人力検索はてな
モバイル版を表示しています。PC版はこちら
i-mobile

以下の議論へ感情的な反論と理性(論理)的な反論の双方を書いて下さい。
A1.人間は外部世界(外部)を認識する
A2.外部は認識によって内部世界(意識、内部)に現れる
A3.外部の認識はいつも不完全である
C-1:内部化された外部は外部そのものではない
B1.外部の如何なるものも内部によってのみ制作されうる
B2.内部によって制作されたものは、外部のそれと比べて差異は無い(eg 夢)
B3.他人は外部の一つの物事である
B4.よって内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異はない
B5.内部によってのみ制作された他人への感情(愛)と、外部のそれへの感情(愛)に差異はない
C-2:内部(虚構)の他人への愛と、外部(現実)の他人への愛は同一である
C1.同一の質的な面で二つの物事の一方が勝っている情況において、人間ならば質的に勝る方を取る
C2.内部で制作されたものは、理解という質的な面において外部に勝る
C3.理解は愛の必要条件である
C-3:人間は虚構への愛を取るべきである
D1.C1の対偶を考えよ
C-4:現実の他人に愛を抱く者は人間ではない
前提:語義の一般性、意識の存在

●質問者: cogni
●カテゴリ:政治・社会 生活
✍キーワード:A1 A3 b2 B4 C-1
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 13/13件

▽最新の回答へ

1 ● dqndamepo
●10ポイント

http://www.ne.jp/asahi/village/good/logic.htm

論理学

うーん。とりあえず。


感情的な反論:人を好きになったり自分の子供に愛情を抱いたりする者は人間ではないなんて、そんなばかな!


論理的な反論:結論から言えば、論理的でない。この前提のみと論理から導きだされる命題とは言えないものが、ずらりと並んでいる。意識があるからと言って、人間が外部世界を認識すると、なぜ言えるのか。

というか、前提もあやうい。「語義の一般性」「意識の存在」というものは、いろいろに解釈できるし、前提としてふさわしくない。

◎質問者からの返答

投稿時に500文字制限があったため、議論の細かいところは省いています。そのため、非常に粗い議論になっていますが、大まかなところでそれぞれの命題に納得していただければ、一応は通じるのではないかと考えております。

>意識があるからと言って、人間が外部世界を認識すると、なぜ言えるのか。

通常、『意識』は外部の認識を行うものであると思われます。よって『語義の一般性』の前提によって、その反論は棄却されるかと思います。

もしくはA1を前提として考えてくださっても構いません。以下において人間は外部を認識するものとします。

>感情的な反論

そう、(某曰く)今の多くの(人間と見なされる)者はただのオートマトンであります。

尚、元ネタはわかる方にはわかるかと思います。

質問自体馬鹿馬鹿しいのも十分承知しておりますので、頭のトレーニング程度にご回答頂けると幸いです。


2 ● YOW
●30ポイント

http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/kripke-s.htm

Miura Toshihiko's page: 知の先端18人:ソール・クリプキ

ダイアリーを拝見しましたら、この質問には元ネタがあるとのこと。だったら引っかかってみよう、ということで参加してみることにしました(?)

恋愛シミュレーション、なのでしょうか。残念ながらゲームについては無知です。


3つ項目ピックアップして考えてみます。(全部じゃなくても良いですよね?)

質問者は「AIを前提として」と仰ってますが、わたしは虚構の対象を生身のアイドルなんかも含めて、考えました。(本人の能力の得意不得意ゆえ)


【C3.理解は愛の必要条件である】

<感情的>

理解とは知ろうという欲望、「好奇心」。

好奇心とは、対象を量化し分析して「あばきたてる」振るまいでもあって、

反対に、愛を抱く者にとって、その対象相手を「あばく」ことは恐れ、オブラートにかけたい心情にかられるのが道理。

<理性的>

クリプキの「可能世界」という概念がある。

これを手がかりに仮にヨン様を例に上のテーマを考えてみるとする。

韓流スターのペ・ヨンジュンという存在の固有名が、

「ヨン様」に附随する性質の「束」(眼鏡、『冬のソナタ』、生い立ちのエピソード etc.)についての記述自体と、置き換えられることはない。

「ペ・ヨンジュン」の名前は「『冬のソナタ』に主演した」と等価で置き換わることはない。「『冬のソナタ』に主演しなかったペ・ヨンジュン」という仮定の元にある「可能世界」は、無数に想定しうるのだ。

