ルールです。
人が集まれば、ルールが出来ます。
そのルールにそぐわない場合、悪いと見なされるだけです。
そのルールが違う環境において 悪人とも善人ともなるのです。
たとえば、戦争をしている相手国のボスは、その国によっては 一番偉い人(善人)ですが、こちらの国からしてみれば 悪人ともいえます。
戦争に負けたら 戦争犯罪者として処刑されてしまいます。
>物心が付いて、自分の意志で動いているように見えても、その意志(価値観や判断力)は環境によって作られたもので、決して自分で選んだものではありません。
この前提がすでに間違っているので答えられませんね。
たとえばきょう、あなたがトイレに行ったのは、「自分の意思ではない」のでしょうか。
たとえば、この質問をしたこと自体。「自分の意思ではない」のでしょうか。
あなたが、はてなでアカウントを取ろうと思った事。「自分の意思ではない」のでしょうか。
環境要因は大きな影響であることは否めませんが、だからといって
常に「選択肢が一つしかない状況」になるであろうという前提は
どうかんがえても同意できる事ではなく、
そう信じているとすれば、あなたは何らかの宗教に没頭していて
運命論に洗脳されているとしか思えません。
尿意をもよおしたらトイレに行くという習慣、はてなでアカウントを取って質問しようという判断、これらの行動のもととなる価値観・判断力はすべて与えられたものだということを言っているのですがあまり理解されなかったようですね。残念です。
本質的な善悪というものはないと思いますが。
善と評価されたり、悪と評価されることはあると思います。
あくまで社会的もしくは集団的/個人的な評価なので、評価する対象が望むことをした人が善と評価されます。
すべての人がすべての人から評価される行動を取るのなら善も悪もなくなるでしょうが、同じことしかやらないので生物としての環境適応能力は下がるでしょう。
現在まで生き残っている私たちの行動様式は、個々評価が異なった結果なので、そのほうが(つまり行動にたいして善悪の評価がわかれるほうが)生き残りやすいのだと思います。
前提が正しいと仮定すれば、
人が人の善悪を判断するのも与えられた環境による自分の判断だと思います。
なるほど、そのとおりですね。
す?っと腹に落ちました。
そのとおりだと思います。
amjja77さんがおっしゃるように人の人生がすべて運命で決まっていたとすると、「人の善悪」というものも運命の一部分として最初から決まっているという事になると思います。
そうすると「なんで?」ときかれても「そう決まっているものはそう決まっている。」と答えるしかありません。
shinmuさんと同じく、そのとおりだと思いました。
いい人だ、悪い人だと口にする人は思慮の浅い人と考えていましたが、その判断や口にする行為も与えられたものに過ぎないということにやっと気づくことができました。
ありがとうございます。
前提が正しいとすれば・・・、決まっていたとすると・・・、とのご意見多いようですが、よろしければ私の考えに対する皆さんの意見もお聞かせください。