人力検索はてな
モバイル版を表示しています。PC版はこちら
i-mobile

「自由には責任が伴う」というフレーズが、私にはすごくうそっぽく感じられます。なぜだと思いますか? ご自由に考えを記してくださいな。

※私の気に入った回答にはこっそりポイント送信もしようかと思っています。

●質問者: sokyo
●カテゴリ:政治・社会 人生相談
✍キーワード:うそ フレーズ ポイント送信 責任
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 43/43件

▽最新の回答へ

[1]こういう「自由」もあるからではないでしょうか。 owl

責任を放棄する自由

自殺の自由なんかが割とそれに近いような気がします。

自殺に伴う「責任」も定義できますが、かなり詭弁に近いものになりそうですよね。


[2]自然! imagaichiban

うそ。

か、どうか、知りません。

自然。とい言葉があります。

自然に、自然と。

私には、その言葉がとてもあいまいに聞こえます。

自然は、人間と必ずしも関わるものとは、限ってはいないと思われるものの、<人間がいて、初めて自然がある>ように語られている気がします。

自由。

不自由。

本来の自由さを、満喫している、人間って存在するのでしょうか。

「空を飛べるが如く」、次々と新たな考えや行動を、人は起こすことができるでしょうか。

責任のあるところには、「自由」という言葉が存在していない、

そんな思いがする、今日この頃です。


[3]freedom sami624

一般に義務を意図しない自由をfreedomといいます。奴隷解放のようなもので、単純に束縛から解放するという意味です。

一方でlibertyというのは、法令等義務を履行した者に与えられる自由とされています。

よって、単純に自由と言った場合は、義務を伴わない拘束からの解放による自由であるため、義務を伴うと言うのは自由の定義に反すると感じるため、嘘ぽいと感じるのでしょう。


[4]そもそも、「自由」自体 dora-kou

実際のところ、「自由には責任が伴う」という文言において「自由」を定義する場合、

これは相対的な「自由」になるのだと思います。

なので対としての「責任」、という論法なのでしょう。

ところが、そもそもどこまでが「自由」なのかという線引き自体一律に決められるものではありません。

「自由」の線引きが異なってくれば、当然「責任」の線引きだって人によって異なってきます。

例えば、数値で書いてみますと…。

Aさんが10の自由に10の責任を求めるとして、

Bさんは5の自由に20の責任を求めたならば、

お互いの評価基準が変わってくるわけですから、その時点で

AさんとBさんの会話が通じなくなってしまいます。

なので、「自由には責任が伴う」というフレーズがうそっぽく

感じられる…という所で如何でしょうか。


[5]方法の自由だけだから sibazyun

大きな目標などは決められていて、それを達成する方法だけの自由、という場合。例えば、会社がセールスマンに「出勤時間もテリトリーも【自由】。ただし、ノルマが達成できなかったら、責任をとってもらう(=給料減額、地位格下げなど)」という場合。


[6]>3 奴隷解放とかね YasudaS

>奴隷解放のようなもので、単純に束縛から解放するという意味です。

これとて、奴隷解放という争いや調停という行動を経て(つまりそういった必要な行為を経て)手に入れたものなわけだ。自由を得るために「行うべきこと」(これを義務という)を行った上で得たものであって、義務を全うした後に得られた果実としての自由ってのがあるわけね。

個人的には「義務を回避することが出来る自由」はあると思っています。義務が発生することを一切しないでいるという自由。動いたら動いたことに対する責任があるので動かないとか、お金を稼ぐと納税の義務が発生するのでお金を稼がないとかね。


[7]自由後の後始末 aiaina

http://annai.2log.net/aavideo001/archives/blog262.html

この意見を見てから、嘘っぽいと思いました。

責任といっても、伴っていない例が多いですね


[8]自らを由としていない事 j_m_w_t

「自由」に徹する事が「結果的には」責任をとった「かのように」機能

するという事はよくある事です。好き放題他人の悪口いいまくっていたら

言い返されてだいたいは「引き分け」的なオチになるとかいう事ですね。

そこいくと、件の言い方は、その責任を「自由」そのものじゃあなくって

「別のモノ」から導いて来ようとしている発言になるでしょう。わざわざ

「自由には」なんて言う必要なんてなく「自由に徹する」だけでいいはず

ですから。勿論、そこで「別のモノ」から導いてくる責任もまた自由だし

認められるべきだと言う事は言えますが、それはもう「自由に伴う責任」

というモノじゃあないのですね。それをさも自由にはとか言う辺りがウソ

臭い訳ですね。単に責任だけ問えばいいのに何か虎の威を借る狐みたいに

「自由の威を借る責任」なんて言い方をするからウソ臭さに敏感ではない

ってみなさるる訳です。・・・と、まあ、僕などはこんな風に思います。


[9]「自由には責任が伴ってないから」 castle

「自由には責任が伴う『べきだ』」が正しい表現なのだと思います。

かくあるべし、ということですね。

純粋に言葉の意味だけで考えてみれば、責任が伴なう状態なんて「自由」ではないといえます。

たとえば、自由に振る舞って人に迷惑をかけたとして、そのしっぺ返しをこうむることになるかどうかはわかりません。しっぺ返しをこうむる確率が高まった、というのが極めて正確な表現であり、しっぺ返しを受ける覚悟する必要はありますが、しっぺ返しがあるかもしれないからといって責任を「負わなければならない」ということにはなりません。

という風に、自由に振る舞った結果の悲劇を忠告しているような振りをして、実は社会上のモラルを守らせるようなロジックが組み込まれています。

このように言葉の意味に繊細な人だと、「行動から引き起こされる反応(結果)」を「社会的なモラル(かくあるべき、という強制力)」にさり気なくすりかえられていると感じとり、「自由には責任が伴う」という忠告が胡散臭く感じられるのではないでしょうか。

とはいえ、それなりにいいことをいってるわけですから、論理のトリックを理解した上であえて騙されてあげるのが大人な対応だと思います。


[10]>6 社会の内部か外部か castle

>法令等義務を履行した者に与えられる自由

「自由」というよりも「権利」なんでしょうね。

本来、人は社会に厳しく拘束されていて、法的に社会貢献した分だけ対価として行動の拡大が保証されます。

人が集団に所属する上で個人を縛る「社会」内部における自由がリバティだとしたら、この「社会の外部」とでもいうべき自然状態で動物(存在者)として本来的にもっている行動の可能性をフリーダムと理解すればよいのでしょうか。

だからアーティストやロックミュージシャンなんかは、リバティよりもフリーダムを叫びますね。人間社会からの開放だからフリーダム。逆に国威昂揚の歌なんかだとリバティになったり?

