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【交換日記の起源について】
「交換日記」というものは戦前から存在したのでしょうか。していないのなら、いつから広まったのでしょうか。そして日本だけの風習なのでしょうか。

色々と検索かけたのですが、「交換日記の起源」に関しては出てきませんでした。
西欧の風習なのかと思って英語でも調べてみましたが、"exchange diary"で検索してもあまりヒットせず、
http://en.wikipedia.org/wiki/Exchange_Diary
は、どうも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%97%A5%E8%A8%98
の翻訳のようです。

URL必須にしていますが、身内からの証言でも構いません。よろしくお願いします。

●質問者: stray_ghost
●カテゴリ:芸術・文化・歴史 生活
✍キーワード:URL 交換日記 存在 戦前 検索
○ 状態 :終了
└ 回答数 : 5/5件

▽最新の回答へ

1 ● myrmecoleon
●10ポイント

「それぞれの日常を日記を書いて知らせあう」という行為そのものは江戸時代にもあったようです。

以下は天保期に地方赴任で離ればなれになった父子が互いの近況を書いて送りあった日記です。

http://lib.city.kashiwazaki.niigata.jp/siraberu/sirabe/kasiwazak...

どちらかといえば文通に近いような気もしますね。


小学生がノートを交換して近況を伝え合うというようなコミュニケーションそのものは,やはり学校教育がはじまって以降でしょうか。

◎質問者からの返答

なるほど。ここまで遡れるとは思いませんでした。

1冊の帳面ではなく、互いに日記を書いて送りあうというものですね。

「ノートを交換して近況を伝え合う」という行為について知りたかったのですが、これはこれで興味深いですね。

ありがとうございました。


2 ● kitchensamurai
●30ポイント ベストアンサー

私は高校、大学とアメリカにおりました。日記+雑記のような形で、「ジャーナル」をつけよう、というのは

授業でもありましたし、モノカキという行為が非常に根付いている印象を受けましたけれども、

(たとえば『アンネの日記』ですね)

「交換日記」のたぐいを目にした、耳にしたことはありませんでした。

ウィキペディアの英語版も、「関連項目」に日本のアニメが出ていますので、

おそらくアニメを見て「これは何?」と思った人が多かったのでしょう。


国会図書館の蔵書で「交換日記」という語が含まれるものは、最古の例が1962年のこちらでした。

「虹子と啓介の交換日記」

http://www.geocities.jp/heartland_kaede_8456/akij04.html#akijr15...

書評によると、この「啓介」というひとが考えついた、とありますが、どうでしょうか。

「交換日記」に似た行為が「文通」です。

文通は古今東西にありましたが、参加者が頻繁に学校などで顔を合わせる状況なら、

「交換日記」に類した行為が、戦前当たりからあっても不思議はないように思います。

念のため、お近くのご年配の方に聞かれるのが良いと思います。

◎質問者からの返答

やはり外国の風習ではないようですね。

そしてそのページ、「グループ日記の秘密版のような」という説明文があるので、確かに1962年当時は一般的ではなかったのかもしれません。

もしこれが起源とすると、この「啓介」と「虹子」(本名かどうかは不明ですが)が考え出したということになりますね。

身内(大正14/1925年生まれ)に訊いたことはあるのですが、「交換日記」という言葉を初めて耳にしたのは30?40代の頃と言っていました。時期的には合致しますね。

ただ記憶があいまいなので、はっきりした典拠または他人の証言が欲しくて質問した次第です。ありがとうございました。


3 ● studioes
●15ポイント

ドストエフスキーの貧しき人々とか、交換日記っぽい雰囲気がしますが。

ちなみに、うちの祖母様(93歳)は交換日記、なんだそりゃ、と言っておりました。

http://homepage3.nifty.com/fwhj5337/Sy-list/book/nikkatsu.htm

多分、この映画で日本中に広がったのではないでしょうか?

◎質問者からの返答

ドストエフスキーは未読ですが、『貧しき人々』は書簡体小説のようですね。なるほど。

映画版『交換日記』、当初は吉永小百合さんがキャスト候補だったとのことですが、

その吉永さんの『愛と死をみつめて』(1964年)公開時、交換日記が流行ったという記述がこちらにありました。

愛と死をみつめて - goo 映画

(ただあらすじを読む限り、劇中では日記ではなく手紙だったようですが)

『交換日記』→『愛と死をみつめて』という流れで全国的に広まったという仮説も立てられますね。

ありがとうございました。

----------------------------------------

以下追記。

『愛と死をみつめて』には原作があり、当時TVドラマにもなったとか。ヒットした主題歌というのはどうもこちらのようです。

原作の内容は、

大学生河野実(マコ)と、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた大島みち子(ミコ)との、3年間に及ぶ文通を書籍化したもの

愛と死をみつめて - Wikipedia

とのこと。

特集 愛と死をみつめて[Mr.XRAY]

----------------------------------------

以下、さらなる追記です。

色々と調べてみますと、1966(昭和41)年2月に梶光夫と高田美和のデュエットによる『アキとマキ』という歌が出てヒットしたようです。

昭和流行歌一覧・19

梶 光夫

そしてこれが交換日記の歌だとのこと。

今聴くとちょっと恥ずかしい内容ですがコレ(つまり交換日記)が当時流行ってました。

青春群像いろいろ

この歌は『女性明星』(集英社)に連載されていた平岩弓枝氏の小説『アキとマキの愛の交換日記』を原作としたもので、作詞も平岩氏が手掛けています。

その小説の連載が始まったのは、おそらく1965年。1966年には掲載誌が廃刊になり、『小説ジュニア』(集英社)に移籍して完結します。

『女性明星』1965年6月号??1966年7月号→第1回?第14回

『小説ジュニア』1966年8月号?1967年3月号→第15回?最終回(第22回?)

2000年9月3日 ジュニア小説雑誌について

国内著者別一覧[ひま]小説ジュニア リスト 1966年小説ジュニア リスト 1967年

単行本は、『アキとマキの愛の交換日記』が1966年に、『アキとマキの愛の交換日記・続』が1967年に集英社より出ています。

1977年には(おそらく「正・続」を「上・下」にして)集英社コバルト文庫に収められたようです。

……ということで、なんとなく見えてきたかなと思います。

以下では『虹子と啓介の交換日記』を起源として(仮説ですが)、交換日記という風習の拡大に影響を与えたと思われる出来事を時系列で並べてみました。おそらく、この一連の流れが全国に「交換日記」という風習を広めたものと思われます。

1962(昭和37)年6月……玉井美知子・編『虹子と啓介の交換日記 裏から見た男女高校生の記録』が秋元書房より出版。ベストセラーに(?)。

1963(昭和38)年?月……日活映画『交換日記』公開。主題歌は『虹子の夢』(歌・吉永小百合/和田弘とマヒナスターズ)。

?月……大島みち子&河野実『愛と死をみつめて ある純愛の記録』が大和書房より出版。ベストセラーに。

1964(昭和39)年4月……TVドラマ『愛と死をみつめて』前後編が東芝日曜劇場にて放映。主題歌「愛と死をみつめて」(歌・青山和子)がヒット※1。

9月……日活映画『愛と死をみつめて』公開※2。主題歌は「愛と死のテーマ」(歌・吉永小百合)。

1965(昭和40)年?月……平岩弓枝「アキとマキの愛の交換日記」が『女性明星』で連載開始。

1966(昭和41)年2月……平岩弓枝作詞の『アキとマキ』(歌・梶光夫&高田美和)がヒット。

?月……『アキとマキの愛の交換日記』が集英社より出版※3。

?月……『女性明星』廃刊に伴い、「アキとマキの愛の交換日記」連載が『小説ジュニア』に移籍。

1967(昭和42)年?月……『アキとマキの愛の交換日記・続』が集英社より出版。

1977(昭和52)年10月?…『アキとマキの愛の交換日記』(上下)が集英社コバルト文庫より出版。

※1:この曲で青山和子は第6回日本レコード大賞受賞。

※2:この作品で吉永小百合は第2回ゴールデン・アロー大賞、第11回国民映画賞主演女優賞、シルバースター新人女優賞(主演女優賞?)受賞、第15回ブルーリボン大衆賞を受賞※4。

※3:この本が出たのが曲の『アキとマキ』発売前なのか、小説連載移籍後なのかは不明。

※4:国民映画賞は「週刊サンケイ」(現「SPA!」)主催の映画賞。シルバースター賞については詳細不明※5。

※5人力検索で質問してみました。【シルバースター映画賞について】

ところどころ、Web上では調べきれずに穴が空いていますが、ここまで調べられたのも回答者の皆様のおかげです。ありがとうございます。

質問はもう少し開いておきますので、訂正・追加情報あればよろしくお願いします。

また、前提とした「虹子と啓介」交換日記起源説に対する情報などもあれば嬉しいです。


4 ● adlib
●15ポイント

書簡から日記へ ? 相聞歌の本歌と返歌 ?

そもそも“交換日記”の原型は“往復書簡”から、万葉の“相聞歌”

に戻るのではないでしょうか。しかし、あまり遡っても実感が伴わない

空論になるので、わたしの経験と記憶を述べてみましょう。

はるかむかし高校時代の文芸部誌に、女性助教員の寄稿があり、同僚

教師との初のデートで「ぼくの日記を読んでほしい」と告白された、と

ありました。

なるほど、こういう手があるのか、と胸におさめて数年後、さる女性

に同じセリフを試みたところ「わたしには、読む資格がありません」と、

やんわり断わられてしまいました。

そこで手口をかえて(いまの配偶者に)連日の手紙を送りました。

(若き日の大島渚も小山明子に数百通の手紙で迫ったそうです)

かくなる結果、まさに日記のようなスタイルになったのです。

これをもって“日記”と呼ぶか“書簡”あるいは“恋文”とみるか、

いくらなんでも“相聞歌”では古色蒼然です。

古風な内容こそ、新しい名でよみがえる必要があるのです。

つぎの原作は“ミコ”生存中に映画が封切られているので、内容的に

関係はないはずですが“交換日記”という新鮮なネーミングを開発し、

ただちに継承された可能性は高いでしょう。

八木 啓介&高山 虹子・著/玉井 美知子・編《虹子と啓介の交換日記

? 裏から見た男女高校生の記録 ? 1962‥‥ 秋元書房》

和泉 雅子・主演《交換日記 19630526 日活》森永 健次郎・監督

♀大島 みち子“ミコ”19420203 兵庫 19630807 21 /“マコ”の恋人

大島 みち子&河野 実・往復書簡集《愛と死をみつめて

? ある純愛の記録 ? 196312‥ 大和書房》200412‥(新版版)

http://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%81%A8%E6%AD%BB%E3%82%92%E3%...

そして、なんといっても、テレビ・レコード・映画が三位一体となり、

あたらしい“交換日記”のイメージを決定づけたのです。

40年たってもリメイクされるほど、空前絶後の大ヒットなのです。

大空 真弓・主演《愛と死をみつめて 19640412,0419 TBS》1975再放送

青山 和子・唱《愛と死をみつめて 19640705 コロムビア》第6回レコード大賞

吉永 小百合・主演《愛と死をみつめて 19640919 日活》斎藤 武市・監督

ミコとマコの愛の記録

http://d.hatena.ne.jp/adlib/19630807

愛と死をみつめて ? 往復書簡≒交換日記 ?

◎質問者からの返答

トラックバックしていただいた方ですね。どうも。

たしかに交換日記は文通・往復書簡の発展形とも言えますし、遡ろうと思えばもっと遡れるでしょうが、ここでは「ノートを交換して近況を伝え合う」という行為について調べています。

日本での大学ノートの誕生が19世紀末なので、それが一般に普及している20世紀前半には既にあった風習なのかと思ったのですが、調べてみるとどうもそうではないらしいということで、1962年の『虹子と啓介の交換日記』が起源なのではないかというのが現在の状況です。

当初は、「エス」と呼ばれた親密な姉妹的関係が広く見られた、戦前の女学生文化の中で誕生した風習なのかと思っていましたが、調べてみると当時は文通が一般的だったようで、交換日記というものの発祥が1960年代というのは意外でした(まだ確定していませんが)。

なお、「交換日記」というものからすぐに異性との交流を連想する方もいるかもしれませんが、

1990年代に小学生から中学生、特に女子の間で流行した。

Wikipediaにもある通り、必ずしも異性同士とは限りません。

#個人的な記憶でも、女の子同士の間で流行していた覚えがあります(90年代)。

それにしても、全国に広まったのはやはりTV・レコード・映画の力が大きかったのでしょうね。

ありがとうございました。


5 ● adlib
●30ポイント

日記から文学へ ? 菊池寛の交換日記 ?

── ところで、「半自叙伝」にも、また他にも菊池は書いていないこ

とだが、高松中学時代にエピソードがある。彼は一人の下級生とまるで

女学生がするように一冊の日記を交換しては交互に書き、また「君に対

する自分の兄弟的な友情は決して変ることはない」という意味の「誓約

書」を書き、これに血判して相手に与えている。

──わたしはこの稿を書くにあたり、その曾(かつ)ての菊池の下級

生だった渋谷彰氏を小豆島に訪ねた。氏がいまも大切に所蔵している右

の「交換日記」や「誓約書」を見せてもらった。

── 松本 清張《形影 ? 菊池 寛と佐佐木 茂索 ? 198210‥ 文芸春秋

19870310 文春文庫》P22-23

1872‥‥(-16)官立女学校(東京)開校

1903‥‥(15)県立高松中学校(現県立高松高等学校)入学。

1908‥‥(20)推薦で東京高等師範学校に入学(翌年除籍)。

1910‥‥(22)第一高等学校文科に入学。

191304‥(25)一高退学(マント事件)。京都帝国大学英文学科に入学。

────────────────────────────────

191307‥(25)宝塚唱歌隊発足。

191312‥(25)宝塚少女歌劇養成会と改称。

1914‥‥(26)宝塚少女歌劇団初公演。

191807‥(30)無名作家の日記(中央公論)

191901‥(31)宝塚音楽歌劇学校設立(音楽学校と歌劇団は一体)。

江口 渙 18870720 東京 19750118 87 /?《わが文学半生記1953》

菊池 寛 18881226 香川 東京 19480306 59 /?《半自叙伝 1928-1929》

渋谷 彰 189.‥‥ 香川 /菊池 寛の下級生?《交換日記 190.》

佐野 文夫 18920418 山形 19310301 39 /共産党委員長

────────────────────────────────

佐佐木 茂索 18941111 京都 東京 19661201 72 /?《困った人達》

松本 清張 19091221 福岡 東京 19920804 82 /?《半生の記 1963-1964》

備考

高松中学時代の菊池寛と渋谷彰の“交換日記”とは、宝塚音楽学校に

発祥したという“エス”より十年以上前に書かれている。しかしながら、

当時すでに彼らが“交換日記”と名づけ、認識していたとは限らない。

松本清張が「女学生がするように一冊の日記を交換」と記したのは、

約80年後であるから、実際は、女学校以前の流行だった可能性が高い。

(いわゆる同性愛については、ほとんど当事者以外の推論によっている)

菊池寛に認められた後輩・川端康成も《十六歳の日記 1914-1915》を

十年後に公表し、茨木中学五年のとき寄宿舎長となって、同室の二年生

“清野少年”こと小笠原義人との親交を《少年 1948-1949》に記した。

Orwell, George《Nineteen Eighty-four,1949》

http://d.hatena.ne.jp/adlib/19840404

禁暦日記 ? 一九八四年四月四日 ?

◎質問者からの返答

当人同士の認識はともかく、「日記を交換する」というコミュニケーションを行っている人は戦前にもいたということですね。なるほど。ありがとうございました。

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