ペ・ヨンジュンという存在者の名前も、『冬のソナタ』というタイトルもどちらも個有名詞ではある。

しかし、ヨン様の名前はこの世界全体から彼が位置する彼の同一性を規定する「固定指示詞」であり、

『冬のソナタ』・彼の仕事・生い立ちといった属性の事々は「非固定指示詞」であり他とも「入れ替え可能」であるので、

それらヨン様の性質の束(記述)と、世界の同一性の中で占めるヨン様の「場所・位置」とは、代謝不可能である。

そこで、何故、貴女はヨン様を愛するのか。

→ex.「美しいから」「逆境にめげず努力した人で尊敬に値する」etc.

ところが、それは「美しい男性」というカテゴリー中にいる人、「逆境にめげず努力を惜しまなかった人」カテゴリー中にいる人、といった様に、

彼の持ち合わせる「美質」も「人生ドラマ」もどんな価値要素でも、愛と深い共感でもって理解を捧げると途端、

貴女にとってかけがえのないヨン様であるはずが、「他の誰かと入れ替え可能」な相対的な価値存在に還元されてしまうだけという「矛盾」が生じてしまうのを、避けることはできないのである。

ここで留意すべきなのは、存在者自体が世界で占める「位置・場所」の方こそが、「そこにあてはまるあらゆる要素」よりも優位なのである。*

これは人間にとって実存的な問題である。

これは否定神学としても命題である。


*ちなみに、例えば「日本の総理大臣」というと「位置・場所」であって、それに対して小泉、海部、橋本等の各人の方が入れ替わる「要素」ということになる。国王、天皇もしかり。


http://www.cmp-lab.or.jp/~narusawa/9401.html

?v???[?X?g?F??????~?]

http://www.socius.jp/lec/18.html

Socius_社会学感覚18音楽文化論

【B4.よって内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異はない】

&【C-2:内部(虚構)の他人への愛と、外部(現実)の他人への愛は同一である】

<感情的>虚構で制作された「他人」には生命がない。命が宿っているかという点で現実の他人と虚構の他人とは違う。

虚構の他人は現実の複製で、現実の他人は唯一無二で複製できない。ゆえに現実の他人へ賭ける愛こそ真に実存を賭けた愛であって、複製である虚構の他人への愛は所詮、入れ替え可能ではないか。現実の他人への愛こそが優位、虚構で制作された他人への愛は劣位と思う。


<理性的>虚構で制作された他人にはアウラが宿っているのである。「アウラ」を備えているかという点で、現実の他人と虚構の他人とでは、存在感の濃密さが違う。虚構の他人の存在感の方が濃密に感じとられる。

生身の役者や舞踏の演技による制作された「他人」も同様。

そしてしばしば人間は、虚構世界(思想、芸術、政治、etc.)に実存を賭けることによってこそ、その生を濃密にしてきたではないか。


現実的に、「現実」と「虚構」とが相対立するものではないとは思いますが、あえて単純化。

2つめのは<感情的>も<理性的>も要するに審美観になってしまいました。わたしの心情的には<理性的>に与するものです。

一つめの<理性的>は、ほとんど悪いギャグみたいですね。ヨン様に悪気はないです。

◎質問者からの返答

元ネタは質問終了直前にでもお答えします。勿論、その前に指摘して下さっても構いません。

オタクの萌え(愛)の完全肯定、及びその優位性を主張する議論に相当させているつもりです。

>全部じゃなくても良いですよね?

