例外というより、摂関政治を行っていた藤原氏の方が内紛を起こしている内に、後三条(摂関家との直接な繋がり無し)・白河以降の院政の体制が確立してしまったというようですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%B...
で、後三条はともかく、白河としては特別意識していたというよりは、父によって定められた皇太子(弟)が早世したのを幸いに我が子を皇太子に定め、自分の直系で皇位を占めたいために行ったことが事実上の摂関政治の終焉になったわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A...
まず、摂政、関白につくには、天皇の母の父(外戚)が藤原氏であることが慣例となっていたようです。
白河天皇の父である後三条天皇の母が藤原氏出身ではないため、ここで摂関政治が途絶えます。
白河天皇の母は藤原氏で、堀川天皇の母も藤原氏の養女です。堀川天皇の外戚藤原師実は摂政、関白職に就いています。ただ、一度途絶えた摂関政治が盛り返すこともなく院政が始まったようです。