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質問が長すぎでここに書ききれなかったので
http://d.hatena.ne.jp/MANOWAR/20060323
を参照してください。「労働とは?」というのが質問の趣旨です。

●質問者: MANOWAR
●カテゴリ:政治・社会 経済・金融・保険
✍キーワード:労働 趣旨
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 4/4件

▽最新の回答へ

[1]哲学としての労働。 schwalbe

人間が自然に対してはたらきかけ、人間にとって有用で価値のあるものをつくりだす行為である。

自動改札機の話ですが、自動改札機を作るという労働者がいます。

テクノロジーの発展により労働者の絶対数は低下するかもしれません。

しかし、テクノロジーの発展は労働によって得られるものです。


哲学的に見ると労働とは自己表現の手段です。

自己を自然に対してはたらきかけて何かを作り出す。

これが労働です。決して対価として賃金を貰う手段ではありません。

この絶対条件が崩れると労働はただの生きる為の手段になります。

テクノロジーの発展は自己を表現する方法の多様化です。

自動改札機はその中に多くの方の自己表現が詰まった結晶です。

機械はただの人間の代用ではありません。

そこに人間の過去の英知を引き継ぎさらに発展・進歩させていく、

自己表現の場だと私は考えます。


[2]>1 正論です。しかし… MANOWAR

「哲学的に見ると労働とは自己表現の手段です。

自己を自然に対してはたらきかけて何かを作り出す。

これが労働です。決して対価として賃金を貰う手段ではありません。」

しかし、商業至上主義の世の中、パンツを売れば何万円、とか、AV出れば、何十万、こんな楽チンなお金の儲けかたをする世の中、額に汗して働いた賃金が、あまりに低すぎやしないでしょうか?


「これが労働です。決して対価として賃金を貰う手段ではありません」これは、生活水準の高い低いで、生きるための手段としての労働である、低所得者はそんなことも考えず、ただただ耐え忍ぶ、これは、あまりに報われくはないでしょうか?本当に貧しく、生きるためにやりたくもない覚せい剤の売人の存在、これはかつての日雇い労働者全盛期の悲しい生き方というのもあります。私も裕福な人間ではないし、体が弱く、こうして、ネットで文章を書けているのも、今日までかもしれないし…そうすると、あしたも、ネットで文章がかけるかどうかもわかりません。さて、なにが、いいたいか分からなくなってきたのですが…すみません。士農工商制度というのがかつてありましたが、商人が一番卑しい職業というのはわかる気がします。ユダヤ人が嫌われた理由、これも、あまりに金に固執した宗教価値(?)からだとおもわれます。


[3]>2 資本主義社会と労働。倫理と社会主義。 schwalbe

労働に対する対価は需要と供給によって決まります。

これは、資本主義社会の構造そのものであって、残念ながら、労働そのものと関係がありません。

需要が大きく、供給が少なければどんな労働でも対価は高くなります。

逆に需要が小さく、供給が大きければ対価は小さくなります。

資本主義社会における対価はこれによって決められるのです。

これは、残念ながら資本主義社会の欠点でしょう。


だからこそ、社会主義が生まれたわけですが、社会主義敗退の根本は倫理です。

ブッダは「人間の全ての苦しみの源は執着である」と説いています。

原始仏教は宗教ではなく哲学です。

この倫理観。まだ、人類は執着から逃れられないのです。

自らの欲のために他を犠牲にすることを厭わない。

だからこそ、現代社会は資本主義社会なのだと思います。


原始社会主義社会はその点では優れていました。

獲物を捕る。集団において、その日捕れなければ他から自然と分け与えられました。

これは、貯蔵が出来ないからです。

これが、農耕が始まり、富を貯蔵できるようになると人間の欲望に限りがなくなります。


>ユダヤ人が嫌われた理由、これも、あまりに金に固執した宗教価値(?)からだとおもわれます。

違います。ユダヤ教はお金に執着はしていません。

ただ、技術的・資本運営的に優れていただけです。

ただの他民族の妬みによって迫害されたのです。

ユダヤ人は労働に対してはとても謙虚ですよ。


[4]定義 kokezaru753

こんにちは。

私も文章・論点にまとまりなくなるかもしれませんが、思ったことを書いてみます。


「労働とは」

まず、今までのところ拝見すると哲学的定義、それも当たり前(?)ですが、マルクス?実存主義での方向で進んでいるように思われます。

確かに定義自体を突き詰めていくとそういった「哲学的」な方向になるのだとは思いますが、

ちょっと「現実的」(日常的レベルになるようにお感じになるかもしれませんが)なところから・・・


「労働」の捉え方は、人それぞれ違うと思います。

(これは「哲学」「言語」「芸術」など全てにおいて結局そうであるとは思うのですが・・・

また”希望があるか”というのも、そこでの”言語理解””言語に対する思い・考え方”次第のような気もします。)


話を戻して、

「労働」を”ライフ・ワーク”とみなせば哲学的に近いところで考えることができるかもしれません。

しかし、単純に”生活の手段”とみなしている人にとっては労働以外に”価値”を見出しているかもしれません。

「自己表現の手段」を労働に見ていない・求めていないというようなことだと思います。


実際、定義づけるとしたら哲学者がするように”カテゴリー別”方法をとって話を進めないと”見解の一致”はなかなか見られないような気がします。

(そうでなければ、カントの道徳観での「全員の意見は一致するべきである」というように無理が生じるのではないでしょうか。

それゆえ哲学は(他の分野でもそうかもしれませんが)”分類する”という方向になってきているのだと思いますが、

それが実は”希望”はあるのか、にも少なからず関係するところかもしれないという感じがします)


MANOWARさまの「労働とは」の御質問がまずどういったあたりから生じたのかという点が、

ひとつのカテゴリー別になるかもしれませんですね。といったところでひとまず。



余談で申し訳ないのですが、ニーチェの最期は彼の病気が第3期に進んだためだと思います。

MANOWARさまが懸念されているところ(私の勝手な憶測ですが)ではないと思います。少なくともこの点に関しては”希望”はあると思うのですが。



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