はい。全てでなくて構いません。

感情、感性的な反論に関しては、最後の結論にも答えていただけると嬉しいです。

>C3

クリプキを持ってこられると、未だ浅学の僕としましては議論を擁護しにくいですね。提示された論証について、文句を挟むところはありません。確かにC3の『理解』は矛盾しております。出来るとすれば、虚構世界に対するもっと良い説明を行うことでしょうが、議論が錯綜してしまうため控えさせて頂きます。

YOWさんの議論を容認すると、虚構世界の優位性は失われますが、C-2(Conclusion-2を意味してます)まで逆戻りすることのみに留まってしまいます。現実世界への愛を(虚構世界のそれよりも)重視する方にとっては、『現実世界の他人への愛と虚構世界の他人への愛は同一である』という結論以前の命題を否定しなくてはなりません。

また、愛の必要条件で『理解』の他に挙げられるものをXと仮定して、Xが現実より虚構の方で優位に立つならば、C系列を全て入れ替えることで、C-3及びC-4は擁護できるかな、と思います。

>B4 & C2

理性的な反論の方では、虚構の優位性を援護して下さっているのでしょうか。

感情的な反論に反論するのは気が引けますが、

>現実の他人は唯一無二で複製できない

ということに対しては、A系列において、「現実の他人の完全な認識は出来ない」という(いささか認識論的懐疑の)議論を行っているつもりです。この議論の結論として、「現実の他人」も認識を通した結果、「虚構の他人」へと変遷していることを主張しています。ここから、主体にとっては「現実の他人」と思っているものが実は、「(内部世界によって作り出された)現実の他人」であり、「(内部世界によって作り出された)虚構の他人」も同様のプロセスを経て生起しているのだから、それらに差異は無い、という運びをするつもりでした。

この結論が真だとすると、

>生命がない

という一見外的な要素さえも、内部世界によって制作された要素となり、制作された要素に差異はないのだから、現実及び虚構の何かに対する「生命がある/ない」という区別による優位性の判定は、恐らく使えないのではないでしょうか。

>「現実」と「虚構」とが相対立するものではないとは思いますが

念のため記述しておきますが、当方もその意見に同意しております。


3 ● ROYGB
●20ポイント

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061823337/

Amazon.co.jp: 四季 春: 本: 森 博嗣

論理的な反論

Aに関しては特に問題いが、BはAと矛盾している。Aの結論であるC?1によれば、内部化された外部は不完全であるのに、どうやれば内部によって製作されたものと外部のそれを比べることができるのか。

それに、不完全に認識された外部と同じものでさえ、内部で製作出来るとはかぎらない。例えば、外部にある音楽、絵、小説、映画などを内部で製作できるだろうか。人の手によって作られたものは、少なくとも誰かの内部にあったものなのだが、それが誰にでも製作できるとは限らない。

外部と同等の他人を内部に製作することについて考える場合も、同じような問題がある。絵の描けない人の内部に、絵を描ける他人を製作できるのだろうか。また、外部に他人が存在するのと同様に複数の物事を処理できるのだろうか。

コンピュータならば、内部に別のコンピュータを存在させることができるが、その処理能力は元のコンピュータを超えることはない。2つのバーチャルマシンを実行させた場合にも、2台のコンピュータと同じ処理能力が得られるわけではない。

Bが成り立たないとCも成り立たないが、Cだけで考えても問題がある。

まず、外部の他人は内部にも存在するが、内部で製作された他人は当然ながら内部にしか存在しない。そのため、外部世界で活動できないというデメリットがある。

また、理解が勝ることは必ずしもメリットではない。全てがわかってしまってはつまらないと感じることもある。

Cが成り立たなければ、Dの問いには意味が無い。ちなみに「C1の対偶」ではなく、「C?3の対偶を考えよ」ではないですか?


感情的な反論

内部によって製作された他人が、外部の他人よりも勝っているのなら、内部の人に質問したらどうでしょう。


感情的な反論2

内部に製作した恋人が、自分の内部に製作した人を愛してしまったらどうするんですか?


