようではいつ自分も淘汰される側に回るかわかったもんではありません。

障害児についてもそうです。自分が現在障害をもっていないからといって、自分の子供が障害を持って生まれてこないという保証はありません。障害児を抹殺する制度はすなわち、自分の身内を抹殺する制度に繋がる可能性を含んでいます。

前述のようなある程度明白なものですらこういった問題はありますが、さらにその閾値をどこに設けるかと言う問題もあります。仮に骨折は死刑だとして、ヒビならどうでしょうか?脱臼なら死刑は免れるのか?筋肉痛は?

そうした線引きに実質的な合理性は無いでしょう。合理性のない線引きは容易にエスカレートします。「劣等民族の抹殺」なんてのはその端的な例です。

◎質問者からの返答

なるほど。自分自身が死ぬことはフツーは単純にイヤですよね。

ここで発想の転換なんですけど、

もし優生思想が自分が死ぬに値する考え方だったらどうしますか?

僕がこの質問をした背景を恥ずかしがらずに言いますと、今、僕は自分に自信が持てなくなっています。

同時に自分より才能のある人間が世の中にたくさんいればきっといい世の中になるかもしれないな、多くの人が幸せになって欲しいな、という気持ちが漠然とですが、あります。

一方で自分も生きていたい気持ちもあります。

後者の自分が生きていたい気持ちを肯定するために前者の気持ち、つまり言ってみれば優生思想なるものを否定してもらいたく質問しました。優生思想が僕の生きていたい気持ちを乗り越えるもので、自分が死んでもいいと思えるものであるならば、喜んで死のう。(まあ、ここでの回答で死ぬことを決意することはない絶対無いですが(笑))

こういう自分が死んでもいいという境地に人間は立つべきか否か、そこを見極めたい、と思っています。

この境地に立てば「閾値」の問題は自分の判断で決めてしまえばいいので問題にならないと思います。


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