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【歴史】延喜式に神宮として伊勢・鹿島・香取の3つがあるそうですが、鹿島と香取が神宮である理由を教えてください。
主な疑問点は、
・西でも、信越でもなく、常総の宮が選ばれている
・3つしかない神宮のうち2つを距離的に近い2宮が占めている
回答には、
・延喜式より前の時代(10世紀かそれ以前)を対象とした説明
・裏づけとなる史料・文献(入手困難でないもの)
を少なくとも書いてください。個人の仮説でも結構ですが、裏づけの資料となるサイトへのリンクをお願いします。

●質問者: devbankh
●カテゴリ:学習・教育 政治・社会
✍キーワード:いもの サイト リンク 伊勢 信越
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 4/4件

▽最新の回答へ

1 ● speedster
●0ポイント

http://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/engi0016.htm

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『鹿島神宮のサイト』


? 鹿島神宮の紹介ページより ?

遙かな神代の昔、高天原(たかまのはら)の八百万神(やおよろずのかみ)達は、我が国を「天孫(すめみま)(天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御孫)の治める豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」とすることを決められ、これに先立ち、まず国中の荒ぶる神々や夜も昼も騒がしい世の中を言向(ことむ)け平定(やわ)することが先決であると衆議一決しました。その為に二度も神の使者が送られたのですが悉(ことごと)く失敗し復命(かえりもうし)する者がありませんでした。

そこで改めて、天祖である高皇産霊神(たかむすびのかみ)と天照大御神の命を受けて高天原より天下られた神がありました。名を「武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)」と申し上げ、大神の御事蹟(ごじせき)はまず出雲の稲佐(いなさ)の浜から始められました。この浜に大神は平国(くにむけ)の奇(く)しびなる御剣(みつるぎ)を立てられ、国津神(くにつかみ)の大国主命(おおくにぬしのみこと)、その子事代主(ことしろぬし)、建御名方(たけみなかた)の神々との国譲りの交渉に強い力を発揮され、その交渉に成功するのです。やがてそこより東遷(とうせん)して各地の平国と開拓に当たり最後に東路(あづまじ)の果て、鹿島に止まりここから西の方に香取を臨みて鎮(しず)まられたのです。第十代崇神天皇(すじんてのう)の御代(四世紀後半頃)に、多くの人々が疫病に苦しみ世はまさに困窮(こんきゅう)の極みにあったとき、奈良県二上山(ふたかみやま)の頂(いただき)に白衣(しろたえ)に白桙(しらほこ)を持って立つ神があらわれ、「我を祀(まつ)らば小国(おぐに)も大国(おおくに)も汝(な)がすべての国を安んぜよう」との神示がありました。この神が「鹿島に坐(ま)す神」だと知らされた天皇は大いにかしこみ、ただちに多くの御幣物(ごへいもつ)を鹿島の宮に奉納されました。このことは第十代の天皇の御世(みよ)には、鹿島の宮が既に存在していたことになります。社伝によりますと、鹿島の宮の創建は初代神武天皇即位の年とあり、凡そ2660年ほど前のことだといわれます。鹿島の神が神武東征(じんむとうせい)の折り、「霊剣」霊の剣(ふつのみたまのつるぎ)により天皇をお助け申し上げた報恩(ほうおん)がその由来とあります。いずれにせよ、鹿島神宮が関東でも屈指の古社であったことは疑いを入れないところです。平安時代の延喜式では、神宮の号を持つお社は、伊勢を除いては鹿島と香取のみであったこと、二十年に一度の造替(ぞうたい)制度があったこと、更には天皇の一世一度の奉幣(ほうべい)や立后(りっこう)の奉幣などによってもそのことは容易に窺(うかが)うことができるでしょう。

◎質問者からの返答

もう少し質問の主な疑問点に対して説得力がある回答がほしいです。

上の抜粋では、「鹿島に止まりここから西の方に香取を臨みて鎮(しず)まられた」というとこでしか2宮に触れられていませんね。もっと歴史が絡んでほしいです。

ありがとうございました。


2 ● uumin3
●30ポイント

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E6%A0%BC

社格 - Wikipedia

神宮という名前がつくものは伊勢・鹿島・香取以外にも熱田・近江・白峰・石上・平安・明治などいくつかあります。まず近代社格制度においては、伊勢神宮のみが「無社格」で社各制度を超越した位置づけにありましたが、他の「神宮」を冠するものは神祇制度的には特別扱いのない神社の一つでした。


それでは古代ではどうかとなりますと、制度的に伊勢・鹿島・香取の三社が別格であったというのは難しいと思います。伊勢神宮が皇室の氏神として特別の扱いを受けていたとしても、鹿嶋・香取は違うでしょう。これらは式内社で名神大ではありますが、同じレベルの扱いを受けていた神社は少なからずあります。またそれぞれ常陸国・下総国の一の宮、官幣大社ではありますが、他の国々にも一の宮はあり、官幣大社もあります。また後々まで国家による奉幣が存続した「二十二社」にも鹿島・香取の両神宮は入っていません。そういう意味で名称以外に特別なところは見受けられないと考えます。


鹿嶋・香取の名称に神宮がついた由縁ですが、中臣(藤原)氏との関係ではないかと思います。平城京遷都直後に、藤原氏は氏社として春日大社を創建しましたが、それは鹿嶋・香取の分霊を迎えて行われたとされており、由緒的に皇室に張り合う意味でも両神社に神宮という名称を与えたのではないかというのが私の推測です。

