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「人生に解はない」とよく言いますが、
幸せについての定義がなされていて、選好の完備性・推移性が満たされていれば解は存在するのではないかという気がします。
この場合でもなお、人生に解は存在しないのでしょうか?論理的に証明して下さい。

●質問者: wiateria
●カテゴリ:生活
✍キーワード:人生 存在 定義 幸せ 証明
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 8/8件

▽最新の回答へ

1 ● jyouseki
●10ポイント

http://www.hatena.ne.jp/

はてな

幸せについての定義がなされていて、選好の完備性・推移性が満たされていれば解は存在するという意見には賛同します。

しかし、この世の中に完全に同じ人間がいない以上、定義から外れる人が今後生まれてくる可能性があるため、やはり解はないといえるのではないでしょうか。

◎質問者からの返答

回答ありがとうございます。確かに、幸せについて定義は個々人で異なっていると思います。

各人が明確に幸せの定義を持っている時に、彼にとっての人生の解というのを必ず持ちうるのか、というところに興味があります。


2 ● nischiura2006
●10ポイント

http://www.hatena.ne.jp/1140104567

人力検索はてな - 「人生に解はない」とよく言いますが、 幸せについての定義がなされていて、選好の完備性・推移性が満たされていれば解は存在するのではないかという気がします。 この場合..

この回答が的外れでないことを祈ります。もし的外れの場合はポイントは結構です。


学校数学では「解が必ず存在する」という暗黙の前提で成り立っていますが、数学の世界に限って言えば「解がない・解が存在するかどうかそのものがわからない」ことのほうが多いのです。ですから、(数学よりも)より複雑な人生において「こうすれば必ず?なる」「こうするのが正しい」と言う意味の解は存在しないと思います。

ある人にとっては「リスクを取っても資産運用を積極的に行うべき」であろうし、ある人とっては「安全第一」が原則の場合もあるでしょう。

◎質問者からの返答

ありがとうございます。

先のコメントにも書いたとおり、万人に共通の人生の解があるとは限らないという点に関しては同意です。

たとえば、iさんがAとBという選択肢を与えられたときに、iさんの幸せの定義を前提にして正しいといえる選択があるのかないのか、ということを知りたいと思っています。

数学の世界でもたとえば、「解が存在すると仮定するとこんなおかしなことになるから、解は存在しない」といったようなロジックで解が存在しないことを説明したりしますよね。そういう説明をしていただけると有難いです。


3 ● makoron-P
●10ポイント

http://www.ehara-hiroyuki.com/

江原啓之公式サイト

個人的に、「幸せ」とは「思い込み」であるという結論に達しました。


人生の解については、たましいの修行のために存在するという江原さんの説が一番有力であると考えています。

◎質問者からの返答

質問について補足しますと、「解が存在する」とは「人生において複数の選択肢が与えられた時に正しい答え/正しくない答えが存在する」ということだと考えてください。

たとえば、転職しようかどうか悩んで結局転職のチャンスを見送った友人が「やっぱり転職したほうが良かったかも・・・」とくよくよ悩んでいるようなときに、「人生に答えなんてないんだから」と励ましたりしますよね。

この「答え」というのが本当に存在しないものなのか、あるいは常に存在する訳ではないがある条件が揃った場合には存在するものなのか、ということを問うています。


4 ● うなきよ
●20ポイント

http://www.hatena.ne.jp/list

人力検索はてな - 質問一覧

小学生の夏休みの宿題を例として、あと二日で休みが終るが宿題は殆ど手付かずで独力では終りそうもない状況だとします。この時、「他人手を借りて終らせる」「答えを写して終らせる」「自力でできるところまでやる」「諦める」など様々な選択肢があるでしょう。この時小学生が「答えを写して終らせる」を選択したとします。これが小学生の解です。その結果、宿題は終ったという事実が残ります。教師側は宿題が終ることが一般的には正しい解であると認識し、終わっている事実を見て正しい解を選択したと判断するでしょう。この時、「答えを写して終らせる」「宿題は終っている」という解が同時に存在しています。このようにひとつの事象であっても複数の解が存在します。よって、「答えは存在するがあらゆる主観があるが故にひとつではない」といえると思われます。

◎質問者からの返答

なるほど!

事実を評価する主観が多数存在することによって複数の解が存在するということでしょうか。


5 ● TomCat
●10ポイント

http://www.hatena.ne.jp/1

人力検索はてな

解というものは、前提となる世界の範囲によって

その有り無しが左右されてくるものです。


有理数の範囲だけで答えを求めるなら解のない問題も、

無理数にまで広げれば解が得られるかもしれません。

「人生の解」も、それと同じだと思うんですね。


したがって、私は人生に解はある、

自分の認識の世界では見つからないかもしれないが、

自分の認識し得ない世界の方がよほどに広い。

そこにまで探求の輪を広げ、深めていくことで、

はじめて意義ある人生に向かうことができるのだと。

そうと考えます。


自分はどこから来て、これからどこへ行くのか。

何のために今ここにいるのか。


生まれてきた意義は解明できるのか。

自分の存在意義は何によって構成されているのか。


それらの合成された結果としての未来の収束点が、

すなわち「人生の解」ということになってきます。


これを、今現在の自分の認識できる世界の中からだけ求めようとすれば、

それは見つからないのかもしれません。


しかし、それで解なしと結論づけてしまっては、

それはあまりに狭く人生を限定してしまうことにつながります。


むしろ、人生の解は必ずあるはずという前提をもって

幸せという人生の目標の定義を試み、

その構成要素を明確に解明していくというアプローチこそが、

あるべき解法ではないかと思います。

◎質問者からの返答

ありがとうございます。

現実の限定された人生において、解を見つけることが出来るか否か、その解法はなにか、ということは、個人的に生きるうえでの参考にはなりますがここでは問題としていません。

果たして解が存在するものなのかどうなのか、ということに興味があります。

> 有理数の範囲だけで答えを求めるなら解のない問題も、

> 無理数にまで広げれば解が得られるかもしれません。

> 「人生の解」も、それと同じだと思うんですね。

直感的にはそんな気もします。

ただ、

> 自分の認識の世界では見つからないかもしれないが、

> 自分の認識し得ない世界の方がよほどに広い。

という場合に、必ずそれが存在するのか?というと、そうではないかも知れないと思うのです。

たとえば、「最大の素数」というのは

“自分の認識の世界では見つからないものであり、かつ、自分の認識し得ない世界の方がよほどに広い(無限に数を数えることは到底出来ない)”わけですけど、

しかしそれでもなお、最大の素数なるものが存在しないということはわりと簡単に証明出来るわけですよね。

そんなふうに、人生の解というのも、直感的に考えるとあるような気がするけど、よく考えてみるとそんなものがあるわけないというようなことが説明できてしまったりすることはないのでしょうか。


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