リンク先は、森博嗣の「四季 春」を紹介しているアマゾンのページです。主人公は「天才」で、内部に複数の他人を製作してます。

他人をエミュレートすることで、相手の心を読むのと同等なことも出来ます。

◎質問者からの返答

>どうやれば内部によって製作されたものと外部のそれを比べることができるのか。

B1、B2については説明を端折った部分があります。

外部が内部化された時点でそれは内部なのですから、正確に言えば「(内部化された)外部 & 内部」を比較することになります。だから、比較という行為自体は可能です。

>例えば、外部にある音楽、絵、小説、映画などを内部で製作できるだろうか。

出来ると思います。

まずC-1より外部芸術品を完全に模倣しなくてもいいということになります。

また、外部芸術品を記憶として再生してみたとき、凄く曖昧なものが想起されると思います。

そして想起自体は制作の一種です。

よって、外部芸術品は制作可能ということになります。

ですから、

>それが誰にでも製作できるとは限らない。

という疑問に対しては、誰もが制作できている、と返答します。

(ちょっと僕の反論は粗いので後ほど改定するつもりです。)

ついでにB2について補記しておくと、「何故、『この世界が夢の世界かもしれない』という疑問がリアリティを持つのか」を考えてみて下さい。夢の中の世界でも、音楽を聴いたり絵を見たりした経験はあるかと思います。それらは内部によってのみ制作されたものですが、夢の中ではリアルとして感じられます。

>絵の描けない人の内部に、絵を描ける他人を製作できるのだろうか。

『絵を描ける』という属性を与えて制作すればいいだけです。

>外部に他人が存在するのと同様に複数の物事を処理できるのだろうか。

>その処理能力は元のコンピュータを超えることはない。

コンピュータとのアナロジーは面白いのですが、処理能力という点で外の人と同等でなければならない、ということはありません。愛において「理解」が大事であるという命題が議論に含まれておりますので、その点で処理能力は今回の議論とは無関係であると思います。

また、B4については、「人間は、自分が理解できる範囲で、他人を理解している」という意味を含ませているです。どんなに外の人が高い能力を持っていようと、認識という窓を通されると、自分の理解の範囲内に収まってしまうということです。例えば、赤ちゃんにノーベル賞の教授を見せても、偉大な人だとは思わないでしょう。僕が「%”$%#’(|#|」と喋っても、それが火星語だと地球人は理解してくれません。

>外部世界で活動できないというデメリットがある。

中の人への「理解」もしくは「愛」が勝るという素晴らしいメリットについてお話しているので、この指摘も少し議論とは関係ないのでは。

>理解が勝ることは必ずしもメリットではない。全てがわかってしまってはつまらないと感じることもある。

理解してしまったら、つまらない、つまり愛が潰える(かもしれない)ということでしょうか。

現代社会における愛という行為は、mutualな大人同士が相互理解を深めていくことだと認識しておりますが、その相互理解の努力は破滅への道なのかもしれませんね。その論で行くと。

>ちなみに「C1の対偶」ではなく、「C-3の対偶を考えよ」ではないですか?

C1です。「質的に勝る方を取らないならば、人間ではない」となります。当然のように受け入れさせた命題を最後に引っくり返すことで、ちょっとした驚き効果を狙っていたりします。

>外部の他人よりも勝っているのなら、内部の人に質問したらどうでしょう。

『中の人』は「私が行う『中の人』の理解において」勝っているのみなので、外の人より頭が良いとは限りませんから。勿論、外の人は『僕が理解できる範囲で』頭が良いのです。

