http://homepage3.nifty.com/sami624/index.html~030915
?まぁ、経緯が分からないので何ともいえないですが、死んだつもりでサーフィンでもやってみたら如何でしょうか。
?何が原因で自暴自棄になっているか分かりませんが、人生10中8?9は自分の思い通りにならないのが一般的です。
?人生の1/10の喜びを実現するために生きているのがこの世の大半でしょう。
?私は趣味でウインドサーフィン・サーフィンをしていますが、高い代金を払って購入した道具が壊れて生死を彷徨ったり、突然のコンディションの変化で、海上保安庁の巡視艇に救助されたりと、色々な事件を起こしていますが、なお趣味を続けています。
?それこそ、死んだつもりでウインドをしている時もあります。過去の自分のレベルを超えた時に得られる、言葉にし難い1/10の可能性である喜びを得るために。
?死んだつもりで何か一生懸命頑張ったら如何でしょうか。
わたくしも趣味でオートバイなぞにまたがっております。
この質問のようなことを考えていても、走行中にヒヤッとすると、「死ぬかと思った」とか「助かった」とか思ってしまいます。
なぜ、そう思えるのかは不思議ですが、まだ生きていたいようなのです。
それが、親を悲しませないためなのか、それともほかの何かなのかを知ることは、大事なことなんじゃないかと考えているのです。
あなたの親御さんから貴方の全記憶が消えれば、悲しまないでしょうね。
でも、無理でしょう。
悲しむ人がいるから消えられないのが一般的。
苦しいかもしれないけれど、大きな抑止力です。
ご両親が他界するまでひたすら待ちましょう。
その時にまだ消えたければ、消えるとよいでしょう。
馬鹿にはしていません。
真面目な答えです。
そのときに、失った親以上に大切なものを持っていなければ、消えてしまうかもしれません。
親以上に大切なものが手に入るという期待で生きていくのかと考えると、期待って頼りないですよね。
どんな策を弄しても、親より先立てば、
泣かせないわけにはいきません。
でも、わが子の人生を誇りとして、
それを慰めとして、笑顔で見送る最期、
というものもあると思うんですね。
たとえば人命救助に殉じて命を落とした青年。
いましたよね。ホームに落ちた人を助けようとして
自らの命を落とした人。
また、世界の戦地や飢餓地帯に乗り込んで、
死と隣り合わせの危険な救護救済活動に従事している人も
たくさんいます。
アフガン戦争では、ユニセフは危険な北部山岳地帯を
ロバを連ねて救援物資を搬送しました。
赤十字の人も爆撃を受けて死傷しています。
世界には、そんな命がけの任務を通じて
弱者救済に挺身している人たちがたくさんいるんです。
そういう任務に殉じた最期は、親を泣かせるでしょうが、
同時に大きな誇りと慰めをもたらすに違いありません。
もちろんそういう道を選んでパーっと散れと結論づけることは、
そういう任務に挺身している人たちに対して極めて失礼なことです。
そうではなく、上記を一つの例として、
わが子の人生を誇りとして、そこに慰めを見いだしてもらえる、
という最期もあるということ。
そうお考えいただければ幸いです。
まえにホマレと書きましたが、親にとっては「慰め」が大きいのでしょうね。
身を挺して他人のために生きている方たちって、自分の生きてきた時間や親の愛情よりも、現在恵まれていない人たちの、これからの方が大事だと思えるのかわからないところがあります。
たとえば、私がこれからカンボジアや中国の人たちのために、対人地雷や遺棄化学兵器の除去に参加するつもりだと、親に告げたとします。
両親は、絶対に止めさせようとします。
そこを説得できる具体的な何かを、現在の私は持っていません。
現在そういった作業に従事しておられる方々はその何かを持っていると思うのです。
あと何年か何十年かわかりませんが、親が亡くなってから死ねば、悲しませることはないと思います。ちょっと詭弁ですけれどね、理屈としてはそうです。
何年か何十年先までに、生き続けなくちゃ行けない理由が見つかるでしょうか。
http://www.so-net.ne.jp/news/top/html/20020227i481.html
http://tsutimikado.at.webry.info/200603/article_1.html
親を悲しませずに消えてしまうことは(まず)不可能ですが、親の悲しみを相殺するぐらいの立派な(世間から賞賛されるようなかたちでの)消え方、死に方はあるかもしれません。
親の悲しみは残るでしょうが、少なくとも誇らしい気持ちもまじり、ただの悲しみを残すのとはいくらかなりとも違ってくるのではないでしょうか。
たとえば、線路に落ちた人を救おうとして電車にはねられた韓国からの留学生の方がいましたよね。そんなケースです。
電車の中とか町の中でチンピラに絡まれている女性を救おうとして袋叩きにあったり、刺されたりして死んでしまうとか、そういうことです。でも、そういう機会に遭遇しないとなりませんね。
覚悟さえできていれば、いざというときに恐いものなしですね。
そうじゃない人間にとっては、恐いものなしっていうのが世の中いちばん恐いです。
気分は自爆テロ、あとは「大義」があればいいわけです。
きっと、Dynamite_kid さんのご質問は、自分が死ぬためのその「大義」、大いなる理由、意義なのだと思います。大昔の日本なら「お国のために」ということでしたが、、、、、
ご両親のために何か命を投げ打ってでもしたいことってありませんか? (ってこっちが質問してどーする!)
今は何もないので命を投げ打ってでも、親がかけてくれた愛情にこたえて行きたいのです。
そして、それが、重くつらいのです。