メタ推理について(下記サイトの中ほど)
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/qed/p0501b.html
九十九 十九
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%...
JDCに所属する探偵たち
http://ja.wikipedia.org/wiki/JDC%E3%81%AB%E6%89%80%E5%B1%9E%...
メタ探偵の実例?についてはわかりません。(というかいないと思います)
http://gurenma.exblog.jp/56521/
要は作者の立ち位置の人間のことだと思いました。
調べてみたのですが、九十九十九(つくもじゅうく)という「メタ探偵」は作者の意図を読み取るメタ探偵で、常に正しく必ず正解に辿り着く 探偵らしいのです。でも作中人物。
昔読んだ清涼院の小説では、他のどのJDC(日本探偵倶楽部)の局員も解けなかった謎を、彼は出てきた瞬間解いてしまっていた、そういう感じです。
たしかこの「メタ探偵議論」は結構歴史があるのです。
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~katsurou/rule/knox.html
や
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~katsurou/rule/dyne.html
の「探偵小説の、これやぶったら読者怒っちゃうよ」規則のままストーリーを薦めると
探偵の存在が「ルール違反」なんじゃないの? 作者の言いたいことを確実に言ってるこいつの存在は「ルール違反」なんじゃないの?
という壁にブチあたってしまうのです。
その壁を回避する、またはブチ壊すのが「メタ探偵」だったりする。らしいのです。
最初から「こいつはメタ探偵なんです。正解者なんです」と開き直っている。これがひとつの「ルール違反なんじゃないの?」という疑問の回答になるらしい。
というのをどこかで読みました。
他の探偵とどう違うんだという疑問がありますが、他の探偵小説だと探偵が作中の一個の人物として書かれているのが違うんだと思います。
わかりづらくてごめんなさい。
作者が確信犯的にやらかした部分を含む小説のことを「メタ」+分野名をつけて呼ぶのだとおもいます。
「メタSF」は、登場人物の一人が台詞としていきなり「説明しよう!メガスターとは」とかしゃべりだして、相槌役のキャラが「だれに向かってしゃべってんの?」とか「なつかしいなあ!それ」とか言ってるようなやつ。
要するに、読者が属する現実世界があることが、小説世界にも知られていたり、または知られていないけれどなぜか笑えるほど似ていたりする。
もうひとつの、より推理小説的な例では「それがどうして聞き違いじゃないといえるの?」「聞き違いだとどっかのえらい人(作者)の都合が悪いらしいよ」のように、限定要件のひとつとして作者のご都合があることが小説の世界の誰かに認識されている、という設定が確信犯なのだとおもいます。
こういうくすぐりって、お芝居とかお笑いとかライブ、それに漫画や映画では結構前からありましたよね。(内輪受けと酷評されることもありますし、著作権関連でパロディのネズミーランドとかしなければならない場合もよくありますよね。)
ではなぜフィクションってわかってるくせに小説だけ最初から最後まで深刻ぶって真実を模写しなきゃいけないんだ、フィクションなら常にフィクションらしく多少ふざけたっていいじゃん、ついでに、小説作品の方が作者の出版事情を考えてくれたって面白さをそこなわなければべつに良いじゃん、というわけです。
清涼なんとかは私も読んでいませんが、山口雅也なら読みました。彼もメタな作品を書く人とされているようです。
ある種、本格の対極でしょうね。
本筋ではなく、バイパスを通って答えにたどり着くような。
清涼院流水の場合、「言語トリック」「記述トリック」が多用されています。
本来絶対不動の地の文に挑戦する、
ミステリ、推理小説である、という大前提に挑むあたりがメタなのでしょう。
また、流水の作中では、「必ず答えを外す探偵」など、
因果律を逆手に取るような探偵をメタ探偵と呼ばしています。
今まで推理小説が、ルールや縛りの中でミステリをしていたのと違い、
縛りをあえて蹴ったという点もメタ的なのでしょう。
また、通常のミステリを読む際にも、私たちは無意識にメタ推理をしています。
たとえば、本来ならば作中の情報を元に論理的に推理するのに対し、
「犯人は登場人物一覧に存在する人だ。」
「双子が出てきた以上、必ず入れ替わる。」
「首切り死体が出た。入れ替え殺人だ。」
といった、お約束や決まりを逆手に推理します。
これらの方法で作中人物が推理した場合も、
メタミステリになるでしょう。