>感情的な反論2

それもまた、主体の望んだことなのでしょう。少なくとも、寝取られ属性(NTR)というものはこの世の中に存在するようです。

>他人をエミュレートすることで、相手の心を読むのと同等なことも出来ます。

他我問題のsimulation theoryに拠れば、それは誰でもやっていることであります。程度の差はあるでしょうが。


4 ● kokkuri
●20ポイント

http://www.google.com/webhp?hl=ja

Google

面白そうだったので参加です。

元ネタのタイトルは分りましたが、やってないのでなんとも。すいません。


【感情的な反論】

繁殖できない人間は、一世代で滅ぶ事になる気がするんだけど。

つまり親は人間ではなかったんだろうか。


【論理的な反論】

まずC-1?C-4についての結論を述べる。

・C-1は真である。

・C-2は必ずしも真であるとは言えない。

・C-3はC1-C3から導き出される結論として正しくない。

・C-4はC1が真であるとするには立証が不足している為、真と判断は下せない。


次に各結論について


・C-1

A1?A3は妥当であると考える。

導き出される結論C-1も論理的に導き出されているのではないだろうか。


・C-2

B4の「内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異はない」は、妥当な反証が1つでもあれば崩れる前提である。


C-1での結論から、内部化された外部は外部そのものではないとする。

内部化された外部と、外部に発生しやすい差異として代表的な例として時間による変化がある。

美しい少女が居たとする。

100年後その少女が死んで遺骨になっていたするとどうだろうか?

内部化された美少女と、100年後の現実として存在する美少女であった遺骨に差異はあるだろうか。

極端な例であるが、内部化した外部は更新しなければ、実際の外部とはどんどん食い違っていく。

少女の遺骨を見せられても、これはかつて少女であった物だと認識しなければ、内部化された少女であるとも認識出来ないのである。


しかしその反面、時間やそうした変化に影響されない物も存在する。

内部化されたショパンの曲の旋律、現実のショパンの曲の旋律などに差異はないと言える。


よって、B4は「内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異がない場合がある」という表現が正しい。


C-2の結論である「内部(虚構)の他人への愛と、外部(現実)の他人への愛は同一である」は上記で挙げた例で言えば、内部の少女が外部の情報の更新により老人になろうが、化け物になろうが愛する事の出来る類の愛情であれば、真であると言えるだろう。


