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芦屋と宝塚って高級住宅地と聞きますが、文化背景の違いってありますか??宝塚は新興でしょうか?

●質問者: ma-ciel
●カテゴリ:芸術・文化・歴史 生活
✍キーワード:住宅地 宝塚 文化 芦屋
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 4/4件

▽最新の回答へ

1 ● andy-kaidy
●22ポイント

芦屋は、自然環境が穏やかで、縄文時代以来の住宅跡地からもわかるように、居住条件に優れ、またそれゆえに歴史性が豊かである。

大正初期、芦屋に駅が設置され、大阪・神戸の郊外として優れた立地と環境が注目された点が今日の住宅地化の走りとなり、昭和初期の「六麓荘」開発が、「高級住宅地・芦屋」のイメージを定着させたようです。

http://www.city.ashiya.hyogo.jp/welcome/sisyo.html

http://www.ashiya-people.com/history/history02.shtml


宝塚も同様、住宅環境はよく、中世では宿場町として栄えた。

交通網の発展を含め、そこから、住宅地化が進んでいったという共通点が多いのに、新興なイメージがあるのは、、宝塚歌劇団のモダンなイメージや、もともとの町の規模の小ささがあり、徐々に大きくなってきたイメージがあるからではないでしょうか。

http://www.towa-osaka.com/contents/watcher/takarazuka.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E5%B8%82



芦屋・宝塚の共通点として、

阪神間モダニズム

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E9%96%93%E3%...

といった動きがあります。


2 ● sougetsu
●22ポイント

1番の回答者の方への補足。

芦屋は六麓荘のある山の手が、ハイクラスが住んでいるエリアですが、あのあたりから、夜に大阪方面を眺めると、大阪の市街地が三日月上に広がった夜景を一望できます。

あのあたりに住んでいる人は昔は大阪で一旗あげた人たちで、その大阪を足元に一望できる場所ということで、六麓荘は急峻な地形にもかかわらず、高級住宅地なりました。(もっとも、お金持ちが多いので、歩いて上がる人はいませんが)

芦屋に隣接する西宮市の夙川も、戦前から高級住宅地として有名ですが、芦屋に比べるとひとつ格落ちします。その理由は芦屋の斜面が大阪方向を向いているのに対し、夙川はやや、神戸方向を向いており、下々の者を見下ろして暮らすという優越感が得られないからという説もあります。

宝塚は、単なる温泉宿場でしたが、阪急電鉄の創始者、小林一三が、安い価格で土地を買い、歌劇場や遊園地などのエンターテイメント施設と大阪都心を結び、比較的安い価格でよい住環境を提供するというビジネスモデルを日本で始めて行った場所です。

このビジネスモデルは当時、新興勢力として頭角を現してきたホワイトカラーに支持され、成功し、これを東京に移植したのが東急電鉄の五島慶太です。つまり、宝塚は二子玉川や豊島園みたいな位置づけにあたります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E6%80%A5%E9%9B%BB%E9%...


3 ● hamster009
●21ポイント

まず宝塚について説明する前に、兵庫県南部地域の特殊性について

触れますと、近畿のあのあたりは幕藩時代と現在の行政区画が大幅に

違うのです。つまり、現在の神戸市の六甲から東灘、芦屋市、西宮市に

かけて、この地域を俗に阪神間といいますが、こうまとめて言われるように、

ここはもともと一体の領地だったのです。


つまり、この六甲から西宮にかけては、かつては「灘」とよばれて、

幕府の天領だったのです。直轄地ですね。

徳川幕府が出来る前には、太閤豊臣家の直轄領でした。

このあたりは米もよくとれるし、水がいいので、酒がうまい、

いわゆる灘の生一本ですね。これがあるので税金がたくさんとれる。

というわけで、その回りは摂津藩や尼崎藩などの諸大名の領地だった

のですが、灘地域だけは特別の領地として別の文化圏を構成していたのです。

これが現在でも、行政区画とは別に阪神間と呼びならわされる

歴史的背景です。


明治以後の行政区画では別々の市になりましたが、文化が一体なので、

わかれてからも阪神間という呼称が消えないのです。

つまり、それだけはっきりとした文化ゾーンが今でもあるということです。

東京から来た谷崎潤一郎が愛したのもこの独特のやわらかい文化でした。

かつては東灘から芦屋、西宮は合体して、甲南市をつくるというアイデアも

ありましたが、実現しませんでした。

単独で市となっている芦屋は、そういう意味では、この灘の文化を

一番よく保存しているとも言えます。

大きさとしては区ぐらいしかないのに市になれたのは、財閥の別荘があり、

たしか住友だったと思いますが、一軒で市民税の半分を出していたからだ

とも言います。今はもうありませんが。

隣の東灘にも、鴻池(三和銀行)とか日本を代表する財閥の邸宅が

いくつかありました。朝日新聞の社主の家もここにあります。

こうした江戸時代、戦前からの歴史的な経緯があって、飾らないけど

ほんとはすごいという一種独特の文化が生じている地域なのです。


これに対して、すこし前まで猪が出た宝塚を比較するのは、

とんちんかんな感じがするのですが、ま、たしかに相続などで

阪神間の家を売って移る場合、宝塚がひとつの選択肢として

あったことも確かです。

いわゆるあっちの方は、ずっと農村部で畑でありました。

しかし、戦後に阪急の小林十三が西武や東急のモデルとなった、

郊外鉄道と住宅をセットにした開発をやりまして、急速に

宅地化が進んだのです。このひとつの売りとして、起点の梅田に百貨店を、

そして終点の宝塚に少女歌劇や温泉や遊園地をつくったのですね。

あそこは温泉なんか湧いてないんですよ。こういうやり方を真似て、

関東では西武が池袋に百貨店を、沿線に遊園地や野球場をつくり、

東急もまた百貨店と二子玉川園をつくりつつ住宅を売ったのです。

だから、宝塚市自体はあまり歴史がなくて、ちょっと前まで農村地帯

だったのが、急速に都市化し、ベッドタウン化した地域です。

土地が安かったので、神戸大阪にあった学校や大学がたくさん移転

してきて、文京地区にもなりました。そういう意味で宝塚地域はわりと、

東京の同じような経過をたどった私鉄沿線、たとえば東急の田園都市線や

西武の池袋線に似てると言えます。


http://www.hankyu-dept.co.jp/gaiyo/gaiyo1.html


4 ● Baku7770
●21ポイント

芦屋市の市勢

宝塚市 -たからづかし-

文化的な背景とすれば、宝塚市は温泉町。芦屋市は別荘地→国際文化住宅都市として発展してきました。

宝塚ファンには怒られそうですが、温泉街の余興として歌劇が発足したとも言えます。またファミリーランドという一大娯楽施設もありました。

芦屋は現在でもパチンコ屋の無い市であり、娯楽には乏しいと言えます。芦屋のスナック1号には、その晩年とはいえ私も飲みに行っていますから、昔が想像できます。

新興都市というイメージはファミリーランドの跡地の影響もあるのかなと考えます。

芦屋にはシーサイドタウンという埋め立て地の新興住宅地があります。

ただし、その点で芦屋には決定的な欠点があります。今回の回答であらためて調査しましたが、芦屋は若い世代が少ない。世代別の累計では50代未満では1.8%も低くなっています。

後は震災が原因としていますが、前市長(第一号女性市長として有名です)の指導力のなさが原因で公債費が30%も占めていることで、宝塚市で16%、神戸市は昨年度で18%です。

市長就任直後に有名デザイナーに消防服を注文しておいて直後の震災で役に立たないは、新年の挨拶を市民窓口で受け付けているのを遮ってやるはメチャクチャでしたからね。

建設省(当時)から助役を招いておいて、それが贈賄で捕まったら、二度と建設省からの天下りは受け入れないってやっちゃいましたからね。

結局、TV番組で弾劾されたのでしぶしぶ建て替えを決議しましたが、未だに完成していません。若い人が避けるのは当然です。

あしや瓦版0210

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