うーん、面白いですね。


[11]>10 そもそも、freedomとlibertyに対応した日本語がない。 castle

なにかこうもっとわかりやすい日本語でもあればいいのに…と思いました。

改めて考えさせられたら、freedomとlibertyを一緒くたに「自由」としてしまうのはかなりどうかしている気がします。

日本語を作った人は何を考えてるんでしょうかねまったくもう。


[12]言う「人」の問題…という見方は? jo_30

【自由には責任が伴う】というフレーズは別に間違いではない。

たとえば「○○すべし」と命令され拒否する『自由がなかった』場合、結果について責任を取るのは命令者であって、実行者には『責任はない』。逆に、何ら命令や強制がなく『自由に』おこなった行為の場合、実行者本人に結果についての『責任がある』とするのがルールである。なぜなら彼にはそうしない『自由があった』からだ。

人は、自分が何を引き受けるか自由に選ぶことができる。そして、私はこれこれのことを選んだ…と自覚することが「責任」である。その意味で自由と責任は切り離すことはできない。たとえばケーキ屋で「チーズケーキとチョコケーキとショートケーキ」のどれを選ぶかがあなたの「自由」であったとする。そしてその場合「チーズケーキ」を選んだとすれば、「チーズケーキ」があなたの「責任」というわけだ。『いかなる責任を背負うか』という選択こそが『自由』の中味であり、その意味で『自由は責任を伴う』という言葉は間違っていない……というのはこちらの受け売り。

じゃあなんで「嘘くさく」聞こえるのかというと、これもリンク先にあるのだけれど、この台詞を

「自由に振舞うには、責任を果たすという代償を払わなければならない」

という意味に誤って用いる人が多いから。そして、そういう人はこの台詞で何を言おうとしているかというと、「君がそれをするのは勝手だけど、僕はそれについて責任を負わないからね」と宣言しているというわけです。あるいはそう脅すことによって、こちらの「自由」を制限することを意図している場合もあるでしょう。少し前に流行った「自己責任論」の胡散臭さとこれは同じ構図です。

たとえば上司というのは部下の失敗も含めて責任を負うのが職務なわけですから、別に理想的な上司でなくても部下に対して「思いっきりやれ、責任はオレが取るから」と言うのが当然なわけですが(責任取りきれないようなことを部下がしないように教育することも上司の責任、という意味を含めて)、にもかかわらず往々にして上記のような「自由と責任…」台詞を分別臭く述べることがある。それは実は自分が「上司としての責任を放棄している」か、もしくは「部下を教育するという責任を果たさず単に管理しようとしている」に過ぎない、いずれにせよ自分の責任逃れの言い訳にしか使っていないということですね。