・C-3

C1?C3が正しいと仮定しても、C-3の妥当さは疑問が残る。

正しくC-3に導き出される結論は以下だ。

「愛の必要条件の1つの理解面において虚構は現実に勝るため、人間ならば優秀である方の虚構を選択する」

これは「人間は虚構への愛を取るべきである」とイコールではない。

似たような文にするならば「人間は虚構への愛を取る」だろう。


C-3に「人間は虚構への愛を取る」と書かれていると仮定した上でC1-C3を含めた反論を以下に記述する。


C1は「同一の質的な面で二つの物事の一方が勝っている情況において、人間ならば質的に勝る方を取」らない人間が居る事を1つでも示せば崩れる。

例えば私が「なんでも奢ってあげる」と言われて、食事に連れて行かれたとしよう。

相手は金持ちではない、どちらかといえばとても貧乏な人だ。

そういう人に数万円の食事を奢らせようと考えるだろうか。

相手はお人よしで、数万円の食事でも嫌がらないで奢ってくれる。恨みもしないだろう。

こういう場合は、高い物を奢ってもらえば貰うほど特であるが、相手の気持ちや財布状態を考慮して、”それなり”の所を選んでしまうのが一般的であり人間的と考える。

以上の事に反証が出来ないという事であるならば、これは偽である。


C3は、愛の中に要素としての理解が含まれるという記述である。

これとC2を踏まえて導き出した結論C-3に論理性は無い。

言ってる事は言い換えるとこうなる。


C2’ Windowsは普及率の面において、Macより優れている。

C3’ WindowsはOSの1つである。

結論 Windowsは優れたOSである。

結論’ 人間ならば優れたOSであるWindowsを使う


これが論理的な結論というならば反証して頂きたい。

愛の中の理解面では虚構が勝っていても、その他の部分が現実が勝る事の証明が不十分である。

C1の反論にあるような「相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。」は愛である。


・C-4

内容にC2,C3が含まれている点が疑問だが、C1の反証をしている為省略。

◎質問者からの返答

まずはB4について。

『点時間tにおける』を付与してあげて、

「点時間tにおける内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異はない」

とすれば回避出来る反論であるかと思います。

音楽など、「連続性が重要なのだ」と反論できる外部については、「世界は離散的である」という風に返しておいて、また別の場所で議論してもらおうかと思います。

C1について。

例は「金銭的な面において」と解釈しました。これは量的な問題であります。だから少し違うのではないかなぁ、と思いました。

また、質的な問題として捉えると、

>こういう場合は、高い物を奢ってもらえば貰うほど特であるが、相手の気持ちや財布状態を考慮して、”それなり”の所を選んでしまうのが一般的であり人間的と考える。

という反論は、「金銭的な面」だけではなく、他の要因、つまり「相手の気持ち」「財布状態」を混ぜてしまっています。例での判断は、これら三つの要因を『奢らせる』『奢らせない』の両者が所持していることになります。そして件の判断では、これら三つを合わせたものを比較したときに、『奢らせる』『奢らせない』のどちらが勝っているかといえば、その人にとっては後者だったということです。よって、この判断は『質的に勝っている』と捉えることになり、命題の真理性を保持するものと考えます。

C3について。

この命題についての脆弱性は、承知しております。

(だからここへの反論がすぐに来ると思っていました。)

>愛の中の理解面では虚構が勝っていても、その他の部分が現実が勝る事の証明が不十分である。

この反論については、こちらが敗北せざるを得ません。

ただ愛の必要条件が他に何があるか、というと中々思い付きませんし、仮に思いついたとしても、その要素において虚構の方が質的に勝ることの証明が出来てしまいそうです。

いつか愛の必要条件でも質問してみようかな、と思います。

それから、

>C1の反論にあるような「相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。」は愛である。

やはり愛という言葉が曖昧ですね。慈悲の心を愛だと思わない人もきっといるでしょう。

本問題における愛とは、いわゆる恋愛の愛を想定しております。

最後に、感情的な反論について。

>繁殖できない人間は、一世代で滅ぶ事になる気がするんだけど。

>つまり親は人間ではなかったんだろうか。

そう、厳密には人間ではなかったのです。

理性が本能に勝る、新しい定義の『人間』が自分たちの世代である…のかもしれません。

それで滅亡してしまうとしても、それはそれということで。


5 ● T-pon
●20ポイント

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%EA%A4%AB%A4%A4&...

国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書

感情的な反論:勝手にやってくれ。虚構の愛に没頭しようと、するまいとあなたの自由です。どんな愛を楽しんだとしても私が反論する筋合いはないです。ただし、論理性は認めませんが。(私はそもそも語義の一般性を認めません;書き言葉や話し言葉は媒体として外部世界を経由するものの、すべての単語は、それぞれの人にとって少しずつ異なるイメージを想起させます。A3の命題もこのことを支持しています。とくに「愛」は抽象名詞であって、「これです」といって指し示せるものではないのでなおさら)


要するに、前提「語義の一般性」がすでに主観に満ち満ちている。ルールに文句つけて失礼w


論理的反論:論理的でないものに論理的に反論することはのれんに腕押しのような気がしますが、ここまでcogniさんの提示された命題を全て真として、論理もすべて成立するとして、読んでみました(回答者とそのコメントもとても参考になりました)。


そこで注目したのがC2です。理解というものがどういうニュアンスで使われているのか不明ですが、自分の頭で想像して(むしろ創造ですか?)作り上げたキャラクターなので理解ができている、という「理解」と、外部の本物の人間を理解するときの「理解」は異なっています。


?内部制作の他人の「理解」はそのキャラクターに何をすればどういう反応が返ってくるということが予測できる、ということなのでしょうか?自分で作り上げた人物だから、当然理解できているということでよろしいのでしょうか?恋愛シミュレーションとかやったことないので分かりませんが、そういうことにさせて頂きます(^^;


一方で、

?外部の他人の理解は、その人の考えていることに共感できたり、その人の反応を予測できたりするようになることだと思います。言い換えれば、自分なりにその人をエミュレーションして、それが結構あたっているということです。そしてそのエミュレーションは、お互いにしているので、気が合っていればお互いに理解していることに気づいて嬉しく思ったりして、そのうちに仲良くなってゆくわけですよね。


前者には理解度(エミュレーションの正確さとか)は外部の人間に対する「理解」に勝りますが、予測不可能性が極めて少ないですよね。理解できて当然です。


理解のプロセスも違います。前者は自分が作り上げるのに対し、後者は相手との(リアルな=完全な予測不可能性を伴った)コミュニケーションのうちに輪郭がはっきりしてくるという感じです。また、リアルな人間関係のほうが自分自身の人生観や生き方も変えられる可能性があるのではないかと思います。様々な意味で利点があると思っています。(それだけでもはてなの一質問として成り立つでしょう)


※完全な予測不可能性とは、一定の枠組みの中でパラメータがランダムに変動する予測不可能性ではなく、パラメータや枠組み自体がランダムに変動し、パラメータの計測可能性自体も保証されないような予測不可能性を指す


結局私の主張はどうなのかというと(すいません論理的な構成になってなくて(>_<))・・・


C2の比較は曖昧。「理解」の内容が内部制作の他人と外部の他人とで異なる。内部制作の他人の理解は当然可能である一方で、自由度が低い(=予測可能性が高い)ので自分がそこから得る喜びが少ない。

C3は誤り。「愛」は抽象名詞であって、各人の定義があってよいが、かりに「愛」の必要条件というものがあったとして、そこに含まれるのは内部制作の他人に対する「理解」のような理解ではなく、外部の他人の「理解」が含まれる。


この質問面白いので、時間あったらまた回答させて下さい、よろしくデスヽ(°_°>)

◎質問者からの返答

ではまず、議論を客観的に定位することから。

>語義の一般性

語義は外部から獲得するのは確かですが、一度そのwordを理解してしまえば、それは内部にあるものと見なせないでしょうか。

加えて、如何なるwordであれ、その語義が『社会的に見てtrue』である十分条件は存在すると考えます。

(何故、我々はコミュニケーション出来るのでしょうか。それは語義を共有しているからでしょう。ですから、我々がコミュニケーションできているという事実は、語義の成立の十分条件の存在を肯定してくれるかと思います。)

ですから、

>それぞれの人にとって少しずつ異なるイメージを想起させます

という命題はtrueだとは思いますが、この問題の反論としては不適であると思います。

また、語義が『社会的に見てtrue』である十分条件の存在を肯定すると、

>要するに、前提「語義の一般性」がすでに主観に満ち満ちている。

については、主観的に満ちていようとも、社会的合意の置ける範囲で、質問文の当て嵌めが全人類に対して可能であると思います。

次に理解について。

>予測不可能性が極めて少ないですよね

>自由度が低い(=予測可能性が高い)ので自分がそこから得る喜びが少ない。

これら文言より、「理解は喜びが大きい」という必要条件をinferしましたが、果たして『喜び』が必要条件であるかは疑問であります。他人の悪い面を知ったとき、それは他人を理解したことになると思いますが、そこに喜びはありますでしょうか。

また、説明文中では、予測不可能性と理解との関係が明瞭ではないと思います。

>リアルな人間関係のほうが自分自身の人生観や生き方も変えられる可能性があるのではないかと思います。様々な意味で利点があると思っています。

それが利点であるかは疑問です。現実世界の人間関係によって磨耗したり、犯罪を行った人だって、何らかのeventで自分自身の人生観や生き方を変えられたのではないですか?

これらの疑問及び反論全般を通して、

>「理解」の内容が内部制作の他人と外部の他人とで異なる。

については納得できませんでした。


1-5件表示/13件
4.前の5件|次5件6.
関連質問


●質問をもっと探す●



0.人力検索はてなトップ
8.このページを友達に紹介
9.このページの先頭へ
対応機種一覧
お問い合わせ
ヘルプ/お知らせ
ログイン
無料ユーザー登録
はてなトップ