鹿嶋・香取とも宮司職は代々中臣氏の世襲となっています。その出自に関わりがあったものとは思いますが、それ以上のことはわかりません。


参考にしたのは『神道を知る本 別冊宝島EX』宝島社、1993年と『歴史読本 臨時増刊 よみがえる神道の謎』新人物往来社、1989(9月)、それにWikiぐらいです。(家にろくな資料がありませんでしたので)

◎質問者からの返答

なるほど延喜式で同レベル(伊勢神宮は別格として)の扱いをされていたのは他にもあるのですか。

しかしそれでWebを調べたら

http://t4tomita.lolipop.jp/htr/fst24.html

で延喜式神名帳には174もの名神(名神大と同じでしょう)があるそうです。そのうちこの2つだけが伊勢と同じ神宮なのはやはりひっかかります。

中臣氏の関わりは強いと思います。Webで見たのですが中臣鎌足は鹿島の出身ではないかというのがありました。また香取神宮はもともと物部氏と関係があったとか。このあたりまで詳しくわかるといいのですが。

ありがとうございました。


3 ● hamao
●30ポイント

http://nire.main.jp/rouman/sinwa/hitatihudoki.htm

口訳・常陸国風土記

鹿島神宮は東国支配のシンボリックな存在であり、一定の力は持っていた

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/huziwarasi.html

?????????

藤原氏は春日大社から祭神を迎えた関係上、香取を格上げしなければならなかった

近くの香取が格上げならもっと大きな鹿島も神宮でと並べてしまった

ついでに神も同じような来歴にしようと日本書紀の記述も変えてみた

◎質問者からの返答

これはありそうなことですね。藤原氏の都合がいいようになっていると。延喜式の編纂の詔命を受けたのも藤原時平(他11名)だとか。勅命を受けたということは、編纂の奏上自体をした可能性が高そうです。

一つつながらないのは、なぜ香取と鹿島が同格なのか、ということです。両方のリンク先にもあるように鹿島の方は「香島の天の大神」と呼ばれるほど強い影響力があったと思いますが、香取の方は触れられていません。春日大社の祭神は両神宮の神だそうですので、春日大社で武甕槌命(鹿島)経津主命(香取)が祭られるようになった後のことは説明がつきますが。

そもそも春日大社創設(藤原不比等)の時は鹿島の方だっただけだそうです。

http://www.genbu.net/data/yamato/kasuga_title.htm

それがなぜ後から香取を同格として扱わないといけなかったのか。また、天児屋根命と比売神の枚岡(河内国一ノ宮)はなぜ”神宮”にならなかったのか。

まだまだ興味は尽きません。

ありがとうございました。


4 ● gase
●30ポイント

http://www.kamnavi.net/kmlist.htm

kmlist

個人のいい加減な記憶であり、URLを探している時間がない(申し訳ない)ので、ポイントは結構です。URLは直接は関係のないものですが参考になればと。

鹿島・香取は物部(中臣?)系。またそれだけではなく、国譲りの際に貢献したとされている事はやはり記紀において重要なポイントなのだと思います。同じ系列では、前者は春日「大社」後者は石上「神宮」・諏訪「大社」として中央や後の世で重きを置いておりますし、諏訪大社などはある意味関東の〆(笑)。前者は記紀の(意図的に見える)編纂のように、藤原権勢下ではそうなるのは流れ的にも自然な事のように思えます。

正確な定義は別にある(のか微妙ですが)ようですが、大体で天皇に縁のある豪族で神代のものに神宮が、後のものは大社とならざるをえなかったというか。。

新潟がどうかは知りませんが、東北は全般延喜式に含まれる神社が少ない気はします。東征に限らず、常陸辺りが実質的な大和朝廷の北限だったのかもしれません(?)。

また、この頃遠方の商業交通のメインは航路だろうと思うのですが、陸路では日本海側(新潟)を北へ延びる道より太平洋側の方が陸路が発達していた事。太平洋側の荒い航行に耐えられない船しかなかった当時、海流を利用して行くと日本海側から北を経由して鹿島・香取(香取は微妙)が海流の限界にあたる事(夏に大発生する巨大クラゲが海流に乗って流れていくとあの辺でふんずまります。西から関東への海流は大体で伊豆辺りが限界)‥などなどでしょうか。


スミマセン、時間がなくて乱筆です。

◎質問者からの返答

忙しい中こういう質問に答えてくれるほどの方の回答は興味深く、なるほどと読ませてもらいました。ありがとうございます。

3.の回答者の方が書かれたように藤原氏に有利なように記紀も含めて編纂した可能性は大いにあると思います。

神代の豪族に関わるものが”神宮”になれたというのも面白いです(出雲大社は外れますが)が、そうなると延喜式の時点で神宮を冠していた意味がより際立ちそうでもっと鹿島と香取の別格性を知りたくなってきます。

少なくとも10世紀の大和朝廷の前線は常陸よりずっと北だったと思いますが、いずれにしろ前線に近いところに神宮を置く必要性があったのかも考えないといけないですね。

私としては、香取浦(10世紀は利根川は常陸を通っておらず、現霞ヶ浦は香取浦で、鹿島と香取はその両岸にあった)の重要性も関係しているのではないかと思っています。青森の十三湖のように(内海としての大きさが全然違いますが)、こういう場所は今のイメージとは全く違うほど富の集積地となっていたと思うのです。

また他の方の回答などをみて思いつくとこなどあればお教えください。

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