というわけで、言葉としては問題がなく一件正論に見えて、しかも誤って使う人が自分の責任逃れの言い訳に使いやすい……ので「嘘くさく」聞こえるのではないでしょうか。


[13]ともなう派 armond

慣習やルール、利用方法に従うことが「不自由」だと考え、

あなたが、その言葉を「うそっぽく感じている」のならば、

あなたは人並みはずれた想像力の持ち主なのだと思います。


たとえ話を聞いて頂けるなら、

ヘッドホンは、RとLをそれぞれ正しく、右と左の耳にセットすることで、本来の利用価値を発揮します。

実はこれ、機能的制限から来る不自由かもしれません。


顔面に対して縦方向に、おでこと後頭部を挟むようにヘッドホンを装着しても

これは「自由」ですし、RとLを逆に装着するのも自由なのですが、

いずれの場合も、ルール設定者が予定した機能は発揮されません。


現代の日本社会において「制約」とは

快楽、安全、安心、保証、などを「より効率的に利益を与える」為に設定されている事が多く、

これに従わない事が「自由」であるとする場合、つまり

言われた通りに利用しなかった場合の効果については、

やはり、自分が責任を取るしか無いのだと思います。


学歴が無ければ、学歴以外の方法で人にアピールしなければならないし、

年金を払っていなければ、老後の生活を年金以外の方法にたよらなければならないし、

無免許運転していて、捕まりそうになったら、逃げ切るか、

より多くの罰則を受けるしか、道が無いのです。

ほんの細かな事についても、現代日本の一般的な社会生活においては、

同じような事が言えるのだと思います。


もどりますが、あなたが「自由には責任が伴う」というフレーズを

嘘っぽく感じる、もしくは受け入れにくいのは、

あなたは若くて未来を持っており、さらに、並みはずれた想像力

ものの新しい在り方を考える力を持っているため、

「自由に伴う責任」など、恐るるに足りないからなのではないかと想像します。


もし身近の方がそのようなフレーズを連呼するのであれば、

そのときは、ご自分のレベルを、相手のレベルまで下げて

お聞きになると、また得るものもあるのではないかと思いました。


[14]責任があったら不自由? taknt

自由に回答してくださいといっても、回答のルールはある。

また、自由だからといっても、無責任な回答では困る。

自由に質問してくださいといっても、無責任な質問では困る。


[15]責任感も自身の持つ固有の本来的自由の一環 TomCat

自由というのは、誰にも抑圧されないこと。

誰からも縛られないこと。

勝手気ままとかそういうことも「自由」の一種ではあるでしょうが、

本来の「自由」というのは、もっと幅広い意味を持つと思うんですね。

自分の意志が誰にも妨げられずに発現できる。

それが「自由」の本義だと考えます。

さて、ここで「責任感」というものを考えます。

自分の言葉や行動に責任を持とうとする意志。

これは大切です。これは否定されてはなりません。

しかし、責任感も意志の一環である限りにおいて、

これは誰に強制されていくものでもないわけです。

責任感も自身の持つ固有の本来的自由の一環として存在する、ということ。

ここが重要な点ではないかと思うんですね。

したがって、勝手気ままは責任と抱き合わせにしろ、と言われれば、

ちっちっちっ、そいつぁ違うぜ。
俺は常に自らの自由意志によって行動する。
そして責任も、その自らの意志において履行していくんだ。
俺の意志は、最大限の自己表現と、
己で己を律していく規範とを
常にワンセットで追求し続けているんだぜ。

と答えてしまっていいわけです。

ここにおいて、自由も責任も全く同義であり、

対極に位置する物として抱き合わせていく存在では

なくなるということが分かります。

「自由には責任が伴う」んじゃないんです。

責任というものすらも誰にも強制されない自発的意志。

それすら「自由」の一環なんだと。

そしてそれが最も「責任ある生き方」なんだと。

逆に言えば、本物の自由がない所には、本物の責任もありません。

縛られ、抑圧され、そして取らされる責任なんて、

要するに「詰め腹を切らされる」以外の何物でもありませんよね。

ニセの自由に、ニセの責任の抱き合わせ。

軽々に「自由には責任が伴う」なんて考えると、

そんなことにしかなりません。

そうじゃない。

本物の自由の中に、本物の責任も存在する。

それは「伴って」いるんじゃない。

本質的に一体なんだ。

そう考えていきたいと思います。


[16]長年の学校生活で身に付いちゃった・・・ SNOOPY

義務には責任が付き物、

義務が無いと自由、

と体で感じてるからってのも大きいと思うんです。

理屈抜き。素朴な感覚ですね。


[17]勝手気ままだから、責任が伴うんじゃないかなぁ。 ks1106

自由とは、辞書で見ると(勝手気ままなこと。わがまま。哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。)らしいです。 自由と平等。と同じように、自由には責任が伴う。も思っているからではないでしょうか。 確かに、自由と平等は、ありえないと思いますけど。自由である以上、平等はありえないし。平等である以上、自由なんかありえないと思いますが。 自由に責任が伴うは、他から強制・拘束・妨害を受けないし、自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいうのだから、自己自身の本性がとわれると思う。だから責任が伴うんじゃないかなぁ。


[18] 質問者の自由 vs 回答者の権利 adlib

質問に「ご自由に考えを記してください」とあったので……。

回答者が、自由に答えるには、どんな責任が伴うでしょうか。

質問者の気に入られなければ、とても愚かに見られる覚悟も必要です。

sokyo さんがはてなユーザーである限り、どんなに横暴な質問をして

もいい自由はあります。しかしあまり権利を乱用しすぎると、まじめな

回答が集まらないでしょう。その責任は、sokyo さんが負うべきです。

わたしが、はてなユーザーである限り、どんなに突飛な回答をしても

いい自由があります。しかしあまり権利を乱用しすぎると、ポイントを

得られないだけでなく、閲覧者からの信頼も失うはずです。

そこで、いささか飛躍した回答が、必ずしも不誠実でないことを示す

ため、出典を明示すれば、責任の一端を果たせるのではないでしょうか。

上述のロジックは、つぎの(チェリストの回想)に典拠しています。

── そこでラムルーはがまんならなくなり、譜面台の上に指揮棒をお

いてどなりだした。「おいきみ、きみはテノールである限り、どんなに

ばかであってもいい権利はあるさ。しかしあまり権利を乱用しすぎるぞ」

── Corredor,Jose Maria/佐藤 良雄・訳

《カザルスとの対話 19670920 白水社》P60

(既出:一部修正)

http://www.hatena.ne.jp/iwashi?mode=treedetail&thread=000001...

このレトリックは(日常的に)つぎのように応用できます。

「キミが美人であるかぎり、どんなにバカであっても許されるだろう。

しかし、あんまり権利を乱用すると、ボクだけは許さないよ」

「あなたが社長であるかぎり、どんな命令であっても許されるでしょう。

しかし、あんまり権利を乱用すると、社員がみんな辞めてしまいますよ。

もちろん、わたしは一人になっても、あなたに忠誠をつくしますが……」

Lamoureux,Charles 18340928 France 18991226 65 /指揮

Casals,Pablo(Pau) 18761229 Spain France 19731022 96 /チェロ

Satoh,Yoshio 19060627 秋田 東京 19771207 72 /カザルスの弟子


[19]理想と現実 Xegnyph

>私にはすごくうそっぽく感じられます

自由と責任は表裏一体です。

自由を独占しようとすると、責任は見えなくなってしまいます。

責任ばかり感じてしまうと、自由を奪われた気分になってしまいます。

責任を負う自覚を持ちつつ自由を実感するのは、なかなか難しいものです。


[20]出る杭は打たれる monkey_timpo

みんな決まった丈でいれば打たれませんが、「自由」ということによって、他人より長かった(協調性のなさ・空気が読めない)場合、打たれて被害を被っても自業自得だと認識せよ、という意味だと思います。しかしながら自由の権利を得るためには、その判断や責任はある程度自分で拭える年齢である必要があります。

例を挙げるならば、大学生には学生服がなく、高校生までは学生服であるという理論にも繋がることだと思います。つまり、ある程度協調性を習得し、まわりの空気を読むことができるならば、自由は許されるということです。

しかしながら、協調性やそういう場を読む能力というものは単位でも資格でもなく、成年になっても習得できる人と習得できない人がいるのが現状です。

そして一番重要なことは、人は人を外見で判断しますので、人を外見の年齢で判断することが多々あるということです。例えばある程度の年齢であっても、社会的に自立しているかどうかは外見では判断できないことです。

ですので、「自由には責任が伴う」という建前がうそっぽくきこえるのかもしれません。


[21]対立する利害関係者の自由を調整する際の優越条件の一つ TRAUMA

複数の利害関係者(人間だけでなく、「自然環境」などもあるかもしれません)が存在する状況において、自由な意思に基づく行動どうしが対立しうる場合、すくなくとも一つ以上の自由が保持されるためには、なんらかの方法で、対立する自由を制限しなければなりません。

この制限ないし調整のプロセスにおいて、どちらの(あるいはどの)自由が、より尊重されるべきかを判断する際に、内包するリスクの担保の仕方が有力な判断材料になってくるわけです。

このときに、「責任」という形でリスクを自らとると主張する側の「自由」がより有利になる場合が多いと思われます。

したがって、「責任がともなう」というのは、「責任が伴うべきだ」あるいは、「責任を伴うほうがより尊重されるべきだ」と展開するべきなのかもしれません。

うそっぽく感じるのは、「多くの場合には、より尊重されるべき」ではあるけれども、「必ず、というわけではない」ということが一つ。

そして、もう一つは、「自由」を認めてあげる側(たとえば、学校であれば、生徒の自由を「管理」する教師の側)が、このセリフを言うことで、内心「自由」に一定の歯止めをかけることを意図しつつ、自由を認める、ということが多いから、ではないでしょうか。つまり、うわべで「自由」といいつつ、「自主規制」を言外に期待している、そして、自由を認めたがゆえに起きた問題については、認めた自分は「責任」を負いません、という、「責任回避」の姿勢が読み取れるからではないかと思います。


[22]>11 いやなら使うのやめるとよいかもね YasudaS

>改めて考えさせられたら、freedomとlibertyを一緒くたに「自由」としてしまうのはかなりどうかしている気がします。

わけて考えるってのもどうかしているな。

自らの由とするものに、freedomとlibertyとか言ってもね。

>日本語を作った人は何を考えてるんでしょうかねまったくもう。

そうですね、あなたにとっては、酷い連中ですね。そんな連中が作った言葉は、あなたは金輪際使わないとよろしいですよ。

さて、次からはスワヒリ語なりタンザニア語で投稿をどうぞ。


[23]難しいですね kskg

自由とは一体何なのか、についてよく分からないからではないでしょうか?

人間が自由だとは思えませんし。

生まれたのも自分の自由からではありませんから。

そういう意味で、何となく責任だけ押し付けられるような印象を受けられるのではないでしょうか?


[24]何らかの責任を負わないと人間生きていけないのでは? zuzun

試しに自由に生きてみようとすると、必ず何らかの形で責任を負わなければならなくなるのではないでしょうか?

まず第一に、収入がないと生きていけないので働かなくてはいけません。働けば何らかの職務に一定の責任を負うことになります。

それでは、ホームレスになれば自由なのでしょうか?

海外旅行に行きたくても行けないですよね。そういったことを不自由と感じなければ、本人のなかで自由なのでしょうが、一旦それを不自由と感じたならば、自由に海外旅行をするためには、やはり働いて何らかの責任を果たさなければなりません。

例外として、親から莫大な遺産を継いでそれで遊んで暮らせば、しばらくは責任なしで生きていけるかもしれません。でも、その資産は親が何らかの責任(リスクといってもいいかも)を負ったことにより築き上げてきた資産であると思われます。したがって、2世代にわたって考えたら、やはり何らかの形で責任を果たした結果得られた自由なのであり、本来は親が得るはずであった自由を、子供が頂いているに過ぎないということになるのではないでしょうか?


[25]自由に対する責任を何ととらえるか。 osm35

「自由には責任を伴う」と言ったとき、

その責任の内容としてどのようなことを想定されますか?

「自由には責任を伴う」というときの責任は、

自由意思によって行為を行なった場合に、

その発生した結果について、自己に不利な効果を負担しなければならないという意味に思います。

まずは、それ以外の意味で「責任」を考えた場合は、

自由に対する責任としては、「ウソ」になると思います。

上記意味の責任については

「自由には責任が伴う」べきではあると思います。

しかし、親が子の責任を代位するように、

現代社会では、従業員の責任を会社が負担したり、

自分の行為による結果を他人に押し付けたりすることが

当たり前のように行なわれていることから、

自分で責任を負うことが極端に少なく、

それが本来的に自分の責任であっても、

しぶしぶ責任を負わされていることが通常であることから、

「責任が伴う」ことが嘘っぽいのではないでしょうか?


[26]>22 「自ずからを由とする」の「自ずから」があいまい castle

日本は戦後からアメリカ式の政治体制が導入されています。

憲法や議会制などの導入は明治時代からになります。

「自ずから」が日本としてはどのように定義されるのかその曖昧さが問題となってきたことが昨今の事案から浮かび上がってきています。社会と個人と存在の言語的な定義とでも言えばよろしいのでしょうか。

あるいは、日本イズムを貫いてあえて厳密化しないのでしたら、厳密化しないことを前提に「自由」にまつわる混乱が解決されるような処置が検討されてもいいかと思います。

なので、この辺は国語学者や社会学者から何らかの提案などアクションがあってもよろしいところでしょうね。


[27]:「自由には責任が伴う」というフレーズを都合良く解釈して利用する人がいるから sukeshi

sokyo様自身の質問文から推測(憶測)してみました!


Q:なぜ、sokyo様が「自由には責任が伴う」というフレーズをすごくうそっぽく感じるのか?


「うそっぽく感じる」ということは、裏を返せばあなた自身は「自由には責任が伴う」というフレーズの持つ意味については少なからず肯定しているということになるんじゃないかと思いますがいかがでしょうか。

全く否定しているのであれば、「うそっぽく“感じる”」ことは無く、「うそだ」「間違っている」となるんじゃないかと。


では、sokyo様自身が肯定しているはずのフレーズを、なぜ「うそっぽいと感じる」のか?


「すごくうそっぽく感じる」の“すごく”“うそ”という言葉からは、sokyo様の強い想いと、その言葉の背後に“人間”が感じられます。


即ち、sokyo様がうそっぽく感じているのは、「自由には責任が伴う」というフレーズそのものではなく、実は「自由には責任が伴う」というフレーズを使用している人なのではないでしょうか。


ではなぜ、「自由には責任が伴う」というフレーズを使用している人に対し、sokyo様が「うそっぽく感じる」のか?


もし、sokyo様が考える「自由には責任が伴う」というフレーズの意味と、それを使用している人の考えるフレーズの意味が違うだけであれば、「違和感を感じる」ことはあっても「うそっぽく感じる」ことは無いのではないかと思います。

即ち、sokyo様は文字通り、このフレーズを使用している人が“うそ”をついていると思っているのではないかと。


しかし、sokyo様はそのフレーズの持つ意味自体はうそだと思ってはいませんでした。

ということは、sokyo様は、このフレーズを使用している人が、その本来の意味を偽って使用している、と思っているということなのではないでしょうか?

そして「すごくうそっぽく感じる」という文からは、そのことに対するsokyo様の疑問・憤りのようなものを感じます。


で、結論

A:「自由には責任が伴う」というフレーズを都合良く解釈して利用する人がいるから


う?ん、強引すぎる…。

我ながらすごい憶測…。


[28]権利と義務の値切り合戦 hahaiha

より多い自由とは、

束縛されないことだけではなく

選択肢が多い状況のことも指しますから

物質的・社会的な発展・成熟があることが前提になります。

そーすると「より多い自由」のために

一定の秩序を守る「義務」は必然的に生まれます。

他人が自分のものを奪わないから、安心して複雑な選択肢が生まれるのです。

逆もしかりです。

ただ、それは正確に値段が付けられないものなので

他人に義務を言われると「そんなに重い義務が伴うのかよ!」

と当然感じます。

つまりこれは

一種の「権利と義務の値切り合戦」であって、

そこらへんの相場観がない人間が

気軽に義務義務言ってくるのに

嫌気がさす、みたいな心理背景があるような気がします。


[29]自由を選ばせない為の体の良い大人の口実に過ぎない…( -з-)y─┛~~~ AYAPON

子供の頃よくそのフレーズを耳にしました。

きっと言う側もいつか言われたフレーズの受け売りで

現代まで語り継がれてきたんだと思う。

_

責任が伴うというのは、ズレた感じはするが、

確かに自由というのは難しくはある…

教えられた通りの作業は考える必要無く、誰でも出来る事。

自由というのは、自分で考えて行動して結果を出す事。

どちらが難しいかは言う間でも無い。

_

言い換えるならば、

就職して雇われる側よりも、

自分自身で事業を起こして成功させる方が難易度が高く

誰でも成せる事では無い。

そういった意味では、責任は伴うかもしれないが、

子供の頃に言われる様な事では無いかもしれない…


[30]感じることに理由は必要ない value8787

と言ってしまうと回答にならないですね(笑)




「自由」とは「他からの束縛や支配などを受けない状態」(旺文社国語辞典)



なのに、



「責任」は「悪い結果が生じたとき、その損失や罰などを引き受けること」(同上)



損失や罰を引き受けるんなら自由じゃないじゃーん、と言いたくなる。うそっぽい、ってその辺りでは。

質問を変えて、「自由に責任は伴うか?」とするならば、また別の問題です。

この質問、仕方が面白いですね。


[31]>26 おのずからとみずから j_m_w_t

「自ずから」なら他の何かの恣意がなくても「勝手に」「自然に」

そうなるという意味なので、それの原因を探るのは難しい事です。

「自ら」なら何らかの「そいつそのもの」があると言われている

かのように見えますがこと「自由」の文脈では話が違ってきます。


というのは


例えばその「自らを構成するモノ」が幾つかの解りやすいモノ

であると考えるなら、そもそもそれは「自由」と言うよりはその

モノの「結果」である訳で、そんなところに「自由意志」がある

とは言えなくなってしまう訳です。何かの原因が動かしていると

言うだけじゃあ自由とは言い切れない、という事になってしまう。

木から落ちる林檎は果たして自由なのかと考えればどうでしょう。


そういう訳で


この「自ずから」と「自ら」を連続的に捉える事が自由の文脈

では重要になっているかと思われます。それがどういうものかと

いう構成や原因がはっきりするほど簡単には出来ていないけれど

確かに「自ら」というモノが「自ずから」生きているのでしょう。

つまり、その「自ら」の内実は曖昧でこそなければならないかと。

「自分探し」なんてのがそれをどっかに定着させるためで、要は

いわゆる「社会への適応」の一環だったと考えれば解りいいかと。


[32]責任ってなんでしょうね。 rietti

確かに「自由には責任が伴う」ってフレーズ、よく聞きますよね。

だからと言って「不自由には責任が伴わない」わけではないことを私たちは知っています。

自由であっても不自由であっても、責任が伴うこともあれば、伴わないこともある。

しかもその「責任」とは何なのか人によって様々です。

だからなんとなく薄っぺらなフレーズに感じてしまうのではないでしょうか。


[33]>32 『自由』という状態はどういうものか、政治経済法学はともすれば、真理に焦点がおかれるより、人のその時々の思惑に左右されやすい分野でややこしいので、、自然科学の視点に照らし合 takokuro

『自由』という状態はどういうものか、政治経済法学はともすれば、真理に焦点がおかれるより、人のその時々の思惑に左右されやすい分野でややこしいので、、自然科学の視点に照らし合わすとどうなるのかな。。って・・

人間は『自由』か・・http://www.ms.kuki.tus.ac.jp/KMSLab/makita/stellung/stell_ph...より

A)決定論:すべてはあらかじめ決定されていて、偶然も自由も存在しないという視点

(1)論理的決定論

(2)神学的決定論(予定説)

(3)心理学的決定論

(4)物理学的決定論・・・

ア)自由を必然性からの逸脱とする視点:

因果関係で予め決定されていると言う視点。

(カルト的な宗教、占いに感じる視点ですが、この視点では、『自由』とは自分が動かされていることの無自覚であるという状態『迷妄』と認識されることになります?!)

イ)外的強制の不在(自発性)という視点の自由:

この視点も、かつてのファシズム社会や精神論を強調することで、あらゆる困難を克服できるという、かつて京都であったサラ金会社などの脅迫的な経営方針、効率を極度に追求する団体で見られる視点に思います。

B)非決定論:必然性からの逸脱が可能で、とくに人間はその意志により必然性に反して振る舞うことができるという視点

白樺派など、大正デモクラシーに見られる『自由』を思います。人間の内面に精神の自由、物質からの開放をテーマにされた作品はかつての国語教科書の定番だったのを思います。

又、カントは、人間というものを感性的存在であると同時に理性的存在とし、理性により前提条件である環境に与えられた感情・欲望の奴隷にならない『自由』を動物と人間との違いであるとする。。

サルトルは、私には不可解。。

これら伝統的非決定論では精神の自由は物質界に影響できるが、逆は不可と精神、理性の優越性を謳ったものですが、昨今のカルト、占い、イジメなどが薬物、物理的環境で精神的誘導など可能とし、かつての精神や理性の優越性に対し、挑戦状を叩きつけられてるのを思う。。

又、最近、宗教や心理学本でよくある『現実肯定』論ですが、必然性を認識することでその必然性がもたらした精神的苦痛から開放されるとする視点、よく宗教家が説かれる理論ですが、自然の因果性認識により自然を予測し制御できるようになり、人間は必然性の奴隷でないという意味で、自由であると認識する『自由』。

でも、その予測、高度な精神的活動そのものさえも、複雑な因果関係に支配され得るという意味では、いくらその必然性を認識したからと言って、そのもたらす苦痛から自由になれるとは限らない。。私の実体験で、何か新興宗教の信者さんで、前世が武家で多くの人を切ったからその報いを現世で受けてる為の苦労で、その“前世”の罪を懺悔して入信したから、今は幸せ、、という宗教人って結構いますよね?!

でも、これって、魔やかしを感じる。。

以上の非決定論は決定論を前提にした所詮、決定論から逃れるが為の屁理屈レベルの説得性におもえます。。

しかし、品川博士『意識と脳』より:

『現代の科学は決定論的な経路のところどころに、非決定論的な自由な選択を許す分岐点が存在するという世界像を描いている。自然科学が完全な決定論的世界観を放棄した上は、哲学の分野でも自由の源泉を再構築できるのではないか。・・非決定論的科学は、プリコージンの非平衡非線型の熱力学によるものであり、因果律の選択性は恩師、湯川秀樹の教えに負って、非線形型現象の数学的表現は山口昌哉氏による』

量子力学の不確定性原理が人間の意志の自由の源であると言う説は今日では、Δχ・Δρ≧h(不確定性原理)のhが極めて小さい為、“日常的な尺度では”問題にならないということで否定される。hが(6.626×10の?27乗エルグ秒)では、逆に日常世界での確定性を保証している。細菌やミトコンドリアは光学顕微鏡分解能ぎりぎりの1μmで観察した時の速度の不確定性は10の?3乗Å/秒にすぎず、この程度のばらつきでは完全に決定的な解釈をできるものの、意識を量子力学だけでは説明しきれないとされています。

熱力学で、力学の可逆過程からいかにして熱力学の不可逆過程が導けるかに苦心しますが反対の熱力学の不可逆性から力学の可逆性を品川博士は解いてみる。。(系のエントロピー変化を容積の点で考えるように、この系は無限に大きい熱だめに接し、全ての過程は等温的とする)

S(系のエントロピー)=S0(系の標準状態でのエントロピー)+k(ボルツマン定数)1nV

エントロピーのパラドックスも、左右どちら側に粒子がいるか意識した(1ビットの情報量)時にk1n2だけ減少する。

I(情報量)={Smax(系の取り得る最大のエントロピー)?S(変化後のエントロピー)}÷k1n2

(元来、エントロピーになぞらえて『情報量』が導入された点からも、観測者が情報量を受け取ることでエントロピーが減少するという両者は符合と単位ですみ分け、根本的には同じものである。(上記の式はこの二つの換算式)

では、量子力学で観測者(意識)が測定による情報を受け取ることにより、波束が収縮することでエントロピーが減少することを品川博士は論証を試みる。。量子力学では観測者(意識)と観測(意識の)対象との相互作用は制御不能であるから、そのプロセスを明瞭に描けない。一方、今考えてる系では古典的な『分子』を扱っているからプロセスも明瞭に出来る。

上記式では体積を2分の一にしたが、体積をさらに小さくするほどエントロピーが減少し、得られる情報量は拡大する。“観測(意識)する『仕事量』もそれに伴い、増大する。”

古典力学が量子力学との違いは、観測(意識)者と観測(意識)対象の相互作用は制御可能であり不明の擾乱の入る隙が無い点だそうです。よって、古典力学でも理論上記述される対象の世界の中に観測(意識)者が位置していたということで、古典力学の運動方程式上、観測者の存在を陽に含まないだけであると言える。観測者とその意志は式の前提、パラメーターとして古典力学にも含まれていたといえる。。

そういう意味で、内部、前提に人の意識を位置させる視点、理論は決定論的であるとは言えない。

ある理論が描く世界像の中に人間の視点が位置し、その人間が“自由意志”を持つ限りにおいて、世界を決定論でくくることは不可能である。。と品川氏は確認をされています。

人間が自然界を外から支配し、自らは記述する側として自然界に属さない前提が普遍性を求める理論には見られるのは、自然の法則が人間の恣意により変えられてはならないという思いがあるからか、自然科学は普遍的決定的な理論体系という幻想がカルト、邪道経済学者(竹中、堀江モンの幹部、宮部?氏ら?はじめ、アメリカネオコンを打ち出す経済界に後押しされた政治など諸々・・)らの論理に利用されてるのを思います。。ニュートンの運動方程式はには普遍定数も、観測の演算子も無いが観測対象となる系のエントロピーを最小にする。『最大の情報量を引き出すが為に、“人間が”観測と名づけられる仕事をしている』ということ。エントロピー最小の状態こそが、曖昧さの最も少ない状態で、系の善運命を知りうる状態である。無限の過去から無限の未来にわたっての運命を知ることができた時に初めて、その系を『決定論』的と言い得る。古典力学が決定論的な対象だけを限定にしてることが多いから誤解が生じただけで、決定論的な系は無限の時間にわたり観測下に置かれているということで『定常系』(孤立系?)であらねばならない。なぜなら、開放系だと観測してる粒子が五日は系外へ逃れ、その後の運命が失われてしまう。そういう意味で非決定論的系が現実世界であり、人間自身も解放系であるとできる。

さて、注意しなければならないのは、『平衡状態』で、エントロピーの生成がゼロであるとき、系の状態は時間によらず一定である。つまり、“一つの系が平衡状態になると、その系は無限の未来にわたり平衡状態に留まる。これが決定論的で、平衡系は時間的にも空間的にも構造も持たず、エントロピーは最大値となり、情報量は最小値をとる。シラードのモデルでは、平衡状態でも系の巨視的熱力学的変数は系の温度、容積、質量の情報は最低、あるはずなのでこれらの情報を原点にとっているが、上記式ではこのときの情報量を便宜的にゼロに置いている。孤立系では充分に時間が経てば必ず平衡に達する。孤立系ではエントロピーは必ず増大し、最大の状態、つまり平衡状態に到達する。そういう意味で、孤立系の運命も決定的系であるといえる。平衡系でのエントロピー変化がゼロだから可逆的である。(準静的変化だけでなく力学的変化も可逆的であり、平衡系であると断定できない。(平衡系がエントロピー最大であっても力学系はエントロピー最小であるから)しかし、力学系が平衡に近い状態であることは明らかで、平衡系の著しい性質として少々平衡・定常状態から離れていてもまもなく平衡・定常状態へ落ち着く、帰するので、この二つの状態は無限の未来にわたり決定論的である。

定常状態は常に一定の外力がはたらいてる条件での『平衡』と見ることが出来る。

平衡がエントロピー変化ゼロで規定されるのに対し、定常状態とはエントロピー生成速度極小で規定される。極小値がゼロになった極限が平衡状態である。系内でエントロピーが生成されるのを、系外へ運び出さねばならない。その時に系内にエントロピー流、熱流が存在する。平衡系ではエントロピー生成がないので、現実の熱流は無い。

定常状態では外力が働くからその外力に“共役な物質の流れ(出入り)が存在しうる、ただし系内の物質量は時間的に一定であるから流出量と流入量は釣り合っていなければならない。これは開放系ではあるが、不完全な孤立系でも有りうる。

厳密な孤立系に対して、人間は観測の手段を持たない。平衡系から得られる情報量が最小であった所以である。ブラックホールでさえ、質量、角運動量、電荷名など巨視的変数は観測可能である。

孤立系に内部状態の観測という視点を開けたのが定常状態系であるとも言える。観測と言う外力のもとで力学系は定常系であるといえる。

シラードのモデルでは時々刻々の分子の位置が明らかにされてる状態は力学系で最大の情報量が取り出され、エントロピーは最小となっている。定常状態でも運動は可逆的で逆行可能である。

しかし現実のプロセスは全て不可逆である。床に置かれた質点の運動と言う最も単純な系でも、摩擦によるエントロピー生成がある。それを「なめらかな床」という前提をつけて生成したエントロピーを系外へすてている。計測と言う仕事を人間がすることで系内のエントロピーを最小に保っているのが力学系である。観測の仕方を選ぶのは人間の意志であり、観測の結果は人間の意識に反映される。


[34]>33 人は運命で完全には決定付けられない、自己決定をすべく責任を持つ takokuro

エントロピーの法則は、たんなる物理学の概念ではなく、生命システム、意識システム、社会システムといったあらゆるシステムを貫く法則として考えると。。

オートポイエーシス、超越論的自己関係性、コミュニケーション・メディア、ファルス、スケープゴート、貨幣のシステム論的分析を行いつつ、さらにエントロピー史観から人類史を概観することができるそうです。。


[35]>31 「みずからとおのずからが曖昧であるべき」だとしたら castle

現在の「フリーダム」と「リバティ」の厳密さを必要とする西洋に習った制度を、「曖昧でありながら巧く運用できる制度」にシフトしていくよう考えた方がいいのでしょうかね。

たしかに、日本人は(内面が)曖昧であり形にこそ社会秩序の礎があるといったような話は聞いたことがありますし、今もその名残がいくつも残っていると思います。

しかし、正直言って原則論ではなく形式論で運営していく社会制度というものがどういった形なのかサッパリ想像できません。

とまあ、そんなことを考えずとも自由について厳密な定義を考えずになんとなく議会制や民主制を使いこなしてる風に見える現状のままやり過ごすのがいいのかもしれませんが、この辺の判断は難しいところですね。


[36]>34 責任について単純化してみる castle

話を単純化すれば、

「責任」は「他者」にかかるものでしょうから、行き着くところは「集団とは何か?」を問う形に収斂されていくのではないかと。

自由に振舞うのはこの場合でいえば、主体としての個人となり、主体的行動が他者に影響を及ぼしたときに責任が問われるのでしょう。

問われる、とは問い詰められているのですから、影響を受けた他者から行動主体に対して反発するという形でリアクションが跳ね返ってきたことになります。みんなが満足するなら問題はないはず。

よって、この「結果(リアクション)」なるものをいかに解釈し、どのように処するべきか、あるいは、結果の波及効果としてその当事者である他者に与えてしまった負の影響が大きければ、個人や個人が所属する場に悪影響が現れる確率がグンと上がるだろうかにどのように向き合うかが問題となるでしょう。

この「悪影響を引き起こしかねない結果」をどこまで、どのように引き受けるか、あるいは引き受けられるのかが、責任論の急所だといえます。

それで、ここでいう主体の自由度や結果による影響の出現確率などを考えようとすると、エントロピーといった概念が立ち現れてくるかと思います。


[37]>33 量子的な運動にまで責任は問われるのか castle

という疑問。

もしも量子的な運動としての意識に働きかけることができうるとして、そのような行為を「社会」は認識できないのではないかと思われます。

超能力者がテレパシー能力で殺人を行ったとして、超能力による殺人を罰する法は存在しないので「責任は発生しません」

と、SFのような考察がチラリと浮かんだり。


[38]>37 おーっ!新たなSF。。 takokuro

【超能力者がテレパシー能力で殺人を行ったとして、超能力による殺人を罰する法は存在しないので「責任は発生しません」】

えーーっと・・、何事にも暫く考えないとpin!と来ない私としまして、、まず、超能力者の存在の有無から考察しなければなりません、ハイ。

そして、ウィキペディアより、、

【量子(りょうし、quantum)は、物理量の最小単位。古典力学では考えられなかった不連続な量であり、物理量はこの最小単位の整数倍をとることになる。】とのことですので、意識より未だ小さなたんいであるやも知れません。その理由は、量子はこれ以上には分割できないようですが、意識は未だ、分解できうる段階におもうのです。。

意識を量子の性質としてとらえたというより、目に見えない実態として例えたのではないかと?


ところで・・castle さん、新作がベストセラーになったら、、作品の一量子として、私にも何らかの結果は期待できるのでしょうか!


[39]>32 環境により相反する責任・・ takokuro

『責任』感は共生社会では無意識に自覚せずに背負い込んでる。。又、相手の責任の重さを伺う思慮深さ、思いやりで結果的に調和が維持される。。

競争社会では、自分に帰す責任には、反対に意識的に範囲を狭め、できるだけ自分に課すことを遠ざけ、相手に求める、被せようとすることで、物質的、経済的自己実現を果たす。。→小泉竹中政策の『自己責任』論?

共生社会では、本人、自身でない彼を支える人が彼に対する責任を感じ、それゆえ、彼自身は自分の行動に自律的になる。精神的自己実現を果たす。

が、、アメリカ的『自由』『責任』とは相反する要素に思う。


[40]>1 キリスト教文化 takokuro

owlさんのテーマで思いついたのが、キリスト教文化では自殺は大罪で、この論理は、神から与えたもうた命の絶対的肯定、、死と誕生だけが絶対的な真実とする大前提なんだろうな、、って思ったりします。。でも、、一方、共生社会で育まれた武士道や恥の文化での切腹や自決、、これも、自分の最終的自己実現の手段として見てもいいのでしょうか。

現、小泉竹中経済政策で、多くの経営者、家庭を支える人たちの自殺、又、自分でなく特に自分に直接被害を与えたのでない相手に一種の『腹いせ』で弱い者の命を絶つ事件が目立ちました。。

日本の文化にアメリカの論理でできた社会を押し付けた結果とは言えないか。。


[41]自由 Uepon

自由には責任が伴うんじゃなくて、

危険が伴うからじゃないでしょうか。

なにか好きに行動して、誰かに迷惑をかけると

その誰かは怒って攻撃してくる。

好きに行動した人は傷ついたり、殺されたりする。

しかし、現代ではどんなことがあっても人を殺すのは許されない行為というのが一般的です。

これは法があって、ルールがあるからで、その中に住んでいる我々はそれに従う。よって、責任がつきまとう。

今の自由というのはせいぜい責任を伴った自由であるということです。この檻の中ならば好きなことをしていいよ。でも檻から出たら許さないぜ、ってやつです。だから自由自体がちょっとうさんくさいんじゃないかなぁ。本当に自由であることには責任なんてあるわけないんだから。

あと勝手なことしたら、他人が責任とってくれることはないという意味での責任を使ってるのかもしれないです。自分のけつは自分でふけという。

でもルールや法があるから我々は安心して生きていけるのですけれど。


[42]>3 selfish zery

この言葉で考えれば(自由、と言うよりはわがまま)liberty以上にますます嘘っぽく感じるのではないかと思います。

彼は自由に行動している=彼は我儘な(好き勝手に)行動をしている

と解釈できないこともないですよね。

我儘な行動に責任が伴う。。。とは思えないので、うそっぽく感じるのではないでしょうか。


[43]ルール違反 taka27a

たま?にルール違反を見逃され(お目こぼし)、それをラッキーとする風潮があるからではないでしょうか。自由に責任、権利に義務は、私は当然だと思っていますが、やはりルールが基本です。ただ、ルール違反をしたものが全て逮捕されたり、憂き目にあったりというわけではありませんので、そういう流動性が「必ずしもそうではない」という印象、「嘘のときもある」という印象を与えるのではないでしょうか。

関連質問


●質問をもっと探す●



0.人力検索はてなトップ
8.このページを友達に紹介
9.このページの先頭へ
対応機種一覧
お問い合わせ
ヘルプ/お知らせ
ログイン
無料ユーザー登録